胸のざわつき
昼食を終えた昼休み時間、春は数人の友人たちに囲まれて会話を楽しんでいた。そこへまた別の友人が焦った顔でやって来た。
春はほんの些細な笑みを浮かべながら、慌てる友人へ顔を向けた。その時に長い髪がさらさらと靡いた。
「ねぇ春ちゃん! 悪いんだけど数学の宿題見せてくれない?」
「うん、いいよー」
「あっ! それ私も見せて欲しかったのに!」
「じゃあ、二人で見ればいいんじゃない? 授業までまだ時間あるから」
「ごめんね春ちゃん、いつもありがと」
二人はノートを持って急ぎ早に席へ戻って行った。
「そういえばさ、木根君とはどうなったの?」
春の席に集まった彼女たちは話の続きを始めた。
「どうって言われても、ただ一緒に遊びに行っただけだよ」
「えぇー! でも二人っきりってことでしょ? いいなー、木根君ってかっこいいよねー」
「うん、優しかったよ。買い物も付き合ってくれたし、家まで送ってくれたし」
「おぉっ! さすがモテ男は違うなーって感じだね! それに二人が歩いてたら絶対お似合いのカップルだろうなー。見てみたい!」
春はたんぽぽが花開いたかのような笑顔で答える。
「そんなことないよー、わたしの方が緊張しちゃったもん。男の人と一緒に出掛けるなんて恥ずかしいって」
「えぇ! 春ちゃんがっ! そんなことないでしょー? 春ちゃん顔立ち整ってて、小学から中3までに告白された人数ってすごいんでしょ?」
「そんなことないよ。確かに告白は何回かされたけど、その人のこと意識してなかったから、申し訳なかったけどお断りしてきたし」
「そういえばさ、カッコいいと言えばさ、あの現文の臨時教員カッコよくない?」
ようやく話題が逸れたので、春は内心ホッとした。恋愛の話をしていれば、他の生徒からの印象が悪くなってしまう可能性がある。
男女の恋愛に関しては、興味はあって遊びに行ったりはするけれど、絶対に一線を越えることはしない。
だって興味がないから。確かに顔立ちが整っている、優しく接してくれることを嫌だとは思わない。
だけど、どうしても好きという感情が分からない。相手が悪いわけじゃない、ただ自分の中でその感情が沸き上がってこない。
憧れは感じているのに、恋愛に繋がっていかない。自分だけがみんなと違っているようで少し寂しい気持ちになる。
きっとママとパパを見てきたからかも知れない。仲の良かった頃から、離れていくまでが鮮明に刻まれているのだろう。だからずっと自分の繭から出て羽ばたくことができないのだ。
「じゃあ、立花さん、次の歌を詠んでください」
「はい、
風交じり 雪はふりつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり」
「ありがとうございます。この歌は風が吹く中、雪がまだ降っているけれど、それでもうっすらと霞がたなびいて、春がやってきたという歌で――」
先生の穏やかな声が春の霞のように教室を包み込む。他のみんなは嬉々として話に耳を傾けているのに、またしても自分だけ取り残されている気がした。
普段と変わりないのは春だけで、季節が移ろうように、自分の気持ちも変わってくれればいいのに。
憧れを抱くことも、恋愛感情を持つことも、みんなは当たり前のようにしているのに、自分にはどうしてもわからない。
先生の声が響いている。
春は特別な感情を抱くこともなく、ただ、淡々とその声を聞いていた。
「優しそうな先生」「かっこいい」と友人たちは言うけれど、春にとってはただの授業を進める人だった。
けれど、そのことがまた一層、自分がみんなとは違うという事実を突きつけてくる。
心のどこかで、恋愛に憧れているのに、その感情が沸き上がってこない。そう思うと気鬱になって自然と頬杖して窓の外を眺め続けた。
放課後になり、部活へ行く春は部室の前で立ち止まった。いつもより賑やかな話声が漏れていたからだった。
部室の中は女子たちの黄色い声で溢れ返っている。鏡の前で髪を整える者、友達と顔を寄せ合ってヒソヒソと話す者、練習着に着替えながらも笑みを浮かべている者――みんなどこか浮ついた様子だ。
「お疲れ様、みんなどうしたの? 楽しそうにして?」
「あ、春ちゃん! あのねあのね! なんとね! 伊藤先生が今日から副顧問になるんだって!」
「伊藤先生が?」
それで合点がいった。普段めかし込むことの無い娘たちまでロッカーの小さな鏡やスマホで自分の姿を確認していた。
春はロッカーを開けて練習着に着替えながらその光景を眺めた。嬉々として話している彼女たちの頬は赤みが差している。
着替え終わってみんなでコート向かうと顧問の先生と新しい副顧問の姿があった。
「はい、みんな集まって」
顧問の佐藤ゆみが声を上げて部員たちは一堂に整列した。みんな口角を上げて目に輝きを持っていた。
そうはいっても、春は普段と変わりない微笑みだった。佐藤先生の隣ではジャージの中に来ている白いシャツが見える高身長の伊藤先生が立っていた。
「知ってる人もいると思うけど、今日から副顧問として伊藤先生がみんなを指導することになりました」
佐藤先生から紹介された伊藤先生は、軽く一礼してみんなの顔を見渡した。
「全校集会でも自己紹介しましたが、改めて。伊藤佑真です。今日から中学から今でもテニスをしているので、佐藤先生の助力になれればと思っています。これからよろしくお願いします」
拍手と黄色い歓声がコートに響いた。ただ一人、春だけは他のみんなの流れに合わせて喜んでいるのを装っていた。確かに俳優と言われてもおかしくはない顔立ちをしていると思う。
みんなが伊藤先生に夢中になる理由を探してみる。内面の方も誠実そうだし、授業の進め方でも穏やかな口調で終始笑顔を絶やさない。
体調が悪そうな生徒がいれば、声を掛けて気にかけてくれるほど相手を見ている。ここも高評価のポイントだろう。
みんなはそんな人と恋をしたいと思うのだろう。恋って何だろう。小学生の頃に、成り行きで付き合ったことはあったけど、あれはただの虚栄だった。家での孤独感を何かで埋めようともがいていた時期だったから、何にでも縋っていた気がする。
今はもう違う。自分の立ち位置を理解して、相手の思う自分でいれば、自然と満たされていくのだから。
「大丈夫、まだ走れるよ」
走り込みをしている生徒に伊藤先生の声援がみなぎる力に変わっていく。普段の練習よりも力んでしまっている娘たちもいたけれど、三年生は今まで以上に頑張っていた。
中学最後、個人でも団体でもインターハイまでは行きたい。去年は個人ではインターハイ二回戦で敗れてしまった悔しさを残していた。
団体は初戦敗退で全く届くことができなかったから、最後だからこそ、みんなでインターハイに出場したい。
部員同士でワンセットワンゲームだけの練習試合をして伊藤先生に実力を見せることになった。春は一番の実力者の山崎部長と試合をすることになった。
「サッ!」
部長の力強いサーブを打ち返す。部長の意気込みは伊藤先生に自分を良く見せるためのものではない。彼女は真剣にテニスに打ち込んでいる数少ない人物だ。
インターハイにも個人で準決勝まで進んだのは彼女だ。実力差は三年間一緒にいた春が一番良く分かっている。
それにどれだけ彼女が努力を重ねてきたのも知っている。隣でずっと見てきたのだから。
「フィフティーンオール (15-15)」
練習試合だからと言って手を抜くわけにはいかない。でも、春は人に合わせるのが癖になり過ぎてしまった。
「フィフティーフォーティー (15-40)」
ラリーが続く。もうあと一ポイントで終わりになる。ここで足掻くべきか、巻き返しをしても――いいのか――
五感を最大限に研ぎ澄ませたラリーの応酬が終わった。
「部長ナイスショット!」
「ゲームウォンバイ山崎さん! ゲームセット!」
試合を終えた二人は握手を酌み交わしてコートを出ると、次の試合がすぐに始まろうとしていた。
汗は止まることなく湧き出てくる。もう少しで夏なんだなとタオルに顔をうずめた時に思った。
「水分補給も忘れずにね」
ベンチに座っていた春のすぐ近くに伊藤先生が立っていた。春は荒くなった息を整えることなく答えた。
「はぁはぁ、はい、はぁはぁ――」
伊藤先生は少し間を置いてから、静かに問いかけた。
「さっきのゲームだけど、諦めたの?」
春は掛けられたその意外な言葉に悪寒を感じた。全力で向かって勝てなかった。そういう風に見えていたはずだと思っていた。
「どうしてそう思ったんですか?」
伊藤先生は何でも知っているような顔で、頬を指で掻いてから歯を見せた。
「目が変わったなって思ったんだよね。あそこの場面で、負けてあげようみたいな目になった――気がしたんだ」
「はぁはぁ――気のせいですよ――」
伊藤先生は視線を外して意味ありげに微笑んでいた。
「そうか――お疲れ様」
そう口にして伊藤先生はその場を離れて、試合をしている部員たちへ声援を送った。その日はそれ以上伊藤先生とは会話しなかったが、他の部員たちは光に集まる虫みたいに彼を取り囲んでいた。
見透かされた――
どうして気付かれてしまったのか――
誰にも悟られたことはなかったのに――
きっと――
まぐれ当たりだろう――
そう思うことにした――
それでも胸のざわつきは消えないまま、春は家路に着いた。