亜希先生(前篇)
「いらっしゃい友繁さん」
白衣を着こなした眼鏡の女性が出迎えてくれた。中原亜希先生、気分の悪い時に保健室を使わせてもらった機会が何度かあった。
確か、その時に少し話をしたことはあるけど、面と向かって話をするのはやはり萎縮してしまう。
サポート室には長テーブル一つと二人掛けソファーが向かい合う以外に何もなかった。連なった二つの腰高窓の先には近隣の住宅の屋根が見えていた。窓の外から微かに聞こえてくる部活動を懸命に頑張っている声がやけに遠く感じられた。
「どうぞ、こっちに座って」
亜希先生の手の差す方のソファーへ歩き出した。足を前に出す度に奮えているのが分かった。緊張と不安で胸が締め付けられる気持ちが、表に出てきているのだ。
美幸は小さく嘆息を漏らしながら腰掛けた。ソファーの軋む音がやけに大きいような気がした。亜希先生は美幸を見つめながら少し遅れてゆっくりと腰を下ろした。
先生の顔を直視できなかったので視線をテーブルに向けた。そこには赤い手帳が置かれていて、数枚の付箋がはみ出していた。
「じゃあ、まずは改めて自己紹介するわね。私は中原亜希、何度か保健室に来てくれているし、分かっているとは思うけど、一応ね」
「はい……」
「緊張してる? 大丈夫、恐がらなくていいのよ。それにね、ここに来てくれて、ありがとう友繁さん。先生は友繁さんの味方になりたいと思ってここにいるの」
美幸には疑念が沸き上がっていた。本当にこの世界に自分の味方なんているのか。家族以外はみんな自分のことを見下し、存在してないように扱うのに。
「私は担任ではないけれど、あなたのことをあなたと一緒に考えたいと思っているのよ」
「先生はね、あなたの味方なの。だからね、ちょっとだけ話をしましょう」
美幸は怪訝な表情が表に出ないよう踏ん張って口を開いた。
「何を話されているのか解りません」
そんな人間などいるわけがない。善行を成す人間も、悪行を犯す人間も、どちらも何も変わらない。他人に干渉する人間は、最後に自分の優劣を証明したいだけの滑稽者でしかない。
「あのね、友繁さん、今無理に話してくれなくても良いよ。少しずつ、少しずつで良いから、先生に何でもいいから話をしてくれない?」
その穏やかでいて温かい視線と言葉に揺らぐような軟な人間ではない。美幸は自分にそう言い聞かせ、小刻みに震えている身体と背中を覆う冷たい悪寒に苛まれながらも立ち上がった。
「すみません……今日は……帰ります……」
美幸は立ち上がった瞬間、自分の足の震えに驚いた。立っていられないのではないかというほどの震えが止まらなかった。
それでも、ここから逃げなければならない。喉の詰まるような感覚に襲われ、息が苦しくなった。
「友繁さん? 大丈夫?」
優しい声がゆっくりと近づいてくる。心配した腕が美幸の肩に届きそうになる。今、何もかもが恐かった。
「ごめんなさいっ!」
美幸は走ってサポート室を出た。亜希先生の寂しそうな顔が一瞬見えたが、すぐに視界から消えた。
初夏の生暖かい風が全身に汗をにじませる。彼女は足元がふらつき、何度も転びそうになりながらも一直線に家まで逃げた。
いつもよりも早い鼓動が身体を揺らす。玄関で荒い息を整えながらだくだくと流れる汗が下へと流れる。
この時、頭の中は真っ白になっていた。目の前に映る家の中、ひっこりとリビングからさくらが顔をのぞかせた。さくらは美幸であることを確認してゴロゴロと喉を鳴らしながら近づいてきた。
「さくら……」
流れる汗もそのままに美幸はさくらを抱き上げて顔を埋めた。毛に覆われたさくらの体温を感じた瞬間、張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。
しかし、さくらは怪訝な表情になり、少し身体を捻じって腕から逃げてしまった。
「さくら……」
さくらは何も言わずにリビングの方へ向かって行った。美幸は玄関で膝をつきながら、手で汗を拭った。
「暑いね……さくら……」
自分を必要としてくれると思っているさくらの後姿を見送りながら、誰も自分を必要としてくれていないと思う虚無感と孤独感が熱気のように湧き上がる。
唾を飲み込んでから、お風呂場へ向かって汗を流した。明日はいったいどうなるのだろう。明日も亜希先生はサポート室へ自分を呼ぶのだろうか。
シャワーの水が身体に当たる水音が、ざわつく心から鳴っている音だと思った。今背負っている考えを洗い流して欲しかったのに、余計に考えが巡って苛立ちが募った。
瞼を閉じる度に、亜希先生の寂しそうな顔が浮かび上がってくる。特に何も話していないのに、どうして逃げてしまったのだろう。
亜希先生が両親に連絡していたら、どうしようと思っていたが、普段と変わりない夕食で、母と父との会話でも言及されなかった。
その日の夜は、いつもよりも眠りに入るのが難しかった。ぐるぐると巡る考えや亜希先生の顔が過っていた。
布団の上でスヤスヤと寝ているさくらの寝息が、静寂の部屋で響く。いや、これは自分の息遣いだと気付いたのは、ようやく訪れた睡魔に身体を預けた時だった。