特別
子供の頃、両親が仲良く話している光景があった。学校から帰れば、笑顔でおかえりと言ってくれたママ。疲れた顔で帰ってきても、視界に春が入れば可愛いと褒めてくれていたパパ。
幸せそうに三人で手を繋いで並んで歩いたショッピングモール。パパのごつごつした大きな手と細いのに温かいママの手。声を上げて笑っていたあの日々は、突然終わりを告げた。
いつの日からか、ママとパパは口を利くことがなくなり、口が開いた時には罵り合っていた。怒鳴り合う二人を見ているのが辛く、とても恐ろしかった。
学校から帰るとママは頭を抱えてテーブルに座っていた。春が学校の出来事を話しても上の空で、その内話し掛けることを自然に止めた。
パパは夜遅くに帰ってきていて、なかなか顔を合わすことがなかった。顔を見れるのは早起きした日だけだった。
でも、パパも春の話を聞いてくれることはなかった。「忙しいから聞いている暇はない」という言葉で退けられた。
パパとママの喧嘩で夜遅くに起きたこともある。物が割れたり壊れたりした音にビクついていた。二人に気づかれないように泣くことを覚えたのはこの頃だった。
小学校に上がってから少し経った時だったと思う。パパはいつの間にか帰ってこなくなった。何年も続いた恐ろしい音が聞こえなくなった。
でも、夜になるのが恐かった。恐ろしい音で目が覚めてしまうかと思うと目を閉じるのが嫌だった――
学校にいる時が一番楽しかった。友達と昨日見たアニメの話をしたり、新しく買った文房具のこと、お気に入りの洋服の話を自慢し合うのはくつろぎの居場所だった。
学校にいれば、春は輪の中心にいた。みんな春の周りに集まって来る。それはとても心地く救いだった。
だから、家にいるのが大嫌いだった。学校から帰ってきてもママは仕事でいなかった。その時はおばあちゃんがいたから寂しくはなかった。
でも、おばあちゃんもいない日もたくさんあった。ずっと独りで家にいるのは虚しくて苦しかった。それはとても肌寒くもどかしかった。そういう日は壁に張り付いた時計の音だけが響く部屋で沈んでいた。
そんな春におばあちゃんはとても優しくしてくれた。わがままを言えばどこにでも連れて行ってくれたし、ある程度なら欲しい物なら何でも買ってくれた。洋服だって好きなものを買ってくれた。
でも、ママは春を見てくれていなかった。ママは疲れているからと言ってどこにも連れて行ってくれないし、おねだりしても無駄だと言って買ってくれない。
ママと二人だけになった家は、どんよりとした曇り空、それか雨雲の下にいるくらい湿っているようだった。
ママが近くに居ても遠くに感じてしまう。そんな日々が続いて、独りでこっそり泣いていた。
ママに何も話をしなくなったのはこの頃からだった。ママから話し掛けれれば、無理にでも笑顔を作って自分を飾り立てた。
しかし、笑顔の仮面を被っているだけでは、話が長く続くことはなかった。自分のことばかり話しているとママの返事は上の空に変わっていく。
話を聞いてくれていないとその度に胸の奥がじわりと苦しくなり、ベッドに潜り込んで涙を枕にぶつけて枕を濡らした。
考えて話さないといけない。思ったことを口にしてはいけない。考えて話さないと駄目だ。
そうやって試行錯誤を繰り返してママが話して欲しいことを話すようになった。そうしたらママは頭を撫でてくれた。
嬉しくっても泣くんだと初めて知った。最初は無理して笑顔を作るたびに胸が軋む痛みがあった。でも、慣れていければ痛みを感じなくなった。
こうして笑顔の仮面は皮膚の一部になって剥がせなくなった。そして、思ったことを口にしないで相手の欲しがる上辺だけの答えを自然と口にするようになった。
そうしたら、誰とでも仲良くなれた。
でも、心の隙間はどんどん広がっていき、何で埋めたらいいのか分からなかった。
小学三年の時、クラスの男子から告白された。ちゃんと二人だけになって告白されたのは初めてだった。
それに彼は他の女子から人気ある男子だったから、春は付き合うことにした。可愛い洋服で注目を浴びるのと一緒だ。春は彼を着飾ってみんなの視線を集めた。
みんなの話の中心は春と彼の二人に集中した。初めての彼氏はそう長く続かなった。
他の人達が羨ましがる関係であったはずなのに、胸はそっと静かなままだった。恋をすると胸が高鳴るということを聞いていたのに、じゃあこれは恋じゃないんだとその時思った。
だけど、彼と手を繋いで下校してた時、みんなの目が集まる心地良さはどんどん癖にさせていく。
みんなの視線が春に向けられる。
ママが見てくれなくても、世界が春を見てくれていた。その快感で心の隙間が狭まっていく。
常に中心にいて、注目を浴びる。その為には分け隔てなく人と接する。人の悪口や怒鳴ったり、物を壊したりしない。
声は柔らかく、いつも笑顔でいること。人を良く観察して、その人が求める自分の姿をそのまま投影する。
誰にでも好かれるように。
勉強ができれば、勉強を教えてと声を掛けてもらえる。
スポーツができれば、注目を浴びる。
話し掛けられれば、誰ともで話す。
誘われれば、誰かが傷つかない限り足を向けた。
たとえ家ではママが見てくれなくても
家から出れば世界が自分を見てくれる。
春は特別な存在であり続けるための努力を惜しまなかった。
相手を知り、相手が望む自分を演じる。
一生懸命に練習した。
だって特別は気持ちがいい。
ずっとこれからも、いつまでも特別のままでいたい。
だって、独りぼっちは嫌なのだから――。
それでも、冬の涙の味はずっと舌に残っていて、どうしても消えなかった――