冬編 第六話 海の民との仮協定
1.凪の朝、鐘は三つ
雪の切れ間。空は薄く晴れ、川面に冬の光が縫い目のように走っていた。
見張り台の上でハルトが深呼吸し、紐を握る。
「——行きます」
キン、キン、キン。
短く三度。〈アリアンロッド〉の“海からの来訪”の合図だ。
ほどなく、浅瀬の氷が静かに割れ、銀の髪が水面に現れた。ヨゴリィ。
それに続いて、滑らかな背びれをもつジャイカが姿を見せる。
最後に、深い色をまとった人魚——ナーサイ。彼女の傍らで、半透明の丸い影ワィが、ふわりと光った。
広場に集まった面々の先頭で、アリアは一歩進み出た。
「ようこそ。凪の朝は、良い“始まりの日”です」
ナーサイの目に微笑が宿る。
「海と陸が、同じ呼吸をする朝だね」
オリビエは静かに頷き、シャルルは帳面と羽根筆を整える。
ハルトはその隣で板を抱え、刻みの準備を整えた。
「本日の議題、往来の道、合図、物資の交換、病と火の対策の共有、そして——歌」
最後の一語に、ヨゴリィが嬉しそうに手を振る。
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2.往来の道と合図の取り決め
ジャイカが浅瀬の地形を指し示す。
「川の下手の曲がり角に、砂の筋がある。冬は薄氷、春は増水。通るなら、ここ」
フェルナは頷き、風の向きを確かめる。
「風の抵抗が少ない。鐘の音も届きやすいわ」
シャルルが要点をまとめる。
•往来の道:川の下手の浅瀬を標準航路とする。
•季節:冬は氷割りが必要。作業前に合図を出す。
•合図:
- 来訪=短く三度。
- 支援要請=長く二度、間を置いて一度。
- 氷割り開始=短く一度、長く一度。
•旗(風が強い時):
- 青=往来中。
- 赤二枚=危険(火・強風・氷割り中の接近禁止)。
- 白=異常なし。
ワィがぽう、と三度、少し間を置いて一度光る。
(来訪、支援要請の復唱——のように見える)
子どもたちが「覚えた!」と小さく拳を握った。
ハルトは四角を刻み、束を作り、線を引く。
「往来:三、支援:二・一、氷割り:一短・一長……よし」
シャルルが横目で見て、短く褒める。
「視える帳だ。良い」
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3.物資の交換——分け合いの形
ピピが台の上に板札(※木の札)を並べ、交換の基準を読み上げる。
「穀物一袋につき海塩ひと壺。干物は重量で等分、真珠や貝細工は“冬三十日の灯”に相当——」
ヨーデルがすかさず手を上げる。
「質問! “冬三十日の灯”って何?」
シャルルが答える。
「焚き火を三十日維持するのに必要な薪と油の目安だ。灯は命に直結する。等価を灯で捉えるのは、冬のやり方」
ジャイカが感心したように頷く。
「海でも“潮の配分”で考える。干潮のときは一度に取りすぎない。緩やかに、長く」
ナーサイが続ける。
「だから“今日全部”はいらない。続く約束のために、残す。——それが海のやり方でもある」
アリアは短く結んだ。
「“足りるだけ、続くまで”。これを交換の芯にしましょう」
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4.病と火の共有(ふたつの守り)
カテリーナが薬草を広げ、束ねた記録を差し出す。
「冬の咳と熱に効いた配合。煮出し時間、回数、子どもの量。全部まとめたわ。海でも役立つはず」
ナーサイは真剣に受け取り、胸に当てた。
「海の子らに渡す。潮風の冷えは、陸と似ている」
次に、火の扱い。
フェルナが指を一本立てる。
「風が強い日は、焚き火の数を“半分”。旗は赤一枚を掲げる。くべる役は交代制」
オリビエが低く補う。
「火の周りには『一人で立たない』。必ず二人以上で見張る」
ピピが大きく頷く。
「倉庫の近くの火は、細い薪のみ。太い薪は禁止!」
ワィが一瞬、赤く灯り、すぐ緑へ。
(危険→落ち着いた、の合図だろう)
子どもたちが小声で復唱する。
「赤は近づかない、緑は落ち着いた」
シャルルは要点だけを淡々と記す。
「病:配合の共有。火:数の制限、見張り二人、旗の運用。……抜けなし」
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5.ふれない約束、学ぶ約束
ルーンが一歩出て、子どもたちと向き合った。
「大事な約束をもう一つ。“見て学ぶ、でも触らない”」
視線は自然にワィへ流れる。
ルーンは優しく続ける。
「ワィは美しいけれど、触ると痛い。だから好きでも、手は伸ばさない。合図は光で見る」
ワィは恥ずかしそうに、淡く、二度だけ灯った。
リマが頷き、手振りを見せる。
「舞の前に、川辺の約束を唱えよう。“見る、聞く、伝える。——手は伸ばさない”」
子どもたちが声をそろえる。
小さく、しかし確かな輪の音。
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6.歌と鐘——橋をかける
「合意の印に、歌を」
ヨゴリィが川縁で息を整えると、バロスが鍋の柄杓で軽い拍を打つ。
ゴブリンの太鼓、獣人の笛(今日は来訪に合わせて代表が少数)、子どもたちの合唱。
ジャイカは胸の前で手を合わせ、海の節をひとつ重ねた。
——波が寄せ、雪が積もり、灯がともる。
——鐘は三つ、支援は二つと一つ。
——取りすぎず、残し合い、春へ流す。
歌に合わせて、ハルトが見張り台で短く三度、鐘を打つ。
キン、キン、キン。
雪に吸われず、森に届く、素直な音。
シャルルは歌詞の一部を帳面の端に写しながら、ぽつりと言った。
「歌で覚える決まりは、忘れにくい」
アリアがうなずく。
「子どもも、年寄りも、皆で口ずさめるから」
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7.仮協定の言葉
話し合いは昼から夕まで続き、焚き火に最初の火がつくころ、最後の文言が整った。
シャルルが読み上げ、アリアとナーサイが向かい合う。
•往来の道を定め、合図と旗を合わせること。
•物資は「足りるだけ、続くまで」を基準に、灯を目安に分け合うこと。
•病と火の対策を分かち、記録を交わすこと。
•子らには「見る・聞く・伝える。手は伸ばさない」を約束として教えること。
•春の初めに、もう一度集まり、“続けるための見直し”を行うこと。
「これは、正式な盟約の手前。——仮の取り決め」
ナーサイが言い、アリアが続ける。
「仮は弱くない。続けるための形。やがて本当の橋になる」
二人は右手を重ね、左手で胸を押さえた。
ヨゴリィが小さく口笛を鳴らし、ワィが緑に灯る。
ジャイカは冬の空を見上げ、薄い雲の向こうの星へ視線を流した。
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8.小さな失敗、小さな成長
「——あっ!」
鐘楼の脇で、ハルトが帳を落としかけた。慌てて掴み、胸に抱える。
シャルルが横から支え、静かに言う。
「大丈夫。落ちる前に掴めば、記録は残る」
ハルトは照れて笑い、尾は——いや、尾はもう揺れない(彼は人間だ)。代わりに足が小さく跳ねた。
「次は落としません!」
シルが屋根から顔を出し、片目をつむる。
「落ちそうなら、呼べ。跳んで拾ってやる」
フェルナは風を柔らかくし、焚き火の炎をちょうど良い高さに整えた。
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9.灯の前の言葉
オリビエが立ち上がり、短く告げる。
「冬は長い。だが、鐘があり、記録があり、歌がある。
——そして、友がいる」
誰もが頷いた。頷き方は違っても、灯に向ける眼差しは同じだった。
アリアはナーサイを見た。
「次は春。もう少し大きな橋をかけましょう」
ナーサイは微笑む。
「海は流れ、陸は積む。——橋は、その真ん中にかかる」
ヨゴリィが手を振る。
「春一番の歌、用意しておくから!」
ワィがぽう、と二度灯り、三度目は少し長い。
子どもたちが小声で言う。「またね、の合図だ」
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10.雪は静かに、灯はつよく
海の民が水へ戻るころ、初雪よりも細かい粉雪が舞い始めた。
見張り台でハルトが最後の四角に刻みを入れ、シャルルが帳面を閉じる。
ピピは倉庫の鍵を確かめ、バロスは火床に蓋をかぶせ、カテリーナは薬草の束を吊した紐をもう一度締め直す。
ルーンはバディの首を撫で、リマは子どもの肩へ毛布をかけた。
シルは屋根から軽く降り、フェルナは風の道を細く閉じる。
アリアは焚き火の前に立ち、短く言う。
「橋は、もうかかった。——あとは渡り続けるだけ」
灯は強すぎず弱すぎず、冬の夜にちょうどよく燃えた。
雪は静かに降り、〈アリアンロッド〉の輪郭をいっそう柔らかく包んだ。
(冬編 第六話・了)




