アリアンロット村編(全3話)第1話 「知らない天井と、焚き火の言葉」
夜は、森を獣に変える。
葉の裏に潜む露が音もなくこぼれ、梢の先で風が指を鳴らす。その合間を、ひとつの影が駆けた。
アリアは息を切らしながら、濃い闇に紛れて走る。肩口をかすめた矢が、幹に刺さって震えた。矢羽根の揺れに合わせ、背で括った荷の金具がかしゃりと鳴る。
「逃がすな! 女だ、腕輪も剣も高く売れる!」
背後、松明の炎が蜘蛛のように広がる。山賊だ。昼間、峠道で焚き火の煙を隠しきれず、痕跡を嗅ぎつけられた。
舌打ちして視線を上げる。黒い森の隙間に、月が細くのぞいている。
(崖筋……道は悪いけど、追手をまとめて捨てられるかもしれない)
彼女は斜面に足をかけ、低木を手で払いながら駆け上がる。上方には岩棚、その先は切り立った断崖だ。
足元がふいに抜け、乾いた土が崩れた。
視界がひっくり返る。
夜空、樹冠、炎、男たちの影。
落ちる――。
岩に肩を打ち、肺の空気が押し出された。二度、三度、転げ、最後に木の根が胴を引っかけて、からん、と剣の鍔が鳴った。
世界の音が遠のき、彼女は眠るように瞼を閉じた。
◇
湿った土の匂い、乾いた草のざわめき。
「……ん……」アリアは指を動かし、瞼をこじ開けた。
そこにあったのは、割れ目だらけの天井――束ねた枝と泥で繕った屋根。梁からは干した薬草が吊られ、煙が薄く漂っている。
(知らない天井……どこ……?)
上体を起こそうとして、脇腹に鈍い痛みが走る。呻き声をこらえ、周囲を見る。粗末な寝床、土器の鉢、壁に立てかけられた短い槍。
そして――入口の影に、ふたつの目があった。
黄色く、丸い。闇の中で猫のように光る。
影はおそるおそる近づき、手にした木椀を差し出した。小さく、背中が丸い。
ゴブリンだ、と理解が追いつくまでに、一拍かかった。
(……ゴブリン? 村……? でも、山賊の匂いはしない)
ゴブリンは、喉の奥でころころと鳴る声で何かを言った。
言葉はわからない。けれど、敵意はどこにもなかった。
彼(彼女?)は木椀を両手で持ち直し、湯気の立つ粥をこちらへ押しやる。
アリアは慎重に受け取り、匂いを嗅いだ。きのこと山菜、少しの塩。やさしい匂い。
「ありがとう」
そう言って一口すすり、喉を温かさが流れた。
ゴブリンの目が、ぱっと丸くなる。笑っているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
入口の布がめくれ、年老いたゴブリンが現れた。背は低く、杖をつく。乾いた苔色の目は澄み、額の皺に泥が少しついている。
老人はアリアと粥の鉢を見比べ、柔らかく頷いた。それから胸に手を当て、深くお辞儀する。
「……えっと……あなたが、ここに?」
老人はまた頷き、どこかうれしそうに目を細めた。
そこへ、外から大股の足音。骨の飾りががしゃがしゃ鳴る。戸口をがばりと開け、筋肉質のゴブリンが槍を担いで入ってくる。
目が鋭い。頬に古い傷。
アリアを一瞥し、槍の石突を土間に突いて、老人に向かってまくしたてた。
「……ドッグ?」老人が名を呼ぶ。槍のゴブリンは鼻を鳴らし、アリアに向き直る。
その目は疑いに満ちていた。
彼は腰の短剣を軽く叩き、顎でアリアの剣を指す。刀身は布に巻かれて戸の近くに立て掛けられていた。
“それをどこかへやれ”という仕草。
アリアはゆっくり両手を上げ、うなずいた。
「わかった。……今は、要らない」
彼女自身、今この場で刃を抜く理由はどこにもない。
短く呼吸を吐く。
狼少年と羊飼いの村のことが、脳裏をかすめた――決めつける前に、目の前の相手を見る。それが正しかったと、何度も確かめたばかりだ。
老人――村の長だろう――はアリアの様子を見届け、ドッグに短く言葉をかける。
ドッグは舌打ちしつつも、槍を引くと踵を返して出て行った。
入れ替わりに、小さな影が音もなく滑り込んでくる。
先ほどのゴブリンの子どもだ。
両手いっぱいに、どんぐりを抱えている。
彼(彼女)はアリアの前まで来ると、どんぐりの一つを慎重に置き、胸を張った。
「……ピ、ピピ」
「ピピ?」
こくりとうなずき、またどんぐりをひとつ置く。
アリアは笑って、胸の前で掌を合わせた。「アリア」
ピピはぱっと顔を明るくし、もうひとつどんぐりを置いた。ご褒美のつもりらしい。
知らない天井の下で、最初の名前が交換された。
◇
昼は、村の輪郭をあらわにした。
粗末な柵は、曲がった枝と石を縄で留めただけ。雨をしのぐ小屋は斜めにかしいで、焚き火の煙は屋根の隙間から細く逃げる。
それでも、そこには生活があった。
乾いた肉を薄く切って干し、子どもたちが小川で洗い物をし、女たちは樹皮の紐を編んでいる。
男たちは森の縁に出て、獲物の足跡を確かめる。
昼下がりの陽が差すと、みんな目を細めて背を伸ばした。
アリアは肩に布をかけて外へ出た。体のきしみは残っているが、歩ける。
彼女の姿を見て、いくつもの視線がまとわりつく。好奇、警戒、興味、少しの恐れ。
長グルーが杖を鳴らし、短く言った。
ゴブリンたちの肩から力が抜ける。グルーの言葉は、ここでの“約束”らしい。
アリアは小川にしゃがみ、汚れた布をすすいだ。
ふと、視線に気づく。振り向くと、ドッグが斜面に腰を下ろしてこちらを見ていた。
目が合うと、彼は口の端をわずかに吊り上げ、槍で地面に線を引く。
まっすぐの線、そしてもう一本、線の途中から合わさる曲線。
ドッグは槍を立て、からの右手で自分の胸、次にアリアの胸を指し――引いた線を指す。
(……一緒、ってこと? 同じ線に立つ?)
彼女は小さく頷いた。
ドッグは鼻を鳴らし、立ち上がる。槍をくるりと回し、足を開いて構えた。
挑む、というより、確かめる仕草。
アリアは布を畳み、腰を低くした。素手だ。刀は室内に預けたまま。
足裏で土の感触を探る。相手の重心、槍の間合い、風の向き。
ドッグが一歩、滑るように踏み込む。先端は胸元ではなく、肩口へ――牽制。
アリアは半歩だけ退き、槍の柄に指先を添える。力をかけず、流す。
槍先がふっと外へ逸れ、ドッグの肩がわずかに前へ落ちたところを、空いた手の甲で軽く弾いた。
ぱし、と乾いた音。
ドッグの目がわずかに見開かれる。
次の瞬間、彼は短く笑った。低く、喉の奥で。
槍の石突を土に打ち込み、軽く頭を下げる。
それから、背後の森を親指で示した。
“お前、やるな。森を歩ける女だ”
言葉がなくても、伝わる。
そこへ、ピピが両手いっぱいに木の実を抱えて駆けてきた。アリアとドッグの間にすべりこみ、得意げに胸を張る。
アリアは笑ってその頭に手を置いた。
グルーが遠くからそれを見て、やわらかく目を細めた。
◇
夜が来ると、焚き火が増える。
丸太の輪の内側、アリアは薬草の煎じ汁をすすった。ささやかな塩味、山の香り。
彼女の隣で、グルーが低く話す。
意味はわからない。けれど、声の温度は伝わる。
村の子は少なく、若い男はまだら、女たちはよく働く。冬の備えは薄く、森の獣は気まぐれだ――そんな暮らしの輪郭が、声の揺れでわかる。
アリアは焚き火に手をかざし、言葉を返す。
自分のこと、故郷のこと、羊飼いの村で見たこと。
彼女の言葉もまた、村人には届かない。
でも、たき火の炎が笑い皺を照らし、肩の力が同じリズムで抜けていく感じが、心地よい。
(言葉が通じなくても、火と手の温度があれば、わかることがある)
ピピが舟を漕ぎ始めた。アリアはその頭に毛布をそっとかける。
グルーが杖で地面をとんとんと叩き、空を指す。
雲の裂け目に、小さな星がふたつ、並んでいた。
◇
三日目の朝。
霧が薄くなり、鳥の声が戻るころ、村の外から足音が駆けてきた。
警戒の声。槍と棍棒が一斉に持ち上がる。
斜面を滑り降りてきたのは、見張りの若いゴブリンだ。顔色がない。息が上がり、喉が擦れている。
彼は柵の内へ転がり込むなり、両手を広げて地面に何かを描いた。
丸――それに縛り紐のような線。
横に棒切れを立て、上に何本も刻み目を入れる。
多い。たくさん。
彼は首を振り、目尻に涙をため、森の向こうを指した。
(人質――?)
ドッグが低く唸った。槍を握る手に血が集まる。
グルーは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。その息は震えず、しかし、深かった。
彼は杖を地に押し当て、アリアを見た。
アリアは立ち上がり、巻いてもらっていた包帯に手をやる。
脇腹の痛みは、まだ鈍く残る。だが、足は立つ。
視線を外へ投げる。木々の間に、煙が一本の細い線となって立っていた。
風の向き。道の位置。柵の高さ。村の中の動線。
脳裏で、線が繋がっていく。
「グルー」
アリアは短く呼んだ。言葉は通じない。だからこそ、はっきりと。
胸に手を当て、彼女はゆっくりと言う。
「私が、戦う。……守る」
グルーは目を開け、じっとアリアを見る。
長い、長い一秒。
杖がとん、と土を打った。
それが合図だった。
女たちは子どもを奥へ隠し、男たちは柵の内側へ石を積む。
アリアはドッグに手を伸ばし、槍を借りた。両手の幅、木のしなり、先端の重さを確かめる。
刀は、あえて取らない。刃を向ける対象を、自分の意志で選びたい。
槍先で柵の上の枝を払って視界を開け、足場を踏み固める。
森の向こうから、低い笑い声がした。
やがて、黒い影が揺れ、松明がいくつも滲んだ。
「開けろやァ、獣どもォ!」
怒声が森を裂いた。
焚き火の赤い影の前に押し出されたのは、縄でぐるぐるに縛られた三匹のコボルトの子どもたちだった。
喉には布。泣き声すら漏れない。
後ろに立つ山賊は、みすぼらしい鎧の下で汗と血の臭いを発していた。
先頭――肩に戦斧を担いだ巨漢。片目に古い刀傷。
バーク。
その横で、痩せた男が舌で短剣の柄を舐め、子の背を靴で小突く。
ズリック。
そして、その背後の闇からもう一つの影が歩み出た。
黒革鎧。刃こぼれ一つない長柄斧を無造作に肩に乗せ、ゆっくりと笑った。
ズール――山賊たちの実質的な武闘隊長。
バークより静かで、ズリックより冷酷。
“仕事”に必要な殺しだけを行う、最も危険な男。
「開けねぇなら…こいつらの喉、順番に“開けて”いくが?」
ズリックが布ごと首筋に短剣を当てる。
「やめろッ!!」
アリアの声は震えていなかった。
柵の上に足をかけ、槍を横に寝かせながらグルーを振り返らずに言う。
「……私に行かせて」
バークが片目を細くした。
「なんだ、あの女……槍持ちか? はっ、ガキのくせに命知らずめ」
ズールの視線がアリアを貫く。
笑わない。
本気で殺しに来る目だった。
⸻
◆斬り合い開始
アリアは柵の上から地面へ跳び降りた。
足首へ衝撃が走るが、踏みしめる。
その瞬間――ズリックの短剣が子の首を横薙ぎに動いた。
(間に合え!)
アリアは槍を全力で突き出す。
刃の先端でズリックの手首を打ち弾いた。
短剣が草に落ちる。
ズリックの手が痺れ、指が開いた。
「ふざけんなッ!」
バークの戦斧が唸り、横から襲いかかる。
風圧だけで頬が切れた。
斧の重さは、槍を受けた瞬間に骨を砕くほどだ。
アリアは槍の中段で受け、横へ滑らせる。
木と鉄がぶつかる嫌な音が走る。
手の皮が破れた。
(痛い……でも離したら死ぬ!)
アリアは踏み込み、一気に間合いへ入る。
バークの脇腹へ槍を――
深く刺さる感触。
肉の重さ。
骨に当たる鈍い手応え。
「ぐっ……がああああッ!!」
バークが咆哮した。
引き抜く間もなく、長柄斧が迫る。
⸻
◆ズールの強襲
「バーク。下がれ。殺るのは俺だ」
ズールが地を蹴った。
重い長柄斧が、アリアの頭上から落ちる。
空気が破裂する音。
受けたら、首が粉砕される。
アリアは転がった。
地面の石で肘が割れるほど痛い。
だが、それでも転がる。
ズールの斧が地面をえぐり、土と石片が跳ねた。
「悪くねぇ動きだ。だが“殺し”は初めてだな?」
ズールはアリアを真正面から見据える。
目が笑っていない。
本気で殺す気だ。
(この男……バークとは違う。重さが違う……!)
⸻
◆ズリックの急所狙い
後方で倒れたはずのズリックが、もう立っていた。
短剣を拾い、アリアの背中へ無音で滑る。
アリアが振り返るより早く、ズリックの刃が喉元へ――
(死ぬ!)
アリアは槍を逆手に持ち替え、手首を切る覚悟で振り上げた。
硬い音。
刃が槍の柄に弾かれたが、木が裂ける。
あと一寸ずれていたら、喉を裂かれていた。
「くそガキ……殺す!!」
ズリックが狂ったように刃を振り回す。
アリアはその全てを受けきれない。
腕に切り傷が増える。
血が流れるたび、握力が落ちる。
(長くやれば、勝てない……!)
⸻
◆バークの斧が戻る
脇腹を刺されたはずのバークが、怒声とともに再び立ち上がる。
「てめぇえええッ!!」
戦斧が振り下ろされる。
三方向から――
バーク
ズリック
ズール。
完全な挟み撃ち。
(死ぬ……! どれか一人でも対応を間違えたら……!)
⸻
◆アリア、初めて「殺意」を乗せる
アリアは迷わなかった。
優先すべきは殺意の濃い順。
ズール → ズリック → バーク。
(まず……ズールだけは絶対に生かせない!)
アリアは槍を強く握り直す。
「おおおおおっ!!」
一気に踏み込む。
仲間たちの声、子どもの泣き声、全てを振り払い――
槍が、ズールの鎧の隙間に突き刺さった。
鉄と肉の間から、鈍い手応え。
だがズールは死なない。
喉から濁った息を漏らし、斧を振り下ろし返してくる。
アリアは引き抜く間もなく、槍を捨てた。
そして、腰の短剣を抜く。
自分でも驚くほど自然だった。
槍より軽い刃。
振れば命が奪われる刃。
(守るためなら……刺す!)
アリアは短剣を突き出し、ズールの脇腹へ二度、三度突き込んだ。
手が血で濡れ、柄が滑る。
ズールの巨体が、ようやく崩れた。
⸻
◆怒涛の畳み掛け
「ズール!? てめぇ……ッ!」
バークが衝動的に突っ込んでくる。
隙だらけ。
アリアは拾い上げた槍で腹を薙いだ。
肉が裂け、血が噴く。
バークは腹を押さえて膝をつく。
「ぎ……がああ……!」
ズリックが逃げようと背を向けた。
アリアは迷わない。
走り、背後から槍を突いた。
刃が背中を貫き、胸から突き出る。
ズリックは声も出せず崩れた。
(これが……“殺す”ってこと……)
吐き気と涙がこみ上げたが、足は震えていない。
⸻
◆勝利と余韻
山賊たちが慌てて散り始め、森に消える。
柵の内側から子どもたちが泣き叫び、女たちが駆け寄る。
アリアは槍を下ろし、息を荒げたまま立ちつくす。
脇腹・腕・手のひら――痛まない場所のほうが少ない。
そこへグルーが駆け寄り、アリアの手を両手で包んだ。
「……よく、生きて戻った……!」
アリアは答えず、ただうなずいた。
血の匂いが鼻から離れず、涙が一筋こぼれた。
(……守れた。
でも……次はもっと――)
手の中の短剣がまだ温かく、
その感触だけが「生き残った証」だった。
⸻
◆夜の焚き火
その夜、村の焚き火は高く燃えた。
子どもたちは泣き疲れて眠り、男たちは柵の修理に走り回る。
アリアは脇腹に薬草を貼り、火のそばで膝を抱えた。
血の臭いがまだ腕に残っている。
ドッグが隣に腰を下ろし、串焼きを差し出した。
「食え。倒れられたら困る」
「……ありがとう」
肉の味が、ようやく“生きている”実感をくれた。
ピピが眠い目をこすり、アリアの膝に頭を置く。
「アリア……こわかった?」
「……少しだけ。でもね、守れたよ」
空を見ると、昨日より星が多かった。
(守るって言った。
なら、今度は――)
アリアは静かに、グルーの前へ歩いた。
膝をつき、胸に手を当てる。
「……反撃に動きたい。
捕まった子たちを。奴らの根を、絶つために」
グルーは長く息を吐き、そして頷いた。
「……行こう。明日の夜明けに」
風が柵を揺らし、焚き火がはぜた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
(つづく → 第2話「襲撃と反撃」)




