アリアンロッド発展の章- 森に現れた精霊-第3話(完)
森は、音を飲み込んだ。
奥へ進むほどに、葉擦れは薄く、虫の羽音は遠のき、足裏の土が呼吸をやめる。アリアは先頭で歩みを落とした。剣柄の温さで自分の鼓動を測り、仲間の気配を後ろに数える。フェルナが矢を一本、指の股で弾いた澄んだ音が、波紋のように拡がって消えた。
「ここが“核”の手前だ」精霊が囁いた。「契りの碑が倒れ、誓いの言葉が抜け落ち、残った空洞に影が棲みついた」
「契りの碑……」オリビエが目を細める。「古い森と人の盟約を刻んだ柱石だな。あれが倒れるのは、ただの老朽では起きん。忘却か、故意か」
「忘却の匂いが濃い」フェルナが答える。「誰も悪意で壊したのではなく、手入れも、語り継ぎも、いつの間にか……こぼれ落ちた」
シャルルは小さな帳面を開き、素早く状況を書き留める。「つまり“維持の誓い”の断絶が核となって影が生成された。鎮圧だけでは再発する。修復と再誓約が必要、ということですね」
「まったくだ。倒れた柱を起こし、言葉を戻してやらにゃならねえ」バロスが肩の槌を軽く叩く。
「言葉を戻すのはわたしの仕事」ルーンが胸に手を当てた。トットが横で頷く。「姐さん、焦るな。“名を返す”には道筋が要る」
「道なら、わたしが縫う」シルが短剣の柄に触れ、狼耳を伏せる。「刃で切るんじゃない。線を置く」
「水脈と風道を重ねるわ。凍らせず、通すために」フェルナが矢羽を湿らせた。
ヨハネスは黙って背負い剣の位置を下げ、オリビエは老いた肩を一度回してから、静かに息を吸った。マリーヌは扇子で口元を隠し、「さて、可愛い隊長さん。ここで商売の基本よ。契約には“相手”“目的”“対価”の三点が必須。どれも棚から落ちてるから、拾い直しましょう」と、からかい半分本気半分で言った。
「“対価”か……」アリアは小さく頷く。「森へ返すのは何だ?」
「手入れ、手間、そして“忘れないこと”だな。人が払える最古で最大の対価だ」オリビエ。
「書き起こしは任せてください」シャルルがペンを取り出す。「契文案をすぐ整えます。ゴブリン里と街の連名にしましょう。代表署名は——」
「うちの長たちが出るさ」木々の陰から現れたのは長グルーと長老グバ、そして警備隊長のドッグ。小柄なピピは大きな荷袋を抱え、若者のハルトが槍を携えている。背後ではヨーデル、マキシ、リマ、カテリーナも続いた。犬のバディが鼻を鳴らし、空気の隙間を嗅ぐ。
「遅れてすまねぇ」ドッグが周囲を素早く見回す。「ここから外周を俺らが押さえる。万一、影が溢れても村には入れねぇ」
「交易物資も持って来たよ!」ピピが袋を掲げる。「種、乾燥果、布、塩。それから昔話を綴った板も。交易は“覚えてる”ための形だから」
「ハルト、お前はどうする」マキシがニヤッと肩をぶつける。
「決まってんだろ。一緒に突っ込む。槍は道を通すための棒だ」とハルト。ヨーデルは目をキラキラさせた。「質問は後! 今は突っ込み!」
マリーヌが笑う。「いいわね、その切り替え。では——行くわよ、隊長さん?」
アリアは、全員を見渡した。呼吸が合う。誰もが持ち場を知っている。彼女は剣の柄から手を離し、掌を空に見せた。「行こう。切るんじゃない。返すために」
*
核は、窪地だった。倒れた柱石が苔に半ば埋もれ、刻まれた文が黒い露に濡れている。その周りには墨のような影が渦を巻き、踏み込むたびに足首へ絡みつこうと伸びた。
「来る」シルが一歩先に出る。「飛燕——じゃない。今日は縫う」
彼女は刃を水平に置き、土の上に見えない縫い目を走らせた。右の短剣で一針、左で二針。刃が土の呼吸に触れ、影の流れが一瞬ためらう。フェルナがその縫い目に合わせて矢を放った。「ホーミングショット」水の輪が縫い目に宿り、通路となって空気が入れ替わる。
「いい流れだ」オリビエが呟く。「アリア、内へ返せ。おまえの肩は道標になる」
アリアは頷くと、ルーンから受け取った細い銀の環を左手に嵌めた。ルーンが彫り込んだ小さな精霊文字が光の糸を吐き、柱石の亀裂へと伸びる。バロスは同時に、柱の根を支える木楔と金具を打ち込み、土の緩みを「固定」していく。
「押し込むな、支えるんだ」バロスは独り言のように言いながら器用に楔を叩く。「石は人と同じでよ、急に立てると倒れる」
「発明、その八号——“穏爆ペタル”。点火!」イザベラが花弁のような薄板を柱の周囲に貼り、微小な振動で土をほぐし直した。「ウヒョー! 優しく爆ぜるのはロマン!」
「言葉の準備はいい?」シャルルが契文板を抱え、ペン先を泳がせる。マリーヌは墨と印泥を出して整え、ルラが肩越しに覗き込む。「文言は短く、覚えられること。それが長持ちのコツさ。それと——落款の位置をちょいずらしとけ。後で誰が見ても改ざんに気づける」
「いい助言だ、ルラ」シャルルが素早く反映する。
「わたしは後方を守るわ」リマが大盾を構え、カテリーナが腰の薬壺を並べる。「疲労軽減と心気安定の香、置きますね。吸いすぎないように」
「助かる」アリアが笑い、指で輪を弾いた。銀環の鈴は鳴らず、ただ彼女の骨の内側を淡く震わせる。
その時だ。窪地の縁から、影の渦が一つに束ねられ、背丈三倍の“ねじれた樹”の形をとった。幹の節々に古い契文の断片がひっかかり、黒い蔦がそれを引き裂く。空洞の樹冠が開き、無数の目のような穴が一斉にこちらを覗いた。
「契り食い(オウスイ)」精霊が低く言った。「忘れられた条を食んで、大きくなった影の樹」
「名前があるなら話は早い」オリビエが一歩前へ出る。「オウスイ。お前は忘れられた契文の屍から生まれた。ならば、返す場所は“覚えている声”だ」
樹は、笑った。幹がぎしりと軋み、黒い花粉が風に舞う。ハルトが「やべぇ」と声を呑む。ピピが鼻を押さえ、「交易品の布で口を覆って!」と叫んだ。ドッグはすぐさま円陣を組ませ、外周に立つゴブリン兵たちに合図した。
「押し切る」ヨハネスが短く言い、前へ。アリアは手で制した。「切り倒すんじゃない。時間を稼いで。“言葉”を通すために」
ヨハネスは頷き、巨剣を横一文字に振るった。風圧だけで黒い花粉が裂け、蔦がいくつも切り飛ぶ。すぐにシルが滑り込み、飛燕の軌跡で蔦の根元へ“刻み目”を置いた。「戻る道、置いた!」フェルナがそこへ燕返しの矢を送り、矢羽が刻みに噛んで通路と化す。
「いまだ、アリア!」オリビエが呼ぶ。
アリアは輪を掲げ、柱石に掌を添えた。内側へ返す。肩に乗せる。外に押し付けず、みんなの力を、そのまま“文”へと落としていく。
「——ここに、森と街と里の契りを、起こし直す」
シャルルが読み上げる。短い、覚えられる言葉で。
「我ら、森の息に手を添えん。折れた枝は拾い、倒れた柱は起こし、泉に濁りを流さず。森は我らの雨除け、我らは森の刃除け」
マリーヌが扇子を閉じ、軽やかに笑う。「対価は私たちの手と時と記憶。そして収穫の一部を森へ返す——鳴らない鐘の刻に」
「鳴らない鐘?」ヨーデルが目を丸くする。
「静かな約束ほど長持ちするって話だよ」ルラが肩をすくめる。「騒げば忘れる。騒がなければ、日々の動きの中に沈む」
「いい文句」オリビエが満足げに頷く。「アリア、言葉を“輪”へ」
アリアは息を吸い、輪に唇を寄せた。「帰れ——文よ。抜け落ちたおまえを、柱へ返す」
精霊の髪が水草のように広がり、光の粒が輪から柱へ流れる。ルーンが両の掌を輪の下へ添え、トットが低く呟く。「道、開いた」
その瞬間、オウスイが幹を振るい、蔦の束を鞭のように振り下ろした。リマが前に飛び出して盾で受ける。「ッ……!」大地が鳴る。カテリーナの香が広がり、衝撃の余韻を吸い取った。
「援護する!」マキシがハルトと並び、槍の石突で蔦の根を押さえ込む。「ハルト、合図!」
「三、二、一——今!」ふたりの槍が交差して蔦の動きを止める。ヨハネスがそこへ刃の腹で打ち、進路をそらす。切断ではなく、方向付け——アリアの教えの通りだ。
「発明、その十一号——“逆さ花火”。上へ逃がすよ!」イザベラの細筒が空に光線を打つ。爆ぜるのは高く、響きは柔らかい。花粉が上へと引かれ、窪地の空気が澄む。
「隊長、北西の根が強い」フェルナが身を低くして告げる。「水の流れがそこに集中してる。凍らせない締め、いける」
「任せた。シルは南に縫い目を追加。ピピ、布を配って。ドッグ、外周の締めを半刻だけ厚く」
「了解!」声が重なり、動きが早くなる。
柱石が、わずかに軋んだ。バロスが顔を上げ、「いいぞ、起きたがってる」と笑う。「楔をもう二つ——ピピ、その布はここ、石と木の間の呼吸を守る」
「了解だよっ」とピピ。ヨーデルが隣で目を丸くする。「布で呼吸が守れるの?」「守れる。布は記憶だ。布目が刻んだ道が、石に息を教える」とグバが穏やかに答えた。
オウスイの幹が低く唸る。穴という穴から、忘れられた文の破片が風にちぎれて飛ぶ。「……誰も、読まなかった」「……誰も、手入れしない」「……名は薄れ、木は腐る」
「読めるよ」ルーンが一歩踏み出す。彼女の声は震えていたが、芯があった。「わたしは、奪われた名を返して生きてきた。読む人がいないなら、わたしが読む。みんなで読む。歌にする。踊りにする。毎年、覚え直す」
「覚え直す……?」幹が軋み、無数の穴が彼女を見る。
「そうだ」アリアが輪を掲げなおす。「忘れることは罪じゃない。でも忘れたままにするのは怠りだ。怠りは、直せる」
「文を返すぞ」オリビエが古い声で続ける。「東野の誓いの時と同じだ。帰れ。おまえは“道具”ではない。道だ。道は、戻れる」
シャルルが契文板を掲げ、マリーヌが印泥を差し出す。長グルーが丸太の手を伸ばし、グバが細い指で印を添える。ドッグの荒い掌、ピピの小さな指、ハルトの槍だこ、アリアの握り傷、フェルナの弦だこ、シルの細い節、ルーンの古い火傷、バロスの鉄の匂い、オリビエの歳月、ヨハネスの静けさ、ルラの軽口、シャルルの周到、マリーヌの計算、イザベラの歓声、ヨーデルの好奇、リマの柔らかさ、マキシのやんちゃ、カテリーナの薬香、バディの肉球——たくさんの“触れた痕”が、板に、輪に、柱に、重なった。
銀の輪が白く熱を帯び、刻まれた精霊文字が柱の亀裂へすうっと吸い込まれる。次の瞬間——
——“鳴らない音”が、森いっぱいに満ちた。
鐘は鳴らない。けれど確かに胸骨を震わせる、静かな合図。風が戻り、葉がささやき、泉が小さく笑った。オウスイの幹に走っていた黒い蔦が、ほどけて落ちる。穴が閉じ、節が柔らかくなり、樹皮に薄い緑が差した。
「帰る……のか?」幹の奥で声がした。誰のでもない、いくつもの“言葉の残り”の声。
「帰っていい」アリアは短く言った。
オウスイは、ゆっくりと自重で沈み、やがて倒れた柱石の根元へと、黒い影の水となって流れ戻った。柱は呼吸を覚え直し、地の楔がそれを支え、契文が空気に馴染む。
精霊がそっとアリアの肩に触れる。「ありがとう。忘れられていたものが、戻った」
「まだ戻り切ってはいない。これから毎年、思い出さなきゃならない」アリアは笑って輪を外し、ルーンに返した。「——“鳴らない鐘”の刻に」
マリーヌが扇子を鳴らす。「納期がある契約はいい契約。覚えやすいわね、鳴らない鐘」
「鳴らさない、な」ルラがくすっと笑う。「よし、俺は毎年あえて騒がずにいる、って騒ぐ」
「それは騒いでる!」ヨーデルが即ツッコミ。周囲に笑いが広がった。
安堵の気が全体に行き渡り、誰もが少しだけ腰を落としかけた——その時、柱の陰から最後の影がぬるりと這い出た。樹の根ほどの太さの蔦が一本、輪を狙ってアリアの手首へ伸びる。
「——ッ!」
オリビエが最短で駆け、刃を抜く。だが彼の肩がわずかに遅れる。数と力に押され続けてきた老身の限界が、今だけ顔を覗かせた。
踏み込んだ影へ、別の影が重なる。ヨハネスだ。刃ではない。鞘の背で蔦の“首”を打ち、進路を半寸ずらす。アリアの手首に向かっていた尖端が、柱の隙へ逸れた。
「今!」オリビエの刃がそこに到る。短い一閃。切断ではない。節を“解く”角度で、蔦は力を失って崩れた。
老騎士は刃を収め、ヨハネスに短く頷く。ヨハネスも同じだけ頷いた。言葉はいらない。支え合うという意味だけが、ここにあった。
「……だいじょうぶ?」ルーンがアリアの手を取る。バディが鼻を押し当て、くぅんと鳴いた。
「だいじょうぶ。みんな、ありがとう」アリアが笑い、輪の銀を指で撫でる。冷たさではなく、体温に馴染む金属の感触が戻ってきていた。
*
片づけは戦いの続きだった。バロスとハルトとマキシが柱石の周りに支柱を組み、フェルナとシルが風道と水脈の通りを整え、カテリーナは香草を薄く焚いて虫を遠ざけた。ドッグは外周の見張り線を森の新しい呼吸に合わせて引き直す。ピピは交易の帳面を開き、収穫返納の配分案を書き、グバはそれを古い言葉へ訳す。シャルルは契文板を清書し、マリーヌが印の重ね方を整え、ルラは「誰も読まない長文注意」と落書きを添え——「おい」とシャルルに軽く小突かれて消しゴムで消す。
イザベラは持ち込んだ奇器を片づけながら「ウヒョー、爆ぜないのも達成感がある!」と満足げ。オリビエは柱の根本に小さな一礼をし、「また来る」とだけ言った。
「アリア」リマが近寄り、短く礼をする。「盾を出す場があって良かった。守るべきものがあると、わたしは強くなれる」
「守るものは、今日、増えた」アリアは森を見回す。「里も、街も、柱も。約束も」
「質問いい!? “鳴らない鐘の刻”って、いつ!?」ヨーデルが勢いよく手を上げる。
「季節の変わり目の、いちばん静かな朝」精霊が微笑む。「風が止まり、鳥が息をひそめ、泉が鏡になる時。森が“聴く耳”になる刻だ」
「よーし、じゃあその朝、俺は静かに起きて、静かに深呼吸して、静かに叫ぶ!」
「叫ぶな」全員から声が飛び、ヨーデルは肩をすくめて笑った。
「さて」マリーヌが扇子をぱちんと閉じる。「締めましょうか。納品完了、検収ヨシ、支払い条件は“手・時・記憶”。次回更新は一年後。同条件にて継続」
「契約書にそう書いとけ」ルラがひらひら手を振る。「追加条項:宴をすること」
「宴……!」ピピが目を輝かせる。「帰りに果実を二籠分持っていって! 甘いのがいいよ!」
「甘いのならうちにも在庫があるぞぃ」長老グバが笑った。「森の蜜の薄飴、古い歌を覚え直す時の舌の友じゃ」
「じゃあ、帰って——」アリアが言いかけて、柱石に軽く触れた。冷たくも温かい石肌。「……また、来るよ」
精霊がうなずく。水草の髪が陽光を受けて淡く光る。「人の子らよ、忘れることを恐れず、覚え直すことを怠らず。わたしは、ここで見ている」
「見られてると思うと、ちょっと背筋が伸びるな」オリビエが苦笑し、肩を回した。「帰るか。背中が甘いものを欲しておる」
「甘いのは任せて!」バロスが胸を張る。「工房で麦焼き菓子がちょうど焼ける頃だ。砂糖は森へ返すぶん減らすが、蜂蜜でコクを足す」
「ウヒョー! 発明その十二号“蜂蜜マシマシ焼炉”の出番!」イザベラが跳ねる。
「隊列を整えるよ」ドッグが短く号令をかけ、長グルーがうんうんとうなずく。「受け入れ態勢は整ってる。街と里の往来は今日から“鳴らない鐘の刻表”に合わせて組むさ」
「うちの若いのを街の訓練にも混ぜてくれよ」ハルトがマキシに肘で合図。「キミの槍、もう少し腰を落とすと速くなるぜ」
「マジで? 教えてくれ!」マキシが目を輝かせ、ふたりは早くも軽く足捌きを合わせ始めた。リマが微笑み、カテリーナが香袋をふたりの首に下げる。「息が上がりにくくなります」
ヨーデルは大きく伸びをして、空を見上げた。「ねえアリアさん。今日のこと、全部書いておいていい? 忘れないために」
「書いて、読んで、誰かに渡して。来年、また書き直そう」アリアは言う。「——忘れないために」
*
帰路、森は柔らかかった。葉の裏で光が踊り、枝が肩に触れては離れる。泉のそばで小さな魚が跳ね、バディが舌を出して水を飲む。シルが彼の頭を撫で、フェルナが風の糸で残香を吹き払い、ルーンが小声で古い歌をなぞる。トットは「調子はずしてるぞ」と皮肉を言いながら、同じ歌を鼻で吹いた。
街の土塁が見えてくる頃、日は傾き、茜の色が石壁に走った。門の上から子どもが手を振り、バロスの工房の煙突から甘い匂いが迎える。
「ただいま」アリアは誰にともなく言った。
「おかえり」オリビエが答える。「みんなでな」
工房の扉が開き、暖かな空気がこぼれた。焼き菓子の皿が並び、麦茶の壺が湯気を立て、蜂蜜が玻璃の壺に輝いている。イザベラは焼炉を得意げに撫で、マリーヌはさっそく皿勘定をはじめ、ルラは「つけとけ」と涼しい顔をし、シャルルは契文板を壁にかける場所を選んだ。ドッグは見張りの交代に印を押し、グルーは椅子の数を数え、ピピは果実籠を広げ、ハルトとマキシは扉の外で最後の一手を確認し、リマは手を洗う桶を出し、カテリーナは香をひとつだけ焚く。ヨーデルは机に向かい、今日の“覚え直し”の一行目を書く。
精霊は門の外に留まり、風の中で静かに微笑んだ。彼女の髪に小さな光がともり、森の奥で柱石がゆっくりと息をしているのが、遠くからでもわかった。
アリアは壁の新しい板を見上げた。そこには短い文が、はっきりと記されている。
我ら、森の息に手を添えん。
折れた枝は拾い、倒れた柱は起こし、泉に濁りを流さず。
森は我らの雨除け、我らは森の刃除け。
対価は、手と時と記憶。
鳴らない鐘の刻に、覚え直す。
「いい文だ」オリビエが言う。
「短いからね」シャルルが肩を竦める。「そして、毎年書き直せる」
「書き直すのは、好き」シルがぽつりと言った。フェルナが笑う。「なら、来年はシルの字で」
「わたしの字、すごく丸いよ」
「丸い契約も、いいものだ」マリーヌが目を細め、「そのぶん、角は盾と槍が受け持てばいい」とリマとハルトに目配せした。
アリアは輪を机上に置いた。銀はもう白くはなく、柔らかな灰に落ち着いている。ルーンが輪に触れ、「また使える」と言った。トットが「使う、じゃねぇ。“返す”だ」と言い直し、バディが尻尾で机の脚をとんとん叩いた。
「では——」アリアは掌を上げた。「森と街と里に。途中のわたしたちに」
「途中のわたしたちに!」声が重なり、蜂蜜の甘さが口の中で広がる。笑い声が梁に跳ね、外の空気に溶けていく。
誰かが扉を開けた。夕暮れの風が一枚の葉を転がし、壁の契文板の前で止まる。葉脈が光を拾い、小さな影を文字の上に落とす。
忘れないために——覚え直すために。
アリアは剣を壁に掛け、深く息を吸った。今日が終わり、明日が始まる。鳴らない鐘の刻は、いつだって心の中にある。
そして森の奥で、柱石は静かに息をし、精霊は目を閉じ、オウスイの残り香は土に眠り、誰かの小さな手が、来年また、その文をなぞるだろう。
(完)




