石川編 第1話 加賀の湯と城下町
山を越える風が、少しだけ塩気を帯びていた。
白川郷の灯を背に、峠を抜けると、斜面の向こうに平野がひろがる。畑の区切りが細かく並び、遠くに海の気配。
「――加賀の国や」
ヨシダが軽く肩をすくめ、笑った。
「湯と街、どっちから行く?」
レンは即答する。
「湯! いや、街! いや、やっぱり湯!」
ミリアが苦笑して袖を引く。
「汗かいたし、まずは湯にしよ」
アリアは頷き、鞘に添えた指をそっと離した。
剣の旅から、学びの旅へ――石川では、その切り替えを体に沁み込ませたい。
■ 加賀温泉郷――湯の作法、音のない「ありがとう」
駅から延びる道の先、低く湯気の匂いが漂っていた。
木の宿の玄関で、女将がやわらかく会釈する。言葉は半分も拾えない。
けれど、アリアたちはもう分かっている。胸に手を当て、背筋を正し、深く礼を返す。
脱衣所の戸、からり。
湯面は硝子みたいに静かで、縁に翡翠色の影を湛えている。
「熱い……けど、やさしい」
ミリアがほぅと声を漏らす。
リリスは肩まで沈め、湯の肌を指先で確かめる。
「森の泉みたい。触れると、音が小さくなる」
ルナは湯気を胸で受けとめ、目を閉じた。
「境界がほどける……人と人のあいだの、余計な棘が落ちていく」
湯上がりの廊下で、番頭が扇子でぱたぱたと風を送ってくれる。
アリアがもう一度、無言で礼。
番頭は「ええええって」と笑い、麦茶のコップをもう一つ置いた。
音のない「ありがとう」が、湯気のあとにふわりと残る。
■ 金沢へ――城と庭の“重ね”
翌日、北へ。
金沢の街は、山と海の真ん中で静かに呼吸していた。瓦屋根の段々、浅野川と犀川の弧、石垣の白。
「まずは城やな」
ヨシダが石垣の角を指でとん、と叩く。
金沢城は白い鉛瓦と海鼠壁が光を返し、堀の水が薄い空を抱きこむ。
ボリスは継ぎ目を舐めるように見て、うなずいた。
「積み方が違う……攻めを想定しつつ、見せるためにも積んでいる」
ガレンは手すりから身を乗り出し、低く言う。
「刃を見せない刃。守るための威嚇だ」
アリアは石垣の影に指を置き、目を閉じる。
――剣で築かれた場所なのに、空気は柔らかい。
戦の跡を“美”のかたちに積み替えた、人の仕事だ。
城を抜け、庭へ。
土橋を渡ると、枝が意志を持つように曲がり、池が空を持ち上げていた。
松の雪吊りはまだ骨のように静かで、石灯籠は水の端を押さえる楔になっている。
「ここは“整えて野に近づける庭”や」
ヨシダが囁く。
リリスは苔の上に膝を折って、「作った自然が、作られてない自然みたい」と微笑んだ。
ルナは飛び石を一つずつ踏み、呼吸で池の面を撫でる。
「呼吸を合わせれば、世界が一枚になる」
ミリアは流れる小渠に指を浸し、「冷たいのに、あたたかい」と不思議そうに笑った。
■ 金箔の光――薄い一枚に宿るもの
庭の帰り、通りの小さな工房に立ち寄る。
扉の向こうで、職人が金の“葉”を息で動かし、静かに平らへ落としていく。
そっと息を止めないと、世界ごと揺れてしまいそうな薄さだ。
「光を延ばすんや。薄う、薄う。薄いほど、光は広がる」
職人の口数は少ない。けれど、指の動きが雄弁だった。
ミリアが目を丸くする。
「紙みたい……いえ、光の紙だ」
ボリスがうなずく。
「“薄さ”は弱さじゃない。広く覆うための術式だ」
アリアは金箔の端に落ちる光の揺れを見つめ、静かに胸に手を置いた。
――強さを“薄さ”に変える。敵を断つ剣ではなく、光で包む盾に。
店先の金箔ソフトを手に、レンがはしゃぐ。
「金を食べてる! ラーメンに……は、のせないほうがいいな!」
ヨシダが吹き出して、「それは“目で食べるもん”や」と笑った。
■ 近江町の前日譚――香りの入口
夕暮れ前、アーケードの入口まで足をのばす。
近江町市場――明日はここが本番だ。
けれど、今日のところは“予告編”。
氷の上に並ぶ蟹の脚、透ける白身、赤い海老が水に光る。
ミリアは喉を小さく鳴らした。
「……“すし”の気配がする」
ヨシダが微笑む。
「せや、明日の朝はここからな」
レンが拳を握る。
「のどぐろ! ぼく知ってる!」
リリスは笑って首を傾げた。
「魚の名前なのに、喉……?」
アリアは二人の肩に目だけで「落ち着け」と告げ、静かに礼をして市場を離れた。
焦らず、最高の一口を待つ。待つことも“礼”だ。
■ 加賀料理――治部煮の温度
夜、町家を改装した小さな店。
障子越しに灯がやわらかく、器の縁は海の色を溶かしていた。
椀物は浅い出汁の面、季節の青がひと切れ。
盛り皿には加賀野菜――れんこん、五郎島の薩摩芋、金時草。
そして主の皿は、治部煮。
とろりとした餡に覆われた鴨肉、そのそばに、ふわふわの麩。
「……香りだけで、あたたかい」
ミリアが箸を止めて、鼻先で深く呼吸する。
アリアは鴨をひと切れ。
噛めば、出汁の丸さが先にやさしく、あとから鴨の芯がゆっくりと現れる。
「戦の火じゃない……“暮らす火”の味だ」
ガレンは麩を見て首を傾げた。
「これは……肉ではない。けど、旨い」
ボリスが盃を傾ける。
「小さな力を重ねて、大きな滋味にする。それがこの土地の流儀だな」
リリスは煮含めの色合いに見入り、ルナは餡のとろみに「境界を繋ぐ糊」を感じて目を細めた。
レンは……静かに頷いていた。
「ラーメンじゃないのに、スープを全部飲みたくなるやつだ……」
ヨシダが笑って、「飲んでええやつや」と言う。
食後、女将が小さな菓子――落雁を出してくれた。
砂のようにほどけ、甘さがあとに残る。
アリアたちは胸に手を当て、深々と礼をする。
女将は「またおいで」と唇の形で言い、そっと灯を落とした。
■ 宿の間――縫い合わせる夜
宿に戻ると、ちゃぶ台に湯飲み。
窓の外、遠くの海は見えないが、その匂いが風の底にいる。
「石川は……“重ねる”国だ」
アリアが言う。
「城の石、庭の枝、光の薄い葉、出汁の層、器の縁。どれも強さを直線にせず、弧にして受け止める」
ルナが微笑む。
「境界を、やわらかく縫う国」
リリスは頷く。
「だから森みたいに落ち着く」
ボリスは盃を静かに置き、低く言う。
「学びは刃より遅いが、遠くまで届く。今日、それをまた実感した」
レンは明日の市場を思って落ち着かない足をぱたぱたさせ、ミリアは“寿司”の二文字をそっと胸にしまい直した。
ヨシダが湯飲みを掲げる。
「ほな、明日は朝一番で近江町や。のどぐろと、甘えびと、金沢の“寿司”――ええ一口、食わせたる」
アリアは笑って頷き、胸に手を当てる。
音のない「ありがとう」が、部屋の灯にゆっくり溶けた。
夜は深く、静かに縫い合わさっていく。
剣の影も、湯の白も、庭の緑も、器の藍も、すべてが一枚の布になるみたいに。




