滋賀編 第2話 近江の恵み
朝の湖は、夜よりも静かだった。
雲を溶かしたみたいな薄い光が水面を覆い、遠くで白い鳥が二度、三度と羽を打つ。
宿の前の桟橋まで出ると、板の継ぎ目から湿った木の匂いが立ちのぼった。
「……息してる」
リリスがつぶやき、桟橋の手すりに掌をのせる。
「木も、水も。ここでは全部が同じ呼吸をしてる」
「ほな、今日は“食”で近江を学ぼか」
ヨシダが笑う。
「湖の恵み、山の恵み、ぜんぶ味わう日や。覚悟しぃや」
「覚悟……食べるのに?」
レンが首を傾げ、ミリアは胸の前で小さく拳を握った。
「わたしは“ほんものの寿司”が、いつか――」
「今日は“寿司”とはちょっと違うけど、近いもんに出会えるかもしれんで」
ヨシダが意味ありげに指を立てる。
「匂いは強烈やけどな」
ボリスが目を輝かせた。
「発酵の術か。命を別の形に渡す営み……期待がふくらむ」
アリアはいつものように胸に手を当て、静かに頷いた。
「教えて、ヨシダ殿。わたしたちがこの地で学ぶべき“礼節”も」
「まかしとき。食は礼や。まずは“挨拶”からやで」
◆ 湖の朝市
湖岸の朝市は、思ったよりも賑やかだった。
軒を連ねる仮設の屋根、氷の上に並ぶ銀色の魚、干した網から滴る水。
地元の人の声が交差し、手と手が短く触れ合ってはすぐ離れる。
「いらっしゃい、いらっしゃい。今朝の鮎やで!」
「こっちはビワマス! 脂のりええよ、今日最高!」
レンは氷箱の前で目を丸くした。
「うわ……この魚、宝石みたいだ!」
ミリアはビワマスの鱗の光に見とれて、指先をそっと伸ばす。
店のおばちゃんが笑って、ささっと水で手を濡らさせた。
「触るなら、手ぇ冷やしてからな。魚、びっくりするさかい」
言葉の響きは全部は分からない。それでも、仕草と目の動きで意思がすっと通る。
アリアは深く頭を下げ、ミリアはおそるおそる鱗の列をなぞった。
「……冷たい。けど、やわらかい。生きてた時間の手触りがする」
別の店先で、ヨシダが立ち止まる。
「――ほな、覚悟の時間や」
木の桶。
蓋が軽く上がる。
空気の色が、変わった。
レンの目がぐるりと回る。
「……な、なんだ、これは……!」
ボリスは目を細め、うっとりと息を吸い込んだ。
「発酵の神が宿っておる……!」
店の大将が豪快に笑う。
「鮒寿司や。匂いはきっついけど、滋賀の魂やで。無理せんでええ、興味あらば一口だけ」
「ふ、ふな……」
ミリアは一歩退き、レンは一歩前に出た。
「ぼ、ぼく、挑戦する!」
「兄ぃ……!」
ミリアが袖をつかむ。
アリアは視線で「無理はしない」と告げ、レンはこくりと頷いた。
薄く切られた身は、琥珀色で、少し透けていた。
大将がほんのひとかけをレンの皿へ。
レンは鼻から息を逃がし、覚悟を決めて――口へ。
数秒。
顔の筋肉が、順番に忙しく動く。
酸。旨味。乳のような丸さ。遠い森の湿り。
そして、不意に、甘さ。
「……っ……! ――おいしい……!」
レンの目に光が戻る。
「最初は“えっ”ってなるけど、波みたいに味が変わる……! これ、ずっと食べると、たぶん好きになるやつだ!」
ミリアは恐る恐る小さく一切れ。
舌に触れた瞬間、眉がきゅっと寄って、次の瞬間、すっとほどけた。
「……深い。……水の記憶が詰まってる」
胸に手を当てる。
「“寿司”とは違うけど、でもこれは、たしかに“祈り”の味だね」
大将が嬉しそうに頷く。
「そういうこっちゃ。保存の知恵やけど、単なる保存ちゃう。時間を食べるんや」
ボリスが身を乗り出した。
「時間を食べる……なんと美しい表現か」
ルナは匂いに顔をしかめつつ、そっと一片口へ運んだ。
「……境界の味。生と死、川と湖、夏と冬。ぜんぶが交わるところ」
リリスは笑って「そういうの、あなた好きよね」と肩をつついた。
朝市を出る頃には、匂いにも不思議と慣れていた。
懐にひとつ、味の灯火が増えた気がした。
◆ 町の台所
通りを折れて、古い商家を改装した食堂へ。
格子戸の向こうから、湯気と出汁の香りが漏れる。
「ここ、昼は“湖の定食”や」
ヨシダが指で“うまい”の円を作る。
盆が運ばれる。
小さな皿が、湖の波みたいに並ぶ。
鮎の天ぷら、川海老の佃煮、ワカサギの南蛮漬け、日野菜の漬物、炊いた小芋。
真ん中の椀には、琵琶湖の恵みをやさしく吸わせた味噌汁。
アリアは最初の一口を慎重に選び、鮎の天ぷらに箸をつけた。
衣の中で香りが弾ける。
「……軽い。なのに深い」
次は味噌汁。
塩気ではなく、輪郭のやさしさで体の芯がほどけていく。
「この土地の水が、わたしたちの中に入ってくる」
レンは川海老に夢中だ。
「ちっちゃいのに、香ばしい! パリパリで無限!」
ミリアは南蛮漬けを食べて目を閉じる。
「……酸っぱくて甘くて、涼しい。湖の風みたい」
リリスは炊きものの色合いに見入り、ルナは漬物の塩加減に「祈りの強さ」を感じると真顔で言った。
ボリスは……もちろん酒だ。
地酒をほんの少しだけ舐めて、表情をゆるめる。
「山と湖の間の温度が、そのまま盃に降りてきたようだ」
食後、店の女将が湯呑みを配りながら言う。
「よう来てくれはった。言葉わからんでも、食べたら通じるやろ?」
アリアたちは一斉に胸へ手を当て、深々と礼。
女将は笑って、奥から紙袋をひとつ持ってきた。
「これ、おみや。日野菜の漬物や。道中、気つけてな」
ヨシダが「おおきに」と受け取り、アリアたちの礼に女将は「ええええって」と何度も手を振った。
◆ 牧場の昼下がり――近江牛
午後は、湖岸から少し離れた牧場へ。
草原が広がり、牛がのんびりと尾を振っている。
遠くの山並みが、雲の影を静かに受け取っていた。
「近江牛はな、育て方と水がもの言うんや」
案内の青年が、穏やかに牛の背を撫でる。
「草も水も、ええとこのを、ええ塩梅で」
ガレンは柵越しに牛を見つめ、真剣に頷いた。
「戦士の体も同じだ。良い水と良い糧が血を作る」
併設の直売所の奥に、鉄板の音が軽く響いた。
「……試食、していきます?」
青年が笑う。
ヨシダが「もちろん」と即答。
小さな一切れずつ、焼きすぎない火加減。
塩をひとつまみ乗せて、どうぞ。
最初に、ボリスが目を閉じた。
噛むというより、舌の上で解ける。
「……静かな雷や」
ガレンは一拍置いてから、短く言った。
「旨い。以上」
それが彼の最大級の賛辞だった。
ルナは「甘い」とだけ呟いて、もう一切れ求める視線を隠せない。
ミリアは戸惑った顔で微笑む。
「湖の魚と、山の肉。違うのに、どちらもこの土地の味」
レンは――両手で頬を押さえた。
「ラーメンに……入れちゃダメだ……これは、別の聖域……!」
全員が笑い、牧場の青年もつられて笑った。
◆ 町の祭り、輪の中へ
夕方、湖岸の小さな広場で、地元の祭りが始まっていた。
太鼓の音、子どもたちの掛け声、屋台の煙。
提灯が一つ、また一つと灯り、輪になって踊る人々の影が地面に重なる。
「おお、盆踊りやな」
ヨシダが肩を揺らす。
「“輪”に入ったら、だいたいなんとかなる。手ぇ出して、足は小さく。真似したらええ」
レンが真っ先に輪へ突っ込む。
「こう? こう?」
子どもたちが笑って、手を引き、足の出し方を教える。
ミリアも続き、ぎこちない手つきが次第に合っていく。
リリスは最初から妙に上手で、きれいに腕を回し、肩を揺らした。
ルナは目を閉じて、太鼓のリズムに呼吸を合わせる。
ガレンは……腕を回しすぎて後ろの青年に肩がぶつかり、すぐに深々と頭を下げる。
青年は笑ってガレンの手を取り、もう一度、輪へ引き戻した。
言葉はなくても、笑いと拍手と足音でぜんぶ通じていく。
屋台で買ったのは、鮎の塩焼き、焼きとうもろこし、そして近江名物の糸切餅。
アリアは串の先の鮎をかじり、塩の結晶が舌で砕ける音を聞いた。
「――湖の味が、火で強くなる。生きるための火」
年配の女性が近づいてきて、アリアたちの踊りぶりに目を細めた。
「上手やなぁ。どこから来はったん」
ヨシダが笑って肩をすくめる。
「遠いとこから」
「そらそうか、言葉がちょっと違うもんな。ほなこれ持ってき。道中気ぃつけてな」
小さな包み――中には薄い甘餅がいくつか。
アリアは胸に手を当て、深い礼。
女性はうんうんと頷いて、輪の外へ戻っていった。
踊りの輪は、夜が濃くなるほどにゆっくりになっていく。
太鼓の音が胸の内側で鳴り、足の運びが自分のものから“土地のもの”に混じっていくのが分かる。
アリアはふと、剣の重みを忘れていた。
◆ 湖上へ――小舟と夕陽
祭りの余韻を残したまま、ヨシダが桟橋に目をやる。
「最後に、湖の真ん中の風、吸いにいこか」
小舟の舳先が夕焼けに赤く染まっている。
櫂を漕ぐ若い漁師が笑って手招きした。
「ちょい沖までな。静かなもんやで」
揺れが、足から腰へ、背へとゆっくり上がってくる。
湖面は、夕陽の色を細かく砕いては作り直すことを繰り返していた。
「……空と、水が、入れ替わる」
ミリアが小声で言う。
リリスは舟縁に指をかけ、水の音を聴く。
「昼間の歌と違う。静かで、深い」
ルナは目を閉じ、髪を風に預ける。
「境界が薄くなる時間……好き」
アリアは湖の中央へ視線を投げ、胸に手を置いた。
「戦場の真ん中では、世界が狭くなる。けれど――ここでは、広くなる」
ボリスが頷く。
「水は記憶を運ぶ。山の影も、祭りの笑いも、魚の気配も、ぜんぶ重なってここへ来る」
漁師がひとことだけ言った。
「きれいな夜や」
言葉は分からない。
でも、舟の傾きと笑い方の角度で、十分に伝わる。
陽が落ちる。
薄紫の空に、一番星が灯る。
湖面にも、同じ星が灯る。
舟はゆっくり向きを変え、桟橋へ戻っていった。
◆ 宿に戻って――“ありがとう”の形
宿の座敷に戻ると、ちゃぶ台には昼に買った日野菜の漬物と、祭りで分けてもらった甘餅。
湯気の立つ急須からお茶を注ぎ合う。
レンは甘餅を頬張って「もちもち!」と声を上げ、ミリアは漬物を小さくかじって「夜に合う味」と微笑んだ。
ガレンは黙って甘餅を二つ目に手を伸ばし、ルナは湯飲みの茶葉の香りを嗅いで目を細めた。
リリスは、湯気の立つ流れに指先をかざして「森と同じ温度」と呟く。
ボリスはお茶で口を湿らせ、「酒じゃない“酔い”もある」と満足げに頷いた。
アリアはちゃぶ台に手を置き、ゆっくり言葉を選ぶ。
「――“ありがとう”という音を、わたしたちはまだ知らない。
けれど、手の角度と、目の温度と、背筋の伸ばし方で、きっと届く。
今日、この湖で、そう確信した」
全員が胸に手を当てた。
ヨシダが、ほっと息をつき、湯呑を掲げる。
「ほな、近江に――」
湯呑が、そっと触れ合って、小さな音が鳴った。
◆ 出発の朝
翌朝、風は少し強くなった。
湖面の波が細かく立ち、白い鳥が低く飛ぶ。
荷をまとめ、桟橋の先で一度だけ振り返る。
琵琶湖は、何も言わず、ただ同じ呼吸を続けていた。
「次は?」
レンが聞く。
ヨシダが笑う。
「北東――岐阜へ。山を越えて、また別の“水”と会いにいこか」
ミリアが小さく拳を握った。
「……その前に、もう一度“寿司”の夢、見た」
「叶えるさ」
アリアが剣の鞘を軽く叩く。
「この旅の終わりまで、きっと何度でも」
駅へ向かう道で、昨日の祭りの年配女性が畑の端から手を振った。
言葉は風にまぎれて聞き取れない。
でも、笑顔の形と腕の振りで、すべて分かる。
アリアたちは深く頭を下げた。
湖の国に、音のない「ありがとう」を置いていく。
列車の窓が小さく震え、動き出す。
琵琶湖の光が、遠ざかりながらも、いつまでも胸の内で揺れ続けた。
――近江の恵みは、食べ物の形だけではない。
笑い、手振り、足音、呼吸。
それらをまるごと受け取った一日が、確かな栄養になっていく。
列車は、山の影へ消えていった。
次の土地で、また新しい“味”と“礼節”を学ぶために。




