福井編 第1話 海鳴りと祈りの国へ
車窓がひとつ深い青に変わった。
山の背をいくつも抜け、トンネルを出るたびに、畑の緑と海の気配が交互に流れ込んでくる。
「……匂いが違う」
アリアは鼻先で風をつかんだ。
鉄と油の街の匂いではない。湿った岩と潮と、刈られた稲の乾いた甘さ。
「日本海や」
ヨシダが短く言う。
「今日は“縁側が海”みたいな断崖へ行こ。足元、気ぃつけや」
■ 東尋坊――風と岩の刃
海の音が、遠くからもう鳴っていた。
崖は縦に割れ、積み木の柱を千本並べたみたいな模様が、荒い息づかいで海へ落ちている。
「……おお」
ガレンは剣の柄に手を添え、言葉をなくした。
「岩が刃になってる。けど、切るためじゃない。立つための刃だ」
ルナは風に髪を預け、目を細める。
「境界。海と陸、空と岩、今と昔」
リリスは岩の割れ目に指をそっと置き、潮の跳ねる音に耳を澄ませた。
「石が歌ってる。低い声で、でもずっと続く歌」
観光の人だかりの向こうから、地元の漁師風の男性が声をかけてきた。
「足元、そこ滑るさけ、気ぃつけねの」
言葉はすべる。それでも掌の返しと目の角度で、十分伝わる。
アリアは胸に手を当て、深く一礼した。
男は「ええって」と笑い、波の方へ目配せする。
「海、きれいやろ。今日は機嫌ええ日や」
崖の上、露店の湯気に腹が鳴る。
焼きいか、浜の匂い。
レンが串を握りしめ、「海の味がする!」と目を輝かせた。
ミリアは炙った鯖の匂いにふっと瞳を細める。
「……“すし”の手前に、海の記憶があるんだね」
■ 三国湊の昼――ソースかつとおろしそば
坂を下り、三国の町へ。
古い蔵の黒と新しい格子が並ぶ路地に、小さなのれんが揺れていた。
「ここ、地元の“定番”あるさけ」
ヨシダが指した先、湯気と甘い香り。
腰を下ろすと、まず丼。
蓋を開ければ、薄く叩いたかつがソースを纏って艶やかに光る。
「ソース……かつ……!」
レンの瞳がきらり。かぶりつく。
衣は軽く、肉は柔らかい。甘みと酸が刃みたいに食欲を切り開く。
「んまっ! 丼にスープは――」
「待てレン、こっちは“おろしそば”だ」
ヨシダが別の盆を滑らせる。
冷たいそばに、大根おろしがこんもり、刻みネギ、出汁。
レンは箸を構え直し、ずず、と。
鼻に抜ける辛み、すぐに広がる甘み、最後に冷たい清冽。
「……っ! これ、武器……! でも人を守る武器……!」
ミリアも一口で目を丸くした。
「冷たいのに温かい。水の味がする」
隣席の年配のご夫婦が、笑って小皿を差し出す。
「すりごま、ちょっと入れてみ。味、丸うなるさけ」
言葉は半分。それでも“親切の押し付け方”は世界共通だ。
アリアは深く一礼し、指二つ分だけごまを散らす。
香りが立ち、辛みがふわりと丸くなった。
「――学びは、こうして口から入るのね」
■ 永平寺――“置く”修行
午後、山の道を分け入って永平寺へ。
杉がまっすぐ空へ伸び、石段の苔が光る。
伽藍の回廊は、木の香りと足裏の静けさで満ちていた。
作法を示す僧が、ことば少なく所作を見せる。
手を合わせる角度、足を置く幅、背筋の線。
言葉は通じなくても、真似れば通じる。
アリアたちはその“静かな術”に、剣より強い力を見た。
短い坐禅。
レンが落ち着かず視線を泳がせ、ガレンが無理に止めようとして肩がぴくりと動く。
ルナは、呼吸が山の呼吸と揃っていくのを感じていた。
リリスは、木の年輪が人の時間と重なる音を聴く。
ボリスは、祈りが層になってここに積もっていることを理解し、静かに頷いた。
終わりに、一行は胸に手を置いて深く礼。
僧は声を出さず、微笑で返す。
“ありがとう”は、音よりも角度で伝わる。
■ あわらの湯と、音のない「ありがとう」
夕暮れ、あわら温泉の宿へ。
湯の匂いが廊下の木目に染み込み、障子越しの灯りがやわらかい。
湯上がりに、湯飲みと、はぶたえ餅。
レンが「もちもち!」と頬を緩め、ミリアは「雪みたい」と笑う。
ルナは湯気の温度を胸で受け止め、アリアは湯飲みを両手で包んだ。
女将が「よう来てくれはったね」と言う。
言葉は拾えない。それでも、アリアたちは立ち上がり、胸に手を当て、背筋を正して礼をした。
女将は「ええええって」と手を振り、湯冷ましの急須をもう一度差し出す。
音のない「ありがとう」が、湯気と一緒に部屋を満たした。
窓の向こう、北の空に星が滲む。
明日は、石と紙と、恐竜の記憶へ――。




