アリアンロット村編(全3話) 第3話 「輪の名、はじまりの旗」
夜の黒が、少しずつ薄墨に溶けていく。
森の奥で鳥の声がぱらぱらと跳ね、寝床代わりの毛布の上でアリアは目を開けた。
焚き火は、もうほとんど灰だけだ。かき寄せると、まだわずかに赤い芯が残っている。
立ち上がると、肩口の布がごわついた。
昨日ついた血と汗が完全には落ちていない。
戦いの匂いは、簡単には消えてくれないのだと、アリアは小さく息を吐いた。
柵の外では、昨日まで捕らえられていた亜人たちが新しい杭を打っていた。
かつては自分たちを繋ぐための杭。その木を、今度は自分たちの囲いに変えている。
鱗の少年が、まだ大きすぎる手斧を必死に振り下ろしている。
腕が震えて、何度も空を打つ。それでも、歯を食いしばって打つ。
コボルトの娘は、足を引きずりながら薬草を摘んでいた。
彼女の足首には昨日まで縄の痕がくっきり残り、まだ赤く腫れている。
それでも彼女は、傷薬に使える葉を見つけるたび、尻尾を少しだけ揺らした。
ハルトは焚き火跡のそばに、平たい石を幾枚も並べていた。
尖らせた石で、その上に線を刻んでいく。
森の道、沢、崖――昨日、自分たちが命を賭けて通ってきた道を、ひとつずつ指でなぞるように。
その中心で、ドッグとピピが地面にしゃがみ込んで何かを描いている。
大きな丸。その中に小さな火の印。丸の外には細い線が、いくつもいくつも伸びている。
それは――昨夜、アリアとグルーが土の上で何度も描き直した「輪」の形だった。
輪の中にある火は、この場所。
そこから伸びる線は、いつか誰かが歩いてくる道。
その線の先にいる「まだ見ぬ誰か」を、ここへ連れてくるための、道。
アリアは、自分の掌をぎゅっと握った。
まだ、剣の柄の感触が残っている。震えも、残っている。
それでも――ここから先は、奪うためではなく、守るために手を握るのだと決めた。
◇ 旗の誓い
陽が高く昇るころ、長老グルーが杖を鳴らした。
乾いた音が、柵の内側に広がる。
「集まれ」
言葉はバラバラだ。
コボルトの舌、ゴブリンの舌、人間の共通語。
すべてが一度に飛び交うが、「呼ばれた」ということだけは皆が理解している。
焚き火のそばに輪ができた。
昨日まで“捕らえられていた側”だった者たちが、今、輪の中に座っている。
縄で擦れた手首、折れた耳、青あざ――その全部が、同じ火を囲んでいた。
グルーは一人ひとりの顔をゆっくりと見回し、杖の先を土に立てた。
「ここにいる者は、もう一人きりじゃない」
彼の言葉はすべての種族に通じるものではない。
それでも、声の重さと、目の色が、意味を受け渡していく。
アリアが一歩、前に出た。
掌を胸に当てる。
昨日、張り裂けそうだった心臓が、今は静かに打っている。
「約束を決めたい」
少し喉が渇いていた。
それでも、彼女は焚き火を見据えながら、一つずつ言葉を置いていく。
「ここでは、誰も鎖で縛らない」
輪のあちこちで、手首を抱く者がいた。
縄跡をなぞりながら、うつむいた目が少しだけ上がる。
「弱い者からは、奪わない」
小さな子どもを抱きしめる母親が、腕に力を込めた。
「ここへ来た者には、まず手を差し出す。刃より先に」
ドワーフの鍛冶師バロスが、無意識に腰のハンマーに触れていた手を離した。
代わりに、隣に座る小人の娘の頭を、ぎこちなく撫でる。
沈黙。
焚き火の爆ぜる音だけが聞こえる。
つぎの瞬間、誰かが小さく頷いた。
一人。二人。輪のあちこちで頷きが連鎖する。
それは、血でかわした契約ではない。
だが、命懸けで逃げてきた者たちには、十分すぎるほど重い約束だった。
ハルトが前に出て、木の棒で地面に文字を刻んだ。
「ここは――《アリアンロット》」
土の輪の中央に、ぎこちないながらもはっきりとした文字が並ぶ。
アリアは、その名を目で追い、唇でなぞった。
「……アリアンロット」
自分の名前に似た響き。
けれど、これは自分だけの場所ではない。
輪の名。
旗の名。
胸の奥で、何かが静かに灯った。
◇ はじめての宴
日が落ちると、森のあちこちから食べ物が運ばれてきた。
森の木の実。
昨日の混乱の中で放たれた家畜のうち、どうしても戻ってこなかった一頭。
山菜。
そして、誰かがそっと置いていった干し肉。
焚き火が幾つもともされ、輪が幾重にも広がっていく。
煙が空へ昇り、焦げた脂の匂いと、土の匂いが混ざった。
コボルトの子どもたちは尻尾を振りながら輪の間を走り回り、
ゴブリンの子どもたちは葉っぱで作った笛を吹き鳴らす。
音程はめちゃくちゃだが、誰も眉をしかめたりしない。
狼耳の少女シルとハルトは、慣れない手つきで薬草を刻んでいた。
包丁代わりの刃物に指をひっかけ、シルが「きゃっ」と声を上げる。
「大丈夫か!」
ハルトがあわてて彼女の指をつかむ。
傷は浅い。アリアが横から布を差し出すと、ピピがなぜか胸を張った。
「ほら見ろ、だから言っただろ。草を刻むより俺の笛の方が――」
シルが涙目のまま、ピピの頭を平手で叩いた。
その様子に、輪のあちこちから笑いがこぼれる。
アリアは囲炉裏がわりの大きな焚き火のそばで、年長の女たちと並んで串をひっくり返していた。
片側を焦がしてしまうたび、「あっ」と声が漏れる。
「焦げたところは削ればいいさ。中まで黒くなってなきゃ、大丈夫」
皺だらけの手をした女が笑い、器用にナイフを動かして焦げを削って見せる。
アリアはその手の動きを、剣の稽古のように真剣に見つめた。
輪の少し外側で、グルーは黙って夜空を仰いでいる。
彼の瞳には焚き火の光が映り、その光は若いころと変わらない熱を持っていた。
「お前たちの輪は、ここで終わらない」
彼が実際にそう口にしたわけではない。
ただ、その背中がそう言っている気がした。
◇ 新しい朝
翌朝、冷たい風が森を抜けた。
宴の跡には、焼けた骨と、灰と、足跡が残っている。
アリアは高台に立ち、遠くの山脈を見つめた。
ここはまだ、小さな柵といくつかの焚き火があるだけの場所だ。
だが、昨日までの「ただの隠れ家」ではない。
「この輪は、大きくなる」
自分で自分に言い聞かせた言葉は、不思議と反論しようのない重さを持っていた。
背後から足音が近づく。
振り向くと、ハルトが粗末な木板を抱えて立っていた。
「これ、見てくれるか」
板の上には、ぎっしりと線が刻まれていた。
森の道、川の流れ、崖の位置。
彼らが駆け抜けた命綱のような道筋が、そこにある。
「ここが今いる場所。その周りの森、抜け道、沢……全部記した。
いつか、外に散った仲間をここへ導く時のために」
ハルトの声は少し震えていたが、目だけは真っすぐだった。
アリアは木板を受け取り、指で線をなぞる。
「ありがとう、ハルト。……その時、この地図が“旗”になる」
旗布がなくてもいい。
この線を知る者が増えれば増えるほど、この場所に戻ってくる者が増える。
遠くで、ピピやシルたちの笑い声がはじけた。
ドッグが槍を肩に担ぎ、森の入口で軽く顎を上げる。
誰かが外へ出て行き、誰かが帰ってくる――そういう日々が、もう始まりつつあった。
◇ 旗の下で
その夜、再び焚き火が燃えた。
昨日よりも輪は大きく、座る者も増えている。
アリアは輪の中心で立ち上がり、掌を胸に当てた。
「この火を、絶やさない」
一人一人の顔を見ながら、ゆっくりと言う。
「どれだけ遠くへ出て行っても、帰る場所はここにある。
もし道で倒れた仲間がいたら、その名を火のそばで呼ぶ。
ここで食べて、ここで眠った者は、皆……この輪の“仲間”だ」
言葉の意味が全部は通じなくても、焚き火の揺らぎと一緒に、想いだけは伝わっていく。
ドッグが槍の石突を地面に軽く打ちつけた。
それが合図になって、輪のあちこちで手が上がる。
拳を握る者。掌を見せる者。胸に当てる者。
輪の名は旗になり、旗は心になった。
この日――
《アリアンロット》は、「輪」の名を持つ場所として、森に初めて根を下ろした。
森を抜ける風が、焚き火の煙をやさしく攫っていく。
まだ小さな輪。しかし、この輪がやがて大陸中に広がり、多くの命をつなぐことを、この時のアリアはまだ知らなかった。




