いつものように元気で
美幸は部屋着のスウェット姿のまま一目散に春のアパートへ走った。
「春! 春!」
部屋に駆け付けた時には春はトイレにいて気を失っていた。
「春!」
呼吸はしていたが、何度呼び掛けても目を覚まさなかったので救急車を呼んだ。担架で運ばれる春を見るのはとても痛々しく辛かった。
救急車を見送ってからすぐに春の母親へ連絡して事情を説明すると今夜中に来てくれることになった。
美幸は重い足取りで自分のアパートへ足を進めた。肌寒い空気が全身を包んで頬を突き刺す。それが自分への罰のような気さえした。
「春……」
酷く項垂れて歩く彼女の姿に、すれ違う人達はそんな彼女を見ても何も思わなかったのだろう、ただ無表情で通り過ぎていた。
目が回ってしまうほど脳裏を過るのはトイレで倒れていた春の姿だった。瞳に焼き付いたその姿を前にも見た。
あの時を思い出したせいで、制服姿で倒れた春とさっきの春の姿が重なる。何もできない自分に苛立ちと悔しさが心を蝕んでしまう。
部屋に戻ってからそっとテーブルにスマホを置いて、ベッドに腰を下ろして虚空を見つめた。
「春……ごめん……私……どうしたら……」
初めはほんの少し伝う涙は次第に滝のように流れ出して止まらなくなった。それから時間が経つのも忘れて泣きじゃくった。
泣き続けていたらテーブルのスマホがブルブルと震えていて、表示には春の母、恵里の名前が出ていた。
「もしもし美幸ちゃん?」
「はっ……はっ……はい……」
涙声を気付かれまいと気丈に答えようとしたが、言葉がつかえてしまった。
「あのね、搬送先の病院から連絡があって、春の意識が戻ったって」
恵里からのその言葉に肩に圧し掛かっていた重荷が少し取れた気がした。
「良かった……春……本当に良かった……」
「ありがとね。これで美幸ちゃんも少しは安心できた?」
「はい……少しできました……」
「良かった……意識が戻ったって早めに伝えておこうと思ったの。
それに救急隊員にあたしの番号教えといてくれてありがとね。
あと……最近……最近のこと聞いてもいい?
春は……また……思い出したの?」
その言葉を聞いて背中から氷水を浴びせられたような悪寒が襲った。
「分かりません……でも最近……夢を見たって……」
「夢? 何の夢?」
「それがあの……男の人と……一緒に歩いている夢……だって……」
美幸の言葉を聞いた恵里は声を詰まらせている。スマホから聞こえてくるのは互いの呼吸音だけだった。
沈黙が空気を薄めて重くしていく――。
「なるほど……分かったわ……急いでいくから……美幸ちゃん?」
「はい」
「気にしなくていいのよ。あなたのおかげなんだから。自分を誇りに思っていいのよ。じゃあね。また明日連絡するから」
その言葉は前にも聞いた。あの時も、嬉しいなんて思わなかった。それでも、ほんの少しの救いだと思うが、自分の心を癒す言葉ではない。
「はい、分かりました……」
電話を切ってから目の眩む感覚に襲われ、そのままベッドに倒れ込んだ。
今は何も考えたくない――。
今は何も思い出したくない――。
ただ呆けることもできず、鮮明に現在と過去が重なって心を摩耗させていく。目を閉じるのがとても怖い。目を閉じた瞬間に、瞼の裏に焼き付いた倒れた春の姿に鮮明に浮かび上がり気が詰まりそうになる。
考えが巡ってしまい眠れない。あの時も数日、一時的に不眠になった。美幸は薬箱を開けて睡眠薬を飲んでまた横になった。
目を閉じても瞼の裏で現在と過去の二人の春が倒れている。
「あぁ……先生……」
「友繁さんは、とても繊細なのだと思うの」
「そうは思いません……」
「自分のことが嫌い?」
「そうですね。いい所なんてない。友達もいないんですよ。教室でグループを作っても私は余るんです。そんな子が繊細ですか?」
「えぇ、友繁さんは繊細なの。そして感受性が豊かなのよ。きっと」
「分かりません。先生はそう思うのかもしれないですけど、私には分かりません」
「きっと分かる時が来るわ。それにね、今はいないかもしれないけど、きっとね、一生の友達が見つかるはずよ」
「今はそんな……自分が誰かと一緒に歩いたり、遊んだりする想像ができません」
「大丈夫よ。だってもういるじゃない?」
「え!?」
「立花さん、友達でしょ?」
「どうして……ですか?」
「だって――」
美幸はそこでテーブルの上で振動するスマホの音で目を覚ました。手に取って表示を見ると恵里だった。
「もしもし?」
「あぁ美幸ちゃん? ごめんなさい、寝てたかしら?」
美幸は目をこすりながら時計に視線を移した。時間はすでに12時を過ぎていた。
「いえ大丈夫です……春の容態はどうなりました?」
「一応大丈夫よ。気を失う直前までのことも覚えているみたい……」
「そうですか」
「それでね……あたし春の部屋に着替えを取りに行ってくるから、美幸ちゃん今から来れる?」
「はい、今から行きます」
電話を切ってから気持ちをリセットしようと思いシャワーを浴びた。しかし、ため息ばかりが漏れて悲しみが募るばかりだった。
病院へは電車で向かった。週末の電車に乗り合う人たちは、スーツを着た会社員、制服姿の学生、着飾った人々が多種多様にいた。
その表情も様々で、暗い顔、明るい顔、無表情な人がいた。ふと電車に映る自分の顔を見た。
赤く腫れた顔は昨日大泣きしたからだろう。それにどこか痩せこけてしまったようにも見える。
病院へ着いてから受付を済ませて病室へ向かった。病院独特の無機質で冷たい空気感が苦手だ。
目に映るのは白い壁、足元には白い廊下、何処に視線を移しても白に囲まれた空間に息苦しさを感じる。
時折赤い線や緑の線などの色が見えても、それはどこまでも続いているわけではない。鼻にこびり付く匂いも病院へ来たことを知らせていた。
病室の前まで来て、一度立ち止まり深呼吸した。そして想像する。きっと病室の扉を開けた時、彼女は何事もなかったように笑顔を向けてくれるはず。
そう、春はいつものように元気でいるはずだ。そうであって欲しい。お願いだから。
美幸は恐る恐る病室の引き戸に手を伸ばした――。