アリアンロット村編(全3話) 第2話「襲撃と反撃」
夜明け前の森は、息を潜めていた。
湿り気を含んだ風が草の穂を後ろへ撫で、わずかな獣道だけが薄灰色に浮いている。
アリアは倒木に地図代わりの線を刻み、輪になって腰をかがめるゴブリンたちへ視線を走らせた。
斥候の若者が指で土を叩いて示す――山賊の根城は北東、二つの沢が合流する崖のくぼみ。入口は一つ、見張りは三。檻が二つ。火床が中央にあり、炊煙の抜け道は洞の上に穿たれている。
長グルーが杖をとんと鳴らし、短い言葉を落とす。
ドッグは槍の石突で「入口」「見張り台」「檻」を素早く丸で囲み、最後にアリアを見た。
アリアは頷いた。
「三つに分かれる。騒がせる組、見張りを眠らせる組、そして檻を開ける組。……私は檻へ行く」
言葉は通じない。だから視線で、手で、体の向きで伝える。
ゴブリンたちの呼吸が一拍そろい、輪の中央で火が小さくはぜた。
ピピが端で目を光らせている。
アリアは彼(彼女)の前でしゃがみ、指先で丸を描いてから胸に当てる――「ここに」「戻る」。
ピピは渋い顔をしたが、グルーの一瞥で小さく肩をすくめ、頷いた。
刃は、置いていく。
アリアは縄と木針、短い棒手裏と、布で包んだ砂袋だけを腰に差した。
止めるために行く。奪わず、終わらせるために。
◇
太陽が梢の背で赤く丸くなる頃、沢沿いの陰へ三つの影が散った。
ドッグの組は外へ回り、馬(に相当する獣)と荷具を解いて森へ追い込む役。
若い二人は、見張り台の足元に仕掛けた鳴子の縄を持ち、合図で引く。
アリアは湿った岩肌に体を這わせ、洞窟の吐き出す炊煙を仰いだ。上方の煙抜き――そこが近道だ。
岩の割れ目に指をかけるたび、脇腹の古傷が疼く。
息を短く数え、重心を刻む。登攀とは力でなく、置き場の連続だ。
苔の匂い、湿った石のひんやり。手がかりが途切れる寸前、指先に縁が触れた。
煙抜きの縁。アリアは静かに顎を引き、洞内を覗く。
粗末な梁、吊るされた獣肉、火床の上で煮える鍋。
檻は奥へ寄せられ、麻縄の結び目が二つ、鍵の代わりをしている。
檻の中――狼耳の小さな子ら、鱗の生えた腕を抱える少年、丸い頬の小人の娘。そして、壁際に背を凭もたせる人間の青年。
痩せてはいるが、目は死んでいない。
(間に合う)
遠くで鳴子が鳴った。短く二度。
見張り台が「おい」と声を上げ、続けて獣のいななきと怒声が重なる。
外側へ意識が向いた、その一拍。アリアは煙抜きからするりと落ち、梁に指をかけて重さを流し、火床の縁へ猫のように膝をついた。
最初の男が振り向く。
アリアは踏み込みを待つ。
柄を握った腕が上がる、その肩が先に固まる。その瞬間だけ、相手は自分の重さを見失う。
軽く袖口を摘み、半月に導く――「ぽん」と、男は自分の足で地に座った。
鍋がぐらりと揺れ、湯気が爆ぜる。怒鳴り声。立ち上がる影。
「静かに」
言葉は通じないが、声の落ち着きは伝わる。
アリアは火床を背に檻へ滑り、麻縄の結びを木針で解き始めた。
動きは速く、指先は柔らかい。硬い結び目を回す――解ける。
内側から伸びた小さな手が、鉄格子を掴む。狼耳が震え、潤んだ目が彼女を見上げる。
アリアは頷き、指先で「待て」の輪を描いた。
「ぎゃあッ!」
外で叫び。森で暴れる獣。追う足音。
ドッグの低い吠え声が、風に混じって届く。
檻が一つ開いた。
アリアは素早く子らを檻から廊下の陰へ送り、布で口元を押さえさせる。
次、もう一つ。
その背後で、ぬるりと黒い影が伸びた。
短剣使いの山賊――ネイム。
洞窟の暗がりに馴れた目を炯炯と光らせ、短い刃を逆手に握って近づく。
アリアは振り向かない。針にかけた結び目へ意識を保ちながら、足で情報を受け取る。
砂の移動、呼吸の波。右側。距離二歩。
刃が肩口へ滑り込む――その前に、アリアはわずかに軸を落とした。
刃の軌道が空を切る。
彼女はネイムの手首ではなく、肘の外側に指を添え、そのまま大きな円の外へ送る。
男の体は自分の勢いに乗って回り、足が流れて炉端へ膝をぶつける。
「ぐっ」と短い声。
アリアはその間に結びを解き、檻の閂を抜いた。
「出て」
狼耳の子、鱗の少年、小人の娘を順に手で包み、陰へやる。
壁際の青年――人間の青年が、信じられないという顔で立ち上がりかける。
縛られた手。口の布。アリアは指先で布を引き、短い棒で手首の絡みを回して外した。
「動ける?」
青年はのどを震わせた。
「 あ、ああ……俺はハルト。……あなたは?」
「アリア。後で」
その時、洞の入口で影が割れた。
戦斧を担いだ大男――ガルドだ。
野太い怒声とともに戦斧が弧を描き、洞内の空気が一気に重くなる。
外の陽が背に射し、汗に光る筋肉が膨らむ。顔には古い傷跡。唇の端が獣のように歪む。
アリアは一歩、ただの一歩を引いた。
足裏の土、火床の縁の高さ、梁の位置。
斧が胸を裂く軌道に乗る――
彼女は斧そのものを受けない。柄の中ほどに一指だけ触れ、重みの「逃げ道」を斜め下に描く。
斧が外へ外れ、ガルドの肩が自分で落ちる。
その落ちた肩の上に、アリアは置く。手を、ほんの少し。
音は派手でも、やっていることは単純だ。
重心を返す。止める。倒すのではない。
ガルドが膝を打ち、怒声が喉でちぎれた。
ネイムが背後から飛びかかる。
アリアはハルトを押して陰へ送り、ネイムの手の甲に砂袋を置く。
力は入れない。置けば、相手が自分で力を入れる。その先で、関節は勝手に止まる。
短剣が床に転がり、ネイムの体が「く」の字に折れた。
「今だ!」
アリアの短い声に、洞の外から低い合唱が答える。
ドッグたちが入口を塞ぎ、棍棒が木の根を叩くようなテンポで鳴った。
見張りが二人、外で転ぶ。
ガルドが最後の吠えを上げて突っ込む。
アリアは彼の胸に掌を添え、押さずに軸を通す。
巨体が床を滑り、火床の反対側で息を吐いた。
「縛る」
アリアはハルトに短い縄を投げ、顎で示す。
青年は一瞬戸惑ったが、次の瞬間にはもう手が動いていた。
上手い結び目だ。書記の指は、学ぶのが速い。
◇
外の光が洞へ柔らかく流れ込む。
檻は空になり、子どもたちは互いの手を確かめ合っている。
鱗の少年が、アリアの袖を掴んだ。「ありがとう」――この言葉だけは、発音が近い。
アリアは微笑み、彼の頭頂の小さな鱗をそっと撫でた。
ドッグが入口に立ち、鼻で風を嗅ぐ。危険の匂いは薄い。
アリアはガルドとネイムの手足に縄をかけ、洞の柱に結びを残す。ほどけない、でも食い込まない結び。
外へ出る前、彼女は一度だけ振り返った。
煮えすぎた鍋、散らばった盃。
剣を振らずに終わらせた場には、奇妙な静けさが残る。
それは敗北の匂いではなく、力の向きが変わった後に漂う“余韻”だ。
◇
戻りの列は長かった。
小さな足、小さな尾、短い息。途中で抱き上げ、背に負い、手を繋ぐ。
ハルトは息を切らしながらも最後尾で周囲を見張り、時々、後ろを振り返って道の形を目に刻んだ。
アリアは斜面の向こうを顎で示す。
「すぐそこ。……安心できる火がある」
柵が見えた時、ピピが誰よりも早く飛び出した。
彼(彼女)は走りながら両手を振り、「おかえり」の仕草を何度も繰り返す。
中から女たちが出てきて、子らを抱き、互いの背を叩いた。
泣き声と笑い声が一度にあがる。
グルーは杖を掲げ、静かに頷いた。その目は、湿っていた。
焚き火が増えた。
草の汁と獣脂の匂いが混ざり合い、ぐつぐつと音を立てる鍋の周りに、救われた者たちが輪を作る。
小人の娘は器用に木椀を並べ、鱗の少年は火の加減を見て薪を足した。
アリアはハルトの手首の擦り傷に薬草をあて、布で軽く巻く。
「ありがとう。俺は旅の書記見習いだ。地名と道筋を集めていたら、山賊に捕まってね。……助かった」
「よく動けていた。結びも早い。きっと役に立つ」
ハルトは苦笑した。「役に、立てるだろうか。俺、人と違って剣は駄目で」
「剣なんて、要らないさ」
アリアは焚き火の向こうの輪を見た。
「ここでは、剣より先に、手を出す」
夜が深くなるほど、輪はきつくなる。
ドッグは焚き火の縁に槍を寝かせ、静かに椀をすすった。
ピピは救われた子らに自分のどんぐり袋を見せびらかし、みんなの笑いを誘う。
グルーは輪の外で杖をつき、星を仰いだ。その横にアリアが並ぶ。
「次だ」
アリアが言う。
「この子たちを匿まい、食を分け、守るための“形”が要る。見張り、合図、道具、役割。……そして、約束が」
グルーは目を細め、ゆっくり頷いた。
彼は杖の先で土に印を描く。丸い輪。その輪から外へ向かって伸びる短い線がいくつも。
輪の中の点――火を示す小さな点がひとつ。
アリアはその輪の脇に、もうひとつ小さな輪を描いた。
「ここに来る者、ここから出る者。行き交いが増える。だから、掟を明るくする。暗い掟は、不安を呼ぶ」
彼女は指を三本立てた。
「一つ。ここで、誰も奴隷にしない。誰も鎖でつながない。
二つ。取引は輪の真ん中で行う。弱い者からは取らない。
三つ。新しく来た者には、まず水と食べ物を出す。刃より先に、手を差し出す」
グルーの喉が小さく鳴り、ゴブリンたちの輪でさざ波のように頷きが広がる。
救われた亜人たちも、その簡潔さに安堵の息を漏らした。
ハルトは焚き火越しにアリアを見つめる。
「……どんな旗よりも、強い約束だ」
アリアは笑った。
「旗は、いずれ誰かが持つだろう。今は、輪を」
その時、柵の外でかすかな足音がした。
ドッグが素早く立ち、槍に手を伸ばす。
暗がりから一人、エルフの女が現れた。背が高く、肩には布包み。瞳は警戒に尖っているが、腰の低さは礼を知っている証だ。
彼女は両手をあげ、ゆっくり言った。
「私はフェルナ、コボルトの里の者だ。子らが戻ったと聞いた。……礼を言いに来た」
輪がざわめき、ピピが「おお」と声を上げる。
フェルナは焚き火の前に膝を折り、アリアの方へ顔を上げた。
「ここは、名もない森のはずれ。なのに“帰ってくる”場所みたく温かい。……あんたは、ここをどう呼ぶ?」
アリアは返事に迷って、焚き火の炎を見た。
輪の中にある小さな火。
輪の外へ伸びる、いくつもの細い線。
帰ってきた子ら。集まる息。交わる手。
言葉は、もう喉の手前まで来ている。
けれど、それを口にするのは、今ではない。
アリアは首を横に振り、微笑んだ。
「今はまだ“火の輪”。……名前は、皆で決めよう」
フェルナは穏やかに笑い、腰の包みを開いた。
乾かした肉、堅いパン、薬草。
「礼だ。少ないが、受け取ってくれ」
グルーが杖を鳴らし、輪の隙間が自然に広がる。
新しい席が一つ、焚き火のそばにできた。
◇
深夜。
火が落ち、子どもたちの寝息が重なり合うころ、アリアは一人、柵の上に座った。
星は濃く、風は細い。遠くの黒い斜面には、もはや松明の影もない。
(刃を使わずに、ここまで来られた。――だが、これからは“来る側”になる)
迎えるだけでは守れないものがある。
輪を輪のまま保つには、輪の外へも手を伸ばし、道を繋ぎ、危ういところに呼吸を通さなければならない。
足元で木の皮が軽く鳴った。
ドッグだ。
彼は言葉を持たないかわりに、短く地面を蹴って身を起こし、アリアの隣に腰を下ろす。
夜目が利くその横顔は静かで、火の残り紅が瞳に小さく映った。
アリアは低く問う。
「行けるか」
ドッグはほんの少し顎を上げた。
“ああ”。
それだけで十分だった。
アリアは結び目のない輪――自分の帯に縫い込んだ、小さな輪の刺繍を指でなぞる。
奪わず、流し、結ぶ。
ここから先の一歩が、輪を名にする。
静かな夜が、頷いたように思えた。
(つづく → 第3話「輪の名、はじまりの旗」)




