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女騎士の独り旅!  作者: 和泉發仙


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港と、神戸の夜



 電車を降りた瞬間、空気の匂いが変わった。

 坂の街の匂い。古いレンガと濡れた石畳、海から上がる風の塩気、それらが薄い膜になって頬に貼りつく。


「ここが……神戸」

 アリアは荷を肩に掛け直し、駅前の広がりを確かめるように見回した。


「ほな、うえのほう行こか」

 案内役のヨシダが指さした先、ゆるやかな坂が伸びていた。

北野坂きたのざか。“北の坂”言うて、こっから上がると異人館が並んどる。海からの風がちょうどええんよ」



 北野坂を上るほどに、足音が石に響く。

 洋館の壁は少しくすみ、窓枠の緑は日に焼け、階段の蹴込みに海塩の白がわずかに乗っている。

 古いものが古いままに、ここでは背筋を伸ばして立っている。


「わぁ……お城みたいなのが家になってる……!」

 レンが鉄の手すりに触れて目を丸くする。


「扉の彫刻、蔦の曲線……」

 ミリアはそっと指を沿わせた。

「木が歌ってる。仕立てた人の呼吸まで残ってるみたい」


「交易の匂いだ」

 アリアは人影の少ない路地に目をやる。

「ものと人が行き交い、言葉の層が重なる街。――穏やかだが、隙がない」


 通りの角に小さなベーカリー。

 白い帽子の店主がパンを並べながら声を掛けてくる。

「寄ってきぃ。坂、ようけ歩くさかい腹減るで」

 ヨシダが笑って会釈する。

「おおきに。ほな“塩パン”いこか。ここ名物なんや」

 粉の香りが、海の風と混ざった。

 アリアたちは言葉がとぎれながらも胸に手を当てて礼をする。

 店主は「ええよええよ」と手を振り、紙袋の底を二重にして渡してくれた。



 北野天満神社の石段に腰掛け、パンを分け合う。

 視線の先、斜面越しに海が四角く光っていた。


「この街、音が多いけど、うるさくないね」

 ルナが風に髪を預ける。


「層の重なりが綺麗なんや」

 ヨシダが指で空中に四角を描く。

「古いもん、新しいもん、港の匂い、異人館の影、山の背。ぜんぶ、喧嘩せんと並べてる」


「層……」

 ボリスは胸の前で分厚いノートを閉じた。

「歴史も層だ。読み違えると崩れるが、噛み合うと美しく立つ」


 アリアは噛みしめる。塩気が舌でほどける。

 ――人と人の接し方も、きっと“層”の合わせだ。

 こちらが一歩引けば、あちらが一歩寄ってくれる。

 言葉が足りなくても、温度で合うところがある。



「ほな、そろそろ腹もできたやろ」

 坂を少し下り、ヨシダが横丁に折れる。

 赤い暖簾が風にはためいていた。


「中華 福来軒」


 引き戸をガラガラ。

 油の香り、金属がぶつかる音、湯気。

 壁の短冊に黒い文字が並ぶ。

 ――ラーメン、餃子、チャーハン、天津飯、焼きそば。


「いらっしゃい」

 白衣の大将の声は短く、温かかった。

 丸椅子が少しだけきしむ。

 カウンターの向こうでは、鍋を振る腕が滝のように一定のリズムを刻んでいる。


「ここな、ワシらの若いころから変わらへん」

 ヨシダが目尻を下げる。

「頼むで大将、今日は客、多いさかい」


「なんぼでも。先に餃子いくで」

 ぶっきらぼうな返事。だが角の取れ方が心地いい。



◆ 注文と、地元の声


「何にする?」

 ヨシダがメニュー札を示す。


「ギョーザ! あと、テンシンハン!」

 レンより早く、ミリアが指を伸ばして驚かせた。

 そして、少しだけ視線を落とす。

「……でも、いつか“スシ”も」

 伏線の結び目を、彼女は自分でそっと握り直す。


「わしは味噌ラーメンいっとこ」

 ヨシダが笑うと、カウンター端の常連客がこちらを見て頷いた。

「味噌か。兄ちゃん、今日は塩もうまいで。海、きとるわ」

 地元の男の声は、潮の香りみたいに素朴だ。

 レンの視線が一気に吸い寄せられる。

「しお……? 海……? それ、ぼく、食べる!」


「黒いのもあるで」

 大将が湯切りをしながらぼそっと言う。

「醤油、きりっとしてる。黒いけど、しかつめらしくはない」


「く、黒い……!」

 レンの瞳が完全に恋をした。

 ――ラーメンマニアの芽が、はっきり芽吹いた瞬間だった。


「わし、チャーハン」

 ガレンは短冊を指で叩く。

「肉も飯も一緒、戦士の糧や」


「私は餃子とラーメンを少し」

 アリアが控えめに告げると、隣の席の年配女性が「よう食べ」と小皿を差し出してくれた。

「これ、酢醤油。ちょびっと辛子いれたら、からだ温まるよって」


 言葉は完璧には拾えない。

 でも“やさしい押し付け方”は、どの世界でも同じ形をしている。

 アリアは胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。



◆ 鍋が歌う、湯気が立つ


 音が増える。

 中華鍋が跳ね、玉杓子がぶつかり、湯の表面が一度だけ張り詰める。

 ――先に来たのは餃子。

 羽根の縁が光を拾い、月の一切れを皿に乗せたようだ。


「外は鎧、中は宝玉!」

 ガレンが一口で言い切る。

 リリスは、蒸気に目を細めながら囁く。

「肉と野菜の調和……聖餐に近い」


 天津飯の卵がゆらっと揺れる。

 ミリアはスプーンで端を割って、出汁が染み込んだ米をすくう。

「……星が、解ける」


「ラーメン、お待ち!」

 丼が二つ置かれる。

 黒い醤油の面に小さな油の花。もう一つは澄んだ塩、底の金がかすかに見える。


 レンは黒を選んだ。

 湯気の向こうから、白い麺が立ち上がる。

 鼻先に醤の香り。

 ためらいなく――ずずっ。


「……!!!」

 空気が一瞬止まる。

「おいしい! これ、神の麺だ!」

 椅子の丸い足が少し床を滑った。

「毎日でも食べられる! いや、朝昼晩でも!」

 隣の常連が笑って肩を叩く。

「ええぞ兄ちゃん、せやけど体は大事にしぃや」


 ルナは塩を選んだ。

 スープを一口、静かに頷く。

「闇じゃない……光の刃。澄んでいるのに、強い」

 年配女性が目を丸くして笑う。

「ええこと言いはるわぁ」


 アリアは黒のスープをほんの少し。

 熱が喉を撫でる。

 ――戦場で欲しかったのは、もしかすると、こういう“優しい刃”かもしれない。

 敵を断つための刃じゃなく、今日を越えるための温度。


 ヨシダは箸を置き、目尻を下げた。

「変わらんなぁ、ほんま」

 大将が鼻で笑う。

「変えへんように、ちょっとずつ変えてるんや」

 言葉の含みを、湯気がやわらげる。



◆ “地元”が差し入れてくれるもの


 会計のとき。

 看板娘が紙袋を差し出した。

「これ、おまけ。揚げ麺。砕いてスープに入れたらうまいねん」

 アリアたちは深く礼をする。

 言葉のかわりに、角度と時間で感謝を伝える。


「よっしゃ。次は魚んまいとこ、ワシが連れてったる」

 ヨシダが親指を立てると、カウンターの常連が笑った。

「明石、ええで。昼網のん、しゅっと出してくれはる」

 ミリアの瞳が、ちいさく震えた。

「……いつか、必ず」

 彼女の中で結ばれた“寿司”の糸が、ぷつりではなく、きゅっと固く結び直される。



◆ 港の記憶


 店を出ると、夜気が冷えていた。

 港のほうへと坂をくだる。

 街灯が濡れたアスファルトの上に円をつくり、円と円の狭間を、潮の匂いが埋める。


 波止場へ降りると、黒絹の海がわずかに呼吸していた。

 貨物船の影、遠くの観覧車の光、埠頭の鉄骨。

 ミリアが囁く。

「音が多いのに、静か」

 エリオットが線香を取り出し、火をつける。

 細い煙が夜に道を描く。

「死者に香りで道を差し出す……美しい習わしだ」


 ふ、と風が撫でていった。

 ルナが耳を澄ませる。

「……鳴いた?」

 港の外れの小さな墓地へ寄り道する。

 石の並びが空の冷たさを拾い、灯の色をほんの少しだけ奪う。


 茂みの影から、白いものがふっと滑り出た。

 狐のような光。

 リリスが息を呑む。「……精霊?」

 光はただこちらを見て、ゆっくりと瞬きをして、消えた。


 アリアは柄に触れかけた指を離し、胸に手を当てた。

 ――こちらは剣を抜かない。

 夜に向かって、音のない宣誓を置く。


 そのとき、墓地脇の平屋から、縁側の明かりがそっと灯る。

 年配の男性が湯呑を手に顔を出した。

「怖ない、怖ない。あれは“こっくさん”や。ええ夜によう出はる」

 ヨシダが小さく頭を下げる。

「今晩は。お騒がせしてます」

「ええねん。風がよう通っとる。気ぃつけて帰り」

 男は湯呑を月へ掲げ、にこりと笑った。

 言葉が半分しか分からなくても、“だいじょうぶ”の温度は満ちる。



◆ 宿での卓


 宿へ戻ると、ちゃぶ台の上に明石焼きが並んだ。

 出汁の湯気が、夜の疲れをやさしくほどく。

 箸先を入れると、卵がふわりと割れ、香りが立つ。


「――日本一周、ただの旅だと思っていた。でも違う」

 アリアは仲間を見た。

「わたしたちは、この国の魂に触れている」


「私は、妖と神話をもっと」ルナ。

「武道を極め、この国の戦士と互角に」ガレン。

「歴史の層を掘る」ボリス。

「森と風と話す」リリス。

「墓を通して死者を知る」エリオット。

「ラーメン食べ尽くす!」レン。

「その前にお寿司!」ミリア。

「みんなで景色を見て回りたい!」雅彦。


 ヨシダが目尻をゆるめる。

「めっちゃええやないですか。ほな約束や。次は“魚んまいとこ”、朝から行こ」

 ミリアの口元に小さな笑みが灯る。

 レンはもう、次の丼の夢に頬を染めていた。


◆ 出発の朝


 潮の匂いがまだ薄く残る朝。

 北野坂の影は短く、港の光はやわらかかった。

 荷を背に、アリアは立ち止まってもう一度だけ振り返る。

 洋館の窓に朝の空が映り、石畳の目地に新しい一日の気配が沈んでいく。


「次はどんな景色が待ってる?」

 雅彦の問いに、アリアは剣の鞘を軽く叩く。

「この旅の終わりまで、きっと誰も知らない景色が待っている。だから――進もう」


 笑い声が、坂から海へ、海から空へ、薄くなりながらも確かに流れていった。


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