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女騎士の独り旅!  作者: 和泉發仙


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アリアンロット村編(全3話) 第2話「襲撃と反撃」


夜明け前の森は、息を潜めていた。

湿り気を含んだ風が草の穂を後ろへ撫で、わずかな獣道だけが薄灰色に浮いている。


アリアは倒木に地図代わりの線を刻み、輪になって腰をかがめるゴブリンたちへ視線を走らせた。

斥候の若者が指で土を叩いて示す――山賊の根城は北東、二つの沢が合流する崖のくぼみ。入口は一つ、見張りは三。檻が二つ。火床が中央にあり、炊煙の抜け道は洞の上に穿たれている。


長グルーが杖をとんと鳴らし、短い言葉を落とす。

ドッグは槍の石突で「入口」「見張り台」「檻」を素早く丸で囲み、最後にアリアを見た。


アリアは頷いた。

「三つに分かれる。騒がせる組、見張りを眠らせる組、そして檻を開ける組。……私は檻へ行く」

言葉は通じない。だから視線で、手で、体の向きで伝える。

ゴブリンたちの呼吸が一拍そろい、輪の中央で火が小さくはぜた。


ピピが端で目を光らせている。

アリアは彼(彼女)の前でしゃがみ、指先で丸を描いてから胸に当てる――「ここに」「戻る」。

ピピは渋い顔をしたが、グルーの一瞥で小さく肩をすくめ、頷いた。


刃は、置いていく。

アリアは縄と木針、短い棒手裏と、布で包んだ砂袋だけを腰に差した。

止めるために行く。奪わず、終わらせるために。



太陽が梢の背で赤く丸くなる頃、沢沿いの陰へ三つの影が散った。

ドッグの組は外へ回り、馬(に相当する獣)と荷具を解いて森へ追い込む役。

若い二人は、見張り台の足元に仕掛けた鳴子の縄を持ち、合図で引く。

アリアは湿った岩肌に体を這わせ、洞窟の吐き出す炊煙を仰いだ。上方の煙抜き――そこが近道だ。


岩の割れ目に指をかけるたび、脇腹の古傷が疼く。

息を短く数え、重心を刻む。登攀とは力でなく、置き場の連続だ。

苔の匂い、湿った石のひんやり。手がかりが途切れる寸前、指先に縁が触れた。


煙抜きの縁。アリアは静かに顎を引き、洞内を覗く。


粗末な梁、吊るされた獣肉、火床の上で煮える鍋。

檻は奥へ寄せられ、麻縄の結び目が二つ、鍵の代わりをしている。

檻の中――狼耳の小さな子ら、鱗の生えた腕を抱える少年、丸い頬の小人の娘。そして、壁際に背を凭もたせる人間の青年。

痩せてはいるが、目は死んでいない。


(間に合う)


遠くで鳴子が鳴った。短く二度。

見張り台が「おい」と声を上げ、続けて獣のいななきと怒声が重なる。

外側へ意識が向いた、その一拍。アリアは煙抜きからするりと落ち、梁に指をかけて重さを流し、火床の縁へ猫のように膝をついた。


最初の男が振り向く。

アリアは踏み込みを待つ。

柄を握った腕が上がる、その肩が先に固まる。その瞬間だけ、相手は自分の重さを見失う。

軽く袖口を摘み、半月に導く――「ぽん」と、男は自分の足で地に座った。


鍋がぐらりと揺れ、湯気が爆ぜる。怒鳴り声。立ち上がる影。


「静かに」


言葉は通じないが、声の落ち着きは伝わる。

アリアは火床を背に檻へ滑り、麻縄の結びを木針で解き始めた。

動きは速く、指先は柔らかい。硬い結び目を回す――解ける。

内側から伸びた小さな手が、鉄格子を掴む。狼耳が震え、潤んだ目が彼女を見上げる。

アリアは頷き、指先で「待て」の輪を描いた。


「ぎゃあッ!」


外で叫び。森で暴れる獣。追う足音。

ドッグの低い吠え声が、風に混じって届く。


檻が一つ開いた。

アリアは素早く子らを檻から廊下の陰へ送り、布で口元を押さえさせる。

次、もう一つ。


その背後で、ぬるりと黒い影が伸びた。

短剣使いの山賊――ネイム。

洞窟の暗がりに馴れた目を炯炯と光らせ、短い刃を逆手に握って近づく。


アリアは振り向かない。針にかけた結び目へ意識を保ちながら、足で情報を受け取る。

砂の移動、呼吸の波。右側。距離二歩。


刃が肩口へ滑り込む――その前に、アリアはわずかに軸を落とした。

刃の軌道が空を切る。

彼女はネイムの手首ではなく、肘の外側に指を添え、そのまま大きな円の外へ送る。

男の体は自分の勢いに乗って回り、足が流れて炉端へ膝をぶつける。

「ぐっ」と短い声。

アリアはその間に結びを解き、檻の閂を抜いた。


「出て」


狼耳の子、鱗の少年、小人の娘を順に手で包み、陰へやる。

壁際の青年――人間の青年が、信じられないという顔で立ち上がりかける。

縛られた手。口の布。アリアは指先で布を引き、短い棒で手首の絡みを回して外した。


「動ける?」


青年はのどを震わせた。

「 あ、ああ……俺はハルト。……あなたは?」


「アリア。後で」


その時、洞の入口で影が割れた。


戦斧を担いだ大男――ガルドだ。

野太い怒声とともに戦斧が弧を描き、洞内の空気が一気に重くなる。

外の陽が背に射し、汗に光る筋肉が膨らむ。顔には古い傷跡。唇の端が獣のように歪む。


アリアは一歩、ただの一歩を引いた。

足裏の土、火床の縁の高さ、梁の位置。

斧が胸を裂く軌道に乗る――


彼女は斧そのものを受けない。柄の中ほどに一指だけ触れ、重みの「逃げ道」を斜め下に描く。

斧が外へ外れ、ガルドの肩が自分で落ちる。

その落ちた肩の上に、アリアは置く。手を、ほんの少し。

音は派手でも、やっていることは単純だ。

重心を返す。止める。倒すのではない。


ガルドが膝を打ち、怒声が喉でちぎれた。

ネイムが背後から飛びかかる。

アリアはハルトを押して陰へ送り、ネイムの手の甲に砂袋を置く。

力は入れない。置けば、相手が自分で力を入れる。その先で、関節は勝手に止まる。

短剣が床に転がり、ネイムの体が「く」の字に折れた。


「今だ!」


アリアの短い声に、洞の外から低い合唱が答える。

ドッグたちが入口を塞ぎ、棍棒が木の根を叩くようなテンポで鳴った。

見張りが二人、外で転ぶ。

ガルドが最後の吠えを上げて突っ込む。

アリアは彼の胸に掌を添え、押さずに軸を通す。

巨体が床を滑り、火床の反対側で息を吐いた。


「縛る」


アリアはハルトに短い縄を投げ、顎で示す。

青年は一瞬戸惑ったが、次の瞬間にはもう手が動いていた。

上手い結び目だ。書記の指は、学ぶのが速い。



外の光が洞へ柔らかく流れ込む。

檻は空になり、子どもたちは互いの手を確かめ合っている。

鱗の少年が、アリアの袖を掴んだ。「ありがとう」――この言葉だけは、発音が近い。

アリアは微笑み、彼の頭頂の小さな鱗をそっと撫でた。


ドッグが入口に立ち、鼻で風を嗅ぐ。危険の匂いは薄い。

アリアはガルドとネイムの手足に縄をかけ、洞の柱に結びを残す。ほどけない、でも食い込まない結び。

外へ出る前、彼女は一度だけ振り返った。

煮えすぎた鍋、散らばった盃。

剣を振らずに終わらせた場には、奇妙な静けさが残る。

それは敗北の匂いではなく、力の向きが変わった後に漂う“余韻”だ。



戻りの列は長かった。

小さな足、小さな尾、短い息。途中で抱き上げ、背に負い、手を繋ぐ。

ハルトは息を切らしながらも最後尾で周囲を見張り、時々、後ろを振り返って道の形を目に刻んだ。


アリアは斜面の向こうを顎で示す。

「すぐそこ。……安心できる火がある」


柵が見えた時、ピピが誰よりも早く飛び出した。

彼(彼女)は走りながら両手を振り、「おかえり」の仕草を何度も繰り返す。

中から女たちが出てきて、子らを抱き、互いの背を叩いた。

泣き声と笑い声が一度にあがる。

グルーは杖を掲げ、静かに頷いた。その目は、湿っていた。


焚き火が増えた。

草の汁と獣脂の匂いが混ざり合い、ぐつぐつと音を立てる鍋の周りに、救われた者たちが輪を作る。

小人の娘は器用に木椀を並べ、鱗の少年は火の加減を見て薪を足した。


アリアはハルトの手首の擦り傷に薬草をあて、布で軽く巻く。

「ありがとう。俺は旅の書記見習いだ。地名と道筋を集めていたら、山賊に捕まってね。……助かった」

「よく動けていた。結びも早い。きっと役に立つ」

ハルトは苦笑した。「役に、立てるだろうか。俺、人と違って剣は駄目で」

「剣なんて、要らないさ」

アリアは焚き火の向こうの輪を見た。

「ここでは、剣より先に、手を出す」


夜が深くなるほど、輪はきつくなる。

ドッグは焚き火の縁に槍を寝かせ、静かに椀をすすった。

ピピは救われた子らに自分のどんぐり袋を見せびらかし、みんなの笑いを誘う。

グルーは輪の外で杖をつき、星を仰いだ。その横にアリアが並ぶ。


「次だ」

アリアが言う。

「この子たちを匿まい、食を分け、守るための“形”が要る。見張り、合図、道具、役割。……そして、約束が」


グルーは目を細め、ゆっくり頷いた。

彼は杖の先で土に印を描く。丸い輪。その輪から外へ向かって伸びる短い線がいくつも。

輪の中の点――火を示す小さな点がひとつ。

アリアはその輪の脇に、もうひとつ小さな輪を描いた。


「ここに来る者、ここから出る者。行き交いが増える。だから、掟を明るくする。暗い掟は、不安を呼ぶ」


彼女は指を三本立てた。

「一つ。ここで、誰も奴隷にしない。誰も鎖でつながない。

 二つ。取引は輪の真ん中で行う。弱い者からは取らない。

 三つ。新しく来た者には、まず水と食べ物を出す。刃より先に、手を差し出す」


グルーの喉が小さく鳴り、ゴブリンたちの輪でさざ波のように頷きが広がる。

救われた亜人たちも、その簡潔さに安堵の息を漏らした。

ハルトは焚き火越しにアリアを見つめる。

「……どんな旗よりも、強い約束だ」


アリアは笑った。

「旗は、いずれ誰かが持つだろう。今は、輪を」


その時、柵の外でかすかな足音がした。

ドッグが素早く立ち、槍に手を伸ばす。

暗がりから一人、エルフの女が現れた。背が高く、肩には布包み。瞳は警戒に尖っているが、腰の低さは礼を知っている証だ。


彼女は両手をあげ、ゆっくり言った。

「私はフェルナ、コボルトの里の者だ。子らが戻ったと聞いた。……礼を言いに来た」


輪がざわめき、ピピが「おお」と声を上げる。

フェルナは焚き火の前に膝を折り、アリアの方へ顔を上げた。

「ここは、名もない森のはずれ。なのに“帰ってくる”場所みたく温かい。……あんたは、ここをどう呼ぶ?」


アリアは返事に迷って、焚き火の炎を見た。

輪の中にある小さな火。

輪の外へ伸びる、いくつもの細い線。

帰ってきた子ら。集まる息。交わる手。


言葉は、もう喉の手前まで来ている。

けれど、それを口にするのは、今ではない。


アリアは首を横に振り、微笑んだ。

「今はまだ“火の輪”。……名前は、皆で決めよう」


フェルナは穏やかに笑い、腰の包みを開いた。

乾かした肉、堅いパン、薬草。

「礼だ。少ないが、受け取ってくれ」

グルーが杖を鳴らし、輪の隙間が自然に広がる。

新しい席が一つ、焚き火のそばにできた。



深夜。

火が落ち、子どもたちの寝息が重なり合うころ、アリアは一人、柵の上に座った。

星は濃く、風は細い。遠くの黒い斜面には、もはや松明の影もない。


(刃を使わずに、ここまで来られた。――だが、これからは“来る側”になる)


迎えるだけでは守れないものがある。

輪を輪のまま保つには、輪の外へも手を伸ばし、道を繋ぎ、危ういところに呼吸を通さなければならない。


足元で木の皮が軽く鳴った。

ドッグだ。

彼は言葉を持たないかわりに、短く地面を蹴って身を起こし、アリアの隣に腰を下ろす。

夜目が利くその横顔は静かで、火の残り紅が瞳に小さく映った。


アリアは低く問う。

「行けるか」


ドッグはほんの少し顎を上げた。

“ああ”。

それだけで十分だった。


アリアは結び目のない輪――自分の帯に縫い込んだ、小さな輪の刺繍を指でなぞる。

奪わず、流し、結ぶ。

ここから先の一歩が、輪を名にする。


静かな夜が、頷いたように思えた。


(つづく → 第3話「輪の名、はじまりの旗」)


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