あなたのせいじゃない
病院へ入院するのは初めてではない。そんな気がする。病室は独りでいるには広いように感じる。
誰かいてくれないと寂しいなと春は思った。先ほどまでいたママは着替えを取りにアパートへ行ったから、余計に寂しいと感じるのかもしれない。
ベッドで横たわる自分を見た瞬間、ママは青ざめた顔になっていた。
そのせいではないだろうけれど、憧れた長い黒髪には雪が積もってしまったかのような白がやけに目立っていた。
ママがいなくなって時間がどれほど経ったのか。独りは嫌だな。いや、心細いといった方がいいのかも。大きなベッドに独り寝て窓の外を何も考えずに眺めているせいかも。
テレビを付けていても、内容が全く入ってこないせいかも。
嫌な気持ちがずっと自分を苦しめているせいかも。この気持ちが何なのか分からないけど、ただ無気力になる。
扉が開く音がして、春は窓の外から視線を移して訪問者の顔を見て呟くように言った。
「あっ……みーちゃん……」
ベッドで横になっている春はかすんで消えそうなか細い声で美幸を出迎えた。声を聞いた美幸は目に涙が溜まっていた。それは今にも目から零れ落ちそうになっている。
「春……」
美幸の顔は目が腫れて酷くやつれていて、声が少し枯れていた。
「こっち来て座って……」
「うん」
招かれた美幸はゆっくりとベッドの脇にある丸椅子に座った。
「ありがとね。ママから聞いた。みーちゃんが救急車呼んでくれたって」
「うん……本当に……」
美幸は一度言葉を詰まらせた。
「良かった……何事もなくて……」
「あんまり詳しくは聞いてないだけどね……このまま入院かもしれないんだって……」
そう口にした春の顔を美幸は大きく目を開いて見つめた。
「ママがね……病院の先生にわたしの病状を説明したらしいのね……そしたら入院した方がいいってことになったみたいなの」
「そう……なんだ……」
「でもね、ママが言うにはね、かかりつけのお医者さんがいる病院の方がいいか検討するって言ってて……どこに入院するかまだ決まってない……」
美幸は俯いたまま一転を見つめていて春を見ようとしない。それでも話を聞いていると思ったので続けた。
「それでね……ママに聞いたの、かかりつけのお医者さんって誰って……わたしは何か病気なのって……でも、何かはぐらかして何も言ってくれなかったの。ねぇ、みーちゃん?」
美幸は石のように固まってこちらに目を向けてくれない。
「わたしが何の病気なのか……知ってる?」
春は美幸の顔を覗き込もうとしたら、美幸のスカートにぼたぼたと涙が落ちているのに気付いた。
「みーちゃん?」
やがて美幸の手は震え始めた途端、彼女は手で顔を覆いながら声を上げて泣き出した。
「ごめん! ごめんね! 私! 私!」
春は突然泣き出した美幸に戸惑いを隠せなかったが、少し体を起こして美幸の顔を覆っている手を強く握った。
彼女の手を引き寄せようとしたが、美幸は身体全体を横に振った。
「ごめん! ごめん!」
「みーちゃん? どうしたの?」
「ごめん春! ごめん! 私! 言えない!」
「言えないって……何を?」
「あぁーーーーー!」
春は泣き喚く美幸をどうしたらいいのか頭が真っ白になった。だがその時、一瞬脳裏に同じように顔を覆って泣いている制服姿の美幸が過った。
「あっ!」
二人以外いない教室で、二人は対面しながら泣いている。そこへやってきた人の顔も脳裏を過る。
彼女の名前は確か
「中原……亜希……先生……?」
泣き続けていた美幸は驚いた顔で春を見た。
「春……どうして……今……その名前を……?」
どうしたのだろう。何か嫌な予感がする――
「痛いっ! 頭がっ!」
春は急激な頭痛と過去のフラッシュバックに身をよじらせる。
白いシャツを着た男、男の声、その男のしたり顔――
白衣を着た中原先生、彼女の声、彼女の怒りと悲しみが混じったあの顔――
彼女は狂ったように泣き叫んでいる――
制服姿の美幸、彼女の言ったこと、睨み付ける彼女の顔――
涙を浮かべながら、彼女の手が春の頬に迫った――
いくつもの見てきたこと、やってきたことの映像のがフラッシュのように瞬く度に何度も何度も忙しなく切り替わる。
「春!」
美幸はナースコールを押して春の身体を強く抱きしめた。
「痛いっ! 頭っ! 痛いっ! 痛っ!」
「春! すいません! 早く! 春を! 助けて!」
恵里が病院へ戻って来た時には、春は薬で眠らせられていた。彼女はナースセンターで呼び止められ医師からの説明を受けた。
すぐ病室へ向かって春に寄り添っている美幸の背中に声を掛けた。
「美幸ちゃん……」
美幸は振り返りもせずに答える。
「はい……」
「また……再発した……と思われるそうよ……」
「はい……そうだと思います……」
「また……大変だわ……」
「はい……ごめんなさい……」
恵里は正面へ回り込んで美幸の顔を覗き込んで言った。
「あなたのせいじゃない! これだけは分かって! 今もあの時も、あなたのおかげで春は救われたの!」
美幸は顔を上げて恵里と視線を合わせた。その目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「あたしだって感謝してる!
本当は母親のあたしが気付くべきだった。
それなのに……あたしはこの子を見てなかった……
あなたが春を救って……
あの先生も
他の子たちも救ったのよ」
美幸の身体は小刻みに揺れ、頬を伝う涙に構わず震えた声を出した。
「私は……あの時……本当に……正しかったのか……分からないんです……私……何のためにあれをしたのか……分からないんです……」
擦れた声を出し切った美幸を恵里は咄嗟に抱きしめた。
「いい? 美幸ちゃん! あなたは正しいことをした!
絶対に!
あのケダモノから!
みんなを救ったの!
春の病気は! あなたのせいじゃない!
これは……奴に植え付けられたものなんだから!」
「うぅ……う……うぅ……」
美幸は抱き締める恵里に必死にしがみ付きながらその胸で大声を出しながら思いっきり泣いた。恵里もその姿を見て目に涙を浮かべていた。
その横のベッドでは、春が規則的に呼吸をしながら深い眠りに落ちていた――。