おまけ~決戦前夜~
お風呂上りで髪にトリートメントをぬりたくっていると、不意にスマホが震えた。リビングの机に放り出しておいた画面を、通知だけ見るように覗き込む。宝珠山の千菊からだった。
電話でなくメッセージなのは、夜間に緊急連絡以外の通話をしてはいけない寮の決まりによるものだ。規律に厳しいあの学校では、消灯時間になるとスマホの回収もされてしまうらしい。片時も手放せない現代人の私からすれば、堪えがたいことだ。
――どした? 敵情視察?
試合を明日に控えた夜に、何の用事だって言うのか。からかい交じりに、そんな返事を打つ。
――確かに、そう取られかねても仕方ないね。すまない。今日はやめておこう。
――いや、ウソだよ。大丈夫だよ。
相変わらずお堅いヤツ。千菊のことは幼稚園から知ってるけど、昔っからこうだった。堅くて、正直で、真面目で、融通が利かなくて、あと思い込みが激しい。だから放っておけない。あこや南にも、何人かそういうのが居る。
――流石に、最後の大会の前だから緊張してる?
場を和ませるつもりで送ると、既読がついてからしばらく返事が滞る。やがて帰って来たのは、短くも決意に満ちたひと言だった。
――最後じゃない。
トークルームに流れて来た文字を見て、ニヤリと笑みがこぼれる。そう来なくっちゃ。
――悪いけど、インハイを渡す気はないよ。私の知る限りでは、今年のウチはベストメンバーだから。
――須和黒江も出るのか?
――ヒミツ! 教えるわけないじゃん!
わざわざ敵さんにそんな情報を教える必要は無い。正直、今の我々の内情を知っているのは、練習試合を行った宝珠山くらいだ。須和黒江があこや南に入学したという情報を持っている他の学校は、きっと彼女が試合に出て来るものだとして対策を練って来ることだろう。おおむね中堅か大将に居るものだとして、勝負するか、捨てるか。
まあ、結果として黒江ちゃんは試合に出ないんだけど。徒労に終わる警戒をされる分には、こちらとしては願ったりだ。存分に恐れおののいてもらおう。
もっとも……彼女が試合に出てくれることの方が、願ったり叶ったりな状況ではあったんだけど。あこや南の選手候補総勢十人がかりで立ち向かって、ただの一度も黒星を刻むことができなかった剣士。正直言って化け物だ。でも、本人が出たくないと言っているものを、無理矢理させるわけにもいかない。
代わりに、特に合宿からのこの一ヶ月間、彼女が練習やリーグ戦に参加したことで、チームの実力はかなり底上げされたと思っている。強い人と練習するって言うのは、それだけで価値がある。だからこそ、やっぱり今年が、私にとってのベストメンバーなんだ。
――千菊は警戒してる高校ある? あ、もち、ウチ以外で。
――やはり左沢だな。流石の王者だ。毎年安定して逸材が揃っている。
――今年は不作の年って評判だけど。
――不作と言っても、我々の部のレベルを基準にするなら即戦力だろう。
それはごもっともで。ひとりでもウチに流れてきて居ようものなら、私か竜胆ちゃんか、間違いなくどっちかが補欠落ちしているだろう。私自身は、スタメンであることにそれほど強いこだわりはない。私より適している強い選手がいるならば、喜んで枠を譲ろう。
全国出場は私の目標ではなく、私たちの目標だ。そのために三年間を捧げて来たんだから。
――千菊は、今のチームに満足してない?
ほとんど自分自身に問いかけるような言葉だった。だから、続けざまに素直な気持ちで答える。
――私は、このチームで全国へ行きたい。
今度は、ほとんどタイムラグなく返事がくる。
――私も同じだ。
なんだ、ちゃんと部長できてるじゃん。去年の地区予選の後、代替わりで千菊が部長になるって聞いた時は、他人事ながらずいぶん心配したものだ。千菊は確かに実力があるし、それに伴った人望もある。真面目だし、指導者からの評価が高いのも分かる。でも、人物的にはちょっと抜けたところがある子だから。中学でも結局、私が部長をやって、千菊が副部長だっけ。学校が違うとはいえ、それが今では逆になるなんて。
でも、私は副部長で良かった。それだけは胸を張って言える。
部長って言うのは、みんなの気持ちをひとつにまとめ上げるための、要石みたいな存在だ。まとめ方は何だっていい。圧倒的な強さで憧れを集めるのでも、抜群のコミュ力でみんなに慕われるのでも、その他の方法でも。
――千菊はさ、剣道やりたくて続けてる?
――もちろん。
――私はたぶん何となく続けてた。
向上心があったわけでも、倒したいライバルが居たわけでもない。長く続けていたから、なんとなく高校も剣道部に入った。それだけ。
だけど、そこには八乙女穂波が居た。全国の舞台へ行きたくて行きたくて、そのためにあこや南を選んで、練習して、負けて、泣いて、また練習して、練習して、練習して。そんな彼女がいたから、私も真面目に練習に取り組んだ。強くなる方法を考えた。どうにかして部のレベルを底上げする方法も。
あこや南剣道部っていう集団は、部長である穂波のために存在している。彼女を全国の舞台へ連れていくため。私たちは、その夢に乗ったんだ。
――でも今は、早く試合がしたくてたまらないよ。
この部の副部長でいられたことを、私は誇りに思うだろう。半分消去法ではあったけど。日葵はあんなんだし、楓香も責任を負わせるよりはムードメーカーであってくれた方が良い。私が副部長であることで、この部は今の形で回っている。それだけは胸を張って自慢できることだ。
――そうは言っても、最初は個人戦だけどね。
――いいじゃないか。トーナメントで当たるのを楽しみにしてるよ。
あー。うん。まあ、これくらいは言っても良いか。別に、対策を取るどうこうの問題じゃないし。
――私は個人戦出ないよ。団体戦でこそ力を発揮するタイプだし。
――そうか。それは残念だ。
――残念がってる余裕あるかな?
――どういう意味だ?
もちろん穂波は個人戦にも出るよ。個人だって全国の道は開けてるんだから。悩んだのは他の出場枠。ある意味で、私たち他の三年組に決定力が足りないせいでもあるんだろうけど。だけどここは前向きに捉えて、自信を持って送り出すことにした。
今後に向けて、いい経験になる?
いやいや、そんな消極的な話じゃない。
爆発力だけなら決して負けない。彼女たちにだって、全国行きの切符を掴むチャンスは十分あると見込んでの選出なのだから。
――ウチの後輩たち、ナメてかからない方が良いよって忠告しといてあげる。
二年前の穂波がそうだったように、今年一年の彼女たちなら、あこや南の新しい起爆剤になってくれると信じている。




