不可解な村
エメラルドグリーンの苔に覆われた石畳が続く村、エルドラ。そこは、穏やかな農村として知られていた。しかし、その静寂は、この数週間で立て続けに発生した、村人の不可解な失踪事件によって破られていた。
「また、一人消えたらしいわ」
アリアは、冷たい風にさらされながら、村の広場に立つ掲示板を見つめていた。掲示板には、手書きの似顔絵と名前が書かれた張り紙が、何枚も貼られている。いずれも、つい最近までそこに暮らしていた人々のものだ。
「これで、もう五人目か」
彼女の隣に立つエリオットは、フードを深く被り、その顔は影に覆われている。彼の目は、張り紙よりも、むしろその周りをうろつく村人の怯えた視線に向けられていた。ネクロマンサーという存在は、この世界では忌み嫌われることが多い。彼のフードの下に隠された顔に、安堵の表情はない。
「ええ。昨夜、ラウルという名の若い猟師が。彼が失踪した場所は、村の北側にある『嘆きの森』の入り口だそうです」
アリアは、掲示板から目を離し、遠くに見える暗く鬱蒼とした森を睨みつけた。その森は、昔から魔物が棲むと言われ、村人から恐れられていた。
「嘆きの森……。何百年も前から、不吉な噂が絶えない場所だ」
エリオットは、低く呟いた。彼の言葉には、単なる知識以上の、何か特別な響きがあった。
二人は、村長から話を聞くために、村の長老が集まる館へと向かった。村長は、疲れ切った顔で二人を迎え入れた。
「騎士様、そして……、ええと、そのお連れの方。本当に、助けていただきたいのです。このままでは、村は崩壊してしまう」
村長は、震える手で茶を淹れながら、事の次第を説明した。失踪した人々には、共通点がない。年齢も性別も職業もバラバラだ。ただ一つ言えるのは、彼らが皆、夜間に姿を消していることだった。
「物音も、争った形跡も、何もない。ただ、
忽然と消えてしまうのです。まるで、霧のように」
村長の言葉に、アリアは眉をひそめた。争った形跡がないということは、抵抗する間もなく連れ去られた、あるいは、自ら進んでついて行った可能性も示唆している。後者は考えにくいが、もしそうなら、何か特殊な魔法か呪術が関わっているかもしれない。
「失踪した人々の家や、その周辺に、何か奇妙なものは残されていませんでしたか?」
エリオットは、静かに尋ねた。彼の視線は、村長の顔ではなく、テーブルの上の木目に向けられている。
「それが……、一つだけ。どの家にも、小さな……、黒い花びらのようなものが落ちていたそうです。ただ、それはすぐに風に飛ばされてしまうような、薄くて軽いもので……。誰も気に留めていなかったのですが、今思えば……」
村長の言葉に、アリアとエリオットは顔を見合わせた。黒い花びら。それが、この事件の唯一の手がかりかもしれない。
二人は、まず、失踪事件が始まった家から、順に調べることにした。最初に消えたのは、薬草師の老女だった。彼女の家は、村の端、嘆きの森に最も近い場所にあった。
家の中は、綺麗に片付いており、荒らされた形跡はない。薬草の甘い香りが、ほのかに残っていた。アリアは、部屋の隅々まで目を凝らし、エリオットは、家の内外を歩き回り、地面に手をかざして、何かの痕跡を探していた。
「アリア、こっちだ」
エリオットは、老女が使っていた作業台の下を指差した。そこには、小さな木片が落ちていた。それは、まるで誰かが爪で引っ掻いたかのように、細い線が何本も刻まれている。
「これは……」
アリアは、木片を手に取り、じっくりと観察した。そして、彼女の目が、作業台の壁に貼られた古びた地図に止まった。地図には、嘆きの森の詳しい地形が描かれており、いくつかの場所に印がつけられている。そのうちの一つ、特に深く印が刻まれている場所が、先ほどの木片と、微妙に重なるように思えた。
「もしかして、老女は、この地図に何かを残そうとしたのかもしれないわ。だが、時間がないか、何者かに邪魔されて、途中でやめてしまった……」
アリアの言葉に、エリオットは黙って頷いた。彼が拾い上げた木片からは、微弱な魔力の痕跡が感じられた。それは、自然の魔力とは異なる、人工的で、どこか不気味なものだった。
「これは……、**『影の種』**だ。暗黒魔法の一種。特定の場所に、影の種を撒くことで、生物の魂を吸い寄せる効果がある。しかし、こんなに弱い力では、人間を連れ去ることはできないはずだ。せいぜい、幻覚を見せる程度……」
エリオットは、眉をひそめた。彼の言葉は、この事件の複雑さを物語っている。弱い魔力で、五人もの人間を消すことは不可能だ。しかし、この魔力が、事件の引き金になっていることは確かだろう。
二人は、他の失踪者の家も調べたが、手がかりは何も見つからなかった。ただ、どの家の周辺からも、エリオットは微弱な影の種の痕跡を感知した。それは、まるで、失踪者を誘い出すための道標のように、村から嘆きの森へと続いているようだった。
「どうやら、嘆きの森へ行くしかないようね」
アリアは、腰に下げた剣に手をかけた。その瞳には、すでに決意の色が宿っている。
嘆きの森の入り口に、二人は立っていた。昼間だというのに、森の中は薄暗く、木々が葉を茂らせ、太陽の光を遮っている。足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を刺した。
「気をつけろ、アリア。この森は、ただの森じゃない」
エリオットは、懐から小さな袋を取り出した。中には、乾燥したハーブや、何かの骨が詰まっている。彼は、それを慎重に地面に撒きながら、歩き始めた。
「これは、『道開きの呪』。この森に潜む邪な気を祓い、道を開くためのものだ」
アリアは、エリオットの後ろを歩きながら、周囲を警戒していた。木々の間から、時折、奇妙な音が聞こえてくる。それは、風の音のようでもあり、誰かの呻き声のようでもあった。
森の奥へ進むにつれ、空気はさらに重く、冷たくなっていった。道の両脇には、奇妙な形の苔が生い茂り、木々の根は、まるで巨大な蛇のように地面を這っている。
やがて、二人は、道が開けた場所に出た。そこには、円形の広場があり、中央には、古びた石碑が立っていた。石碑の表面には、読解不能な文字が刻まれている。そして、その石碑の周りを、失踪した村人たちが、うつろな目で歩き回っていた。彼らは、まるで夢遊病者のように、同じ場所を何度も何度も、無意味にさまよっている。
「村人たちが……。無事だったのね!」
アリアは、安堵の表情で駆け出そうとした。だが、その腕を、エリオットが掴んだ。
「待て、アリア!奴らは、生きてはいるが、魂が抜けている!」
エリオットの警告に、アリアは足を止めた。彼のフードの奥から、強い魔力が放たれている。
「奴らの魂は、この石碑に吸い取られている。そして、この石碑は、ある存在に力を供給しているんだ……」
エリオットの言葉が終わるか終わらないかのうちに、石碑の背後から、巨大な影が現れた。それは、漆黒のローブを纏った、背の高い男だった。彼の顔は、深いフードに隠され、その手には、不気味な光を放つ杖が握られている。
「よく来たな、異邦人よ」
男の声は、まるで地の底から響いてくるような、低く、重い響きを持っていた。
「お前が、この村の事件の犯人か?」
アリアは、男を睨みつけながら、剣を構えた。彼女の剣先は、わずかに震えている。相手の放つ不気味な魔力に、彼女の本能が危険を察知していた。
「犯人?違う、私はただ、**『主』**のために、捧げ物を集めていただけだ」
男は、冷笑を浮かべた。彼の言葉に、アリアは怒りを覚えた。
「捧げ物?村人たちの命を、捧げ物だと!?許さない!」
アリアは、叫びながら、男に向かって突進した。彼女の剣は、光を放ち、一閃、男の喉元を狙う。だが、男は杖を一振りしただけで、アリアの剣を弾き飛ばした。
「愚かな。貴様のような小娘に、この私ヨルツ様の目的が理解できるものか。この石碑は、古き神を呼び覚ますための**『魂の供物』**。集めた魂の数だけ、神は力を取り戻す。そして、その神が復活した時、この世界は……」
目の前の男=ヨルツは、高らかに笑った。その笑い声は、森全体に響き渡り、村人たちのうつろな目を、さらに虚ろにさせた。
「待て!貴様、その杖は……、まさか、**『虚無の杖』**か!?」
エリオットが、フードの下から顔を出し、叫んだ。彼の顔には、驚愕と、わずかな恐怖の色が浮かんでいる。
「ほう、見抜くか。さすがは、ネクロマンサー。だが、もう手遅れだ。あと一人、魂を捧げれば、神は復活する。そして、その最後の一人は……」
ヨルツは、杖の先端を、アリアに向けた。その瞬間、杖から黒い稲妻が放たれ、アリアの身体を包み込んだ。アリアは、身動きが取れなくなり、その意識が、徐々に薄れていくのを感じた。
「アリア!」
エリオットは、アリアを助けようと駆け寄る。だが、ヨルツは杖を振るい、エリオットの足元に、黒い炎を巻き起こした。炎は、エリオットの動きを止め、彼をアリアから引き離した。
「安心しろ。貴様の魂は、ただの捧げ物ではない。私は、貴様の力、**『光の力』**を、古き神の復活の儀式に利用させてもらう」
ヨルツは、冷酷な笑みを浮かべた。アリアの身体から、まばゆい光が放たれ、石碑へと吸い込まれていく。石碑は、その光を吸収し、不気味な音を立てて、きしんでいた。
「くそっ!」
エリオットは、炎の壁に阻まれ、アリアに近づくことができない。彼の心臓が、激しく高鳴っていた。このままでは、アリアの魂が奪われ、彼女は、村人たちと同じ、魂の抜けた人形になってしまう。
「私は、ネクロマンサー。死者を操る者。だが、魂を奪われた者を救う術は、知らない……」
絶望的な状況に、エリオットは拳を握りしめた。彼の心の中で、ある記憶が蘇る。それは、彼の師が、かつて語った言葉だった。
『エリオットよ。我らネクロマンサーは、死を操る者。だが、忘れてはならない。真のネクロマンサーは、死を支配するのではなく、死者の魂に寄り添う者なのだと』
その言葉が、エリオットの脳裏を駆け巡る。そして、彼は、ある決断を下した。
「アリア!聞こえるか!?アリア!」
エリオットは、炎の壁に向かって、必死に叫んだ。
「俺は、お前を助ける!だから、俺の声を、魂の奥底で聞いてくれ!」
アリアの意識は、光の中に溶けていくようだった。だが、遠くから聞こえてくるエリオットの声が、彼女を現実に引き戻そうとしていた。
『俺の声を……、聞いて……』
エリオットは、炎の壁の向こうで、詠唱を始めた。彼の身体から、黒く禍々しい魔力が立ち上る。それは、これまで彼が使ってきた魔法とは、全く異なるものだった。それは、生命を冒涜するような、おぞましい魔力……。
「馬鹿な……、お前は……、魂の連結を!?」
ヨルツは、エリオットの詠唱に、驚愕の表情を浮かべた。魂の連結。それは、ネクロマンサーの中でも、ごく限られた者しか使えない禁断の術だった。自身の魂を、相手の魂と連結させ、その魂を強引に引き戻す術。しかし、その術は、使用者の魂に、致命的な傷を負わせる可能性があった。
「アリア、俺の魂と、お前の魂を……、一つにする!」
エリオットの身体から放たれる魔力は、アリアの身体から放たれる光と混ざり合い、石碑に向かって流れていた。それは、まるで、二つの川が、一つの大きな流れになるかのようだった。
「やめろ!その術を使えば、お前の魂は……!」
ヨルツは焦って叫んだ。彼の杖から放たれる黒い稲妻は、エリオットに向かって放たれたが、エリオットの周囲を覆う魔力によって、弾き飛ばされた。
エリオットの意識が、アリアの意識の中へと、深く潜り込んでいく。アリアの意識の中は、まばゆい光に満ちていた。その光は、暖かく、優しく、彼女の心を包み込んでいた。
『アリア……、俺の声が、聞こえるか……?』
アリアは、その声に、懐かしい温もりを感じた。
『エリオット……?』
彼女の意識が、少しずつ、現実へと戻ってくる。
『ああ。俺は、お前の中にいる。だから、目を覚ましてくれ!お前の光を、こんな奴らのために、使わせてたまるか!』
エリオットの声に、アリアの心に、力が漲ってくるのが分かった。彼女は、目を閉じて、エリオットの声に耳を傾けた。
「光の力……。それは、私の魂の力。誰にも、奪わせはしない!」
アリアは、心の中で叫んだ。彼女の身体から、再びまばゆい光が放たれる。しかし、それは、石碑に吸い込まれる光ではなかった。それは、アリア自身の力、彼女の**『聖なる光』**だった。
「な、なんだと!?なぜ、力が逆流している!?」
ヨルツは、驚愕の表情を浮かべた。石碑は、アリアの聖なる光を吸収できず、逆に、その光によってひび割れ始めた。
「アリア、今だ!その光で、石碑を……、砕け!」
エリオットの声が、彼女の耳元で響いた。
「聖剣の光よ!邪悪を滅せよ!」
アリアは、叫びながら、その身に宿るすべての力を、石碑へと放出した。まばゆい光が、石碑を包み込み、そして……。
ドォォォォン!!
石碑は、爆発音と共に、粉々に砕け散った。砕け散った石碑から、村人たちの魂が、光の粒となって飛び出し、それぞれの身体へと戻っていく。村人たちは、まるで長い夢から覚めたかのように、その場で倒れ込んだ。
「くそっ!この私が、こんな小娘に……!」
ヨルツは、杖を地面に叩きつけ、悔しそうに叫んだ。その時、エリオットの身体から、黒い魔力の球が放たれた。それは、ヨルツの杖に直撃し、杖を粉々に砕いた。
「貴様の魂は、俺がもらっていく……」
エリオットの声は、冷酷な響きを持っていた。彼の身体からは、まだ魂の連結の余波が残っている。その強力な魔力は、ヨルツの魂を、彼自身の身体から引き剥がそうとしていた。
「馬鹿な……、こんな、禁断の術……、まさか、お前……、本当にネクロマンサーの……!」
ヨルツは、顔色を変え、後ずさりした。その時、アリアが、ヨルツの背後に立っていることに気づいた。彼女の剣は、光を放ち、ヨルツの首筋に突きつけられていた。
「これ以上、悪事を働くなら、容赦はしない」
アリアの目は、冷たく、怒りに満ちていた。男は、観念したように、両手を挙げた。
事件が解決し、村人たちは無事に村へと戻された。魂が抜けていた間の記憶は、まるで悪夢のようにおぼろげで、彼らは、何が起こったのか、正確には理解していなかった。しかし、アリアとエリオットが、自分たちを救ってくれたことは、本能的に理解していた。
村長は、二人に深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。あなた方のおかげで、村は救われました」
「いいえ。これは、私たちの仕事ですから」
アリアは、笑顔で答えた。彼女の隣に立つエリオットは、相変わらずフードを深く被っている。
「ところで、あのヨルツはどうなったのですか?」
村長が、おそるおそる尋ねた。
「彼は、捕らえました。これ以上、誰も傷つけないように、厳重に……」
アリアは、言葉を濁した。ヨルツの行く末は、彼らの冒険の目的ではない。
その夜、アリアとエリオットは、村の宿屋で、静かに酒を飲んでいた。
「エリオット。ありがとう」
アリアは、グラスを傾けながら、ぽつりと呟いた。
「魂の連結……。あれは、危険な術だと聞いたわ。あなたの身体は、大丈夫なの?」
エリオットは、アリアのグラスに酒を注ぎながら、黙って頷いた。
「ああ、問題ない。だが……」
彼は、言葉を切った。
「だが、何?」
「あの術は……、魂と魂を繋ぐ。その時、俺は、お前の心の中を見た」
エリオットの言葉に、アリアは、少しだけ頬を染めた。
「……何を、見たの?」
「お前の心は、光に満ちていた。強さ、優しさ、そして……、誰かを守りたいという、強い想い。それは、俺のような、暗闇を歩く者には、眩しすぎる光だ」
エリオットは、グラスを口に運びながら、目を閉じた。アリアは、彼の言葉に、何も言えなかった。ただ、彼女の胸の中に、温かいものが込み上げてきた。
「私は……、あなたの心の中は、見ていない。でも、きっと、あなたの中にも、光がある。そうでなければ、あの時、私を助けようとは思わなかったはずよ」
アリアの言葉に、エリオットは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳は、グラスに反射する炎の光を映して、揺れていた。
「さあ、飲みなさい。そして、次の冒険の話でもしましょう。きっと、また厄介な事件が、どこかで私たちを待っているわ」
アリアは、明るく笑った。その笑顔は、闇を照らす光のように、エリオットの心を温かく包み込んだ。アリアたちの冒険は、まだ、始まったばかりだ。




