剣心行路編・幕間 蒔田の灯と湯の記憶
弘明寺の火で、アリアの剣は「異界の光」と「現世の火」を一つにした。
だが、鋼の熱が冷めるには――静かな夜が要る。
宗一と悠斗に見送られ、アリアは
「近くにええ宿あるで」と勧められた蒔田へ向かう。
そこで過ごす一夜が、彼女の心に“ひとつの余韻”を残していく。
夕暮れの弘明寺。
商店街の灯が淡く揺れ、線香とたい焼きの匂いが風に混じる。
「姉ちゃん、ほんまにええ仕事したなぁ。火も刃も、文句なしや。」
悠斗が目を細め、肩の煤を拭った。
「宗一さんにも、ありがとうと伝えてください。」
「伝えるまでもあらへん。あの人、あんたの打ち込み聞いてたら、もうにやけてたで。」
アリアは小さく笑った。
あの火の音。聖剣と刀の拍が重なり合う響きが、今も耳に残っている。
「ほんでやな、今日はもう蒔田に泊まっていき。弘明寺から歩いてすぐや。銭湯もあって、飯もうまい。」
「……あなたが勧めてくれるのなら、間違いなさそうですね。」
「そらそうや。俺、三木の人間やけど、蒔田の宿もなかなか“ええ音”出すで。」
そう言って悠斗は笑い、工房の灯を落とした。
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参道を抜け、大岡川沿いを歩く。
提灯の赤が水面に揺れ、蛙の声がかすかに聞こえる。
川風が、火の名残をやさしく冷ましてくれた。
やがて辿り着いた宿は、
木造二階建ての小さな旅館。
暖簾には「湯宿・松の湊」とある。
「いらっしゃいませ。」
女将が顔を出した。丸い眼鏡の奥に、柔らかな光が宿る。
「珍しいねえ、外国の…えーとお一人かしら?………
まぁ、綺麗な髪だねぇ。旅のお侍さん?」
「はい。少しだけ、心を休めたくて。」
「そりゃちょうどええわ。お風呂、今ちょうど沸いとるよ。」
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湯けむりが立つ浴場。
木の桶を沈める音が響き、
アリアは湯に身を沈めた。
火の熱が、ゆっくりと肌から溶けていく。
弘明寺の夜空、宗一の打つ音、悠斗の笑い。
そしてあの火花の中で確かに感じた、
“剣が自分の一部になる”瞬間。
「……これが、この世界の“鍛冶”なのね。」
湯気の中、剣の輪郭がぼんやりと脳裏に浮かんだ。
火と水。熱と静。
それがひとつの拍になって、彼女の呼吸に重なっていた。
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湯上がりに女将がお茶と饅頭を出してくれた。
「明日どちらへ?」
「東京へ。……大切な人に、会いに行きます。」
「そうかい。都会は賑やかだけど、良い人もいる。お侍さんならきっと大丈夫。」
夜更け。
アリアは窓際に座り、外の灯を見つめた。
遠くの鉄道の音が、まるで火床の響きのように心を打つ。
その音に、そっと手を合わせた。
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翌朝。
薄い朝霧の中、アリアは宿を出た。
女将が玄関先で手を振る。
「またおいでなさいね。火の人。」
「はい。……きっと、戻ります。」
蒔田駅へ続く坂道を下り、
地下鉄の階段を降りる。
電車が風を切って走り抜けた。
――蒔田から横浜、そして東京へ。
ホームの風が頬を撫でる。
車両の窓に映る自分の姿に、アリアは小さく微笑んだ。
「火は形を変え、人は拍を刻む。」
その言葉を胸に、彼女は東京行きの列車に乗り込んだ。
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【あとがき】
弘明寺の“火”を離れ、蒔田で“水”に癒やされた夜。
この幕間は、アリアの心が冷え、静かに整えられる一章です。
悠斗が勧めた宿は、火の余熱をそっと包む場所。
湯気と灯の中で、アリアはようやく
“異世界の剣”ではなく“この世界の拍”を見つけ始めました。
次章――
東京で再び出会うのは、あの警察官・洋一。
火と水の次に待つのは、“人”との響き合いです。




