王太子の悩み
よくある婚約破棄もの。初投稿です。
王国には、初代の建国者の時代から王家にだけ伝わるある言い伝えがある。
後継者には相応しい配偶者を迎え、添い遂げること。さすれば国は神の恵みによって守られ、破られれば国は神の怒りによって滅びるだろう。
建国から何代か経った頃。若く麗しい王太子は悩んでいた。
最近、国が荒れている。灼熱の暑さと水不足、かと思えば降り止まない雨で洪水が起き、流された橋や耕地が多数。今年の農作物の収穫は芳しくないだろうと各地方から報告を受けている。
それに伴い、治安の悪化も懸念されるところに、近頃隣国の動きも怪しい。
それも、一年後に結婚する婚約者が、王の後継者たる自分に相応しくないせいではないか。
ある日、王太子は王家に伝わる言い伝えを思い出した。
公爵家令嬢は立居振る舞いこそ未来の王妃として非の打ち所がないが、自分に冷ややかに指図するばかりで、人らしい温かみというものがない。
お互いに至らぬところを許し合い助け合って行くのが、あるべき夫婦の姿ではないか。
私は、このままでは国を背負う重圧に耐えながら愛も癒しもない結婚生活を送ることになってしまうのか。
王太子の悩みは深まるばかりだった。
王太子が、日頃接する機会がない子爵家の令嬢と知り合ったのはそんな折だった。
執務を抜け出して庭を散策していると、おろおろと彷徨っている令嬢がいる。
たどたどしく家名と名前を名乗った令嬢は、文官として勤めている父に届け物をした帰りに、帰り道がわからなくなってしまったのだという。
文官のふりをして、門まで送ってやりながら、王太子は令嬢のくるくると表情が変わる瞳と愛らしい声に惹かれた。
「文官さんは大変なお仕事を頑張っていらっしゃるんですね。尊敬します」
小鳥の囀りのような声で囁かれて、王太子は歓喜した。
理想の女性がここにいる。
三日後も同じ時間に同じ場所で会う約束をして、王太子は上機嫌で執務室に戻った。
王太子が子爵令嬢にのめりこむまでにそれほどの時間はかからなかった。
王城の庭で、時には城下で、秘密の逢瀬を繰り返し、ついに王太子は自らの身分を打ち明け、妻となるよう子爵令嬢に請い願った。
「いけません。ー様」
彼女だけに許した愛称が心地よく耳に響く。
それを紡ぐ唇が、自分から離れていくことなど、王太子には考えられなかった。
「ー様には立派な婚約者様がいらっしゃるではありませんか。私はー様の妻となるのに相応しくない女なのです」
「身分など関係ない。私の隣には貴女がいてほしい」
王太子は、はっきりと意思を固めた。
「近々、公爵令嬢には婚約の解消を申し出る。そして貴女と婚約を結ぶ。そうすれば堂々と貴女の側にいることができる」
「ー様…」
子爵令嬢の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。
明くる日、王太子と婚約者の公爵令嬢は王城の薔薇園の東屋で向き合っていた。
会話が漏れないよう人払いをしたので、護衛や侍女は離れた場所から見守っている。
「私と貴女の婚約を解消したい」
「なぜ、とお聞きしてもよろしいのでしょうか」
手に持った茶器を置いた公爵令嬢の声が低くなる。
「なぜ、か。それを聞かなければわからないところであろう。婚約が結ばれて十年になるが、ついに私と貴方の間に信頼関係は結ばれなかった。貴女はいつも冷たい目で私に指図するばかりだ。そのような相手と夫婦になり、国を背負っていくことはできない」
王太子は一息に言い切って、大きく息をついた。自分だって、十年連れ添った婚約者に挙式の半年前にこんな残酷なことを伝えたいわけではない。しかし、愛を知った今は、もう無理なのだ。
「さようでございますか。それが殿下のご意思ということでございますね。婚約解消、承りました」
公爵令嬢は、惚れ惚れとするような礼を披露すると、東屋を出て行った。
最後まで顔色ひとつ変えない女だった。
公爵令嬢が国を去って半年が過ぎた。
王太子と公爵令嬢の婚約解消は、本人たちの意思によらず幼少時から婚約が結ばれたが、長じて本人たちに性格の不一致があったとして穏便に運んだ。庶民のみならず、貴族の若い世代にも恋愛結婚に憧れる層が増えており、それ自体は国を揺るがすような問題とはならなかった。
しかし、建国時から続く公爵家の名誉を損なったとして、誇り高い公爵令嬢は何も持たずに生家を出奔したが、隣国の若き王が、身一つで来てくれればよいと、攫うようにして妃として迎えたと聞く。
王太子の婚約解消にまつわる噂や詮索は、物語のように美しく電光石火のように素早いめでたい知らせで搔き消えた。
しかし、隣国の王も愚かなことをしたものだ。いくら賢くとも、あのような冷たい女のどこがよいのか。
そうひとりごちた王太子は、執務の隙を縫って、ようやく手の内に迎えることができた愛しい人の部屋へ向かう。
公爵令嬢が国を去った今、適齢で婚約者のいない令嬢が国内国外におらず、子爵令嬢と王太子の婚約は表面上つつがなく結ばれた。傷心の王太子とそれを慰めた心優しき子爵令嬢の恋物語として、民にも熱烈に歓迎されている。
婚姻は婚約の一年後だ。
子爵令嬢にはそれまでに、妃となるための教育を施さねばならず、子爵令嬢は王城に部屋を与えられ日々勉強に励んでいた。
急に時間ができたので、護衛も連れていないし、先触れも出していないが、確か今の時間は空いているはずだ。
愛しい人が溢れる笑顔で迎えてくれるであろうことを期待して、護衛騎士のいない扉に王太子が手をかけると、中から愛しい人の声が聞こえてきた。
私がいない間に一体どんなことを話しているのか。好奇心にかられて王太子はその声に耳を傾けた。
「愛しているのはあなただけなの」
懸命に愛を訴える女の声がする。
「そのようなことをおっしゃってはいけません。貴女はいずれこの国で最も尊い女性となられるお方です。私のような者が触れてよいお方ではありません」
男は拒否しているが、その声音は弱い。
「あの夜は何だったの。なぜ私を愛してくれたの」
「それは私の人生最大の過ちでした。お詫びのしようもございません」
「ここは牢獄よ。外国語に礼儀作法に歴史に政治経済に。お妃にそこまで必要なの。今から勉強したってできるわけないわ。殿下は会いにきてくれないし、会えても勉強は進んでるかってそればかり。みんなが殿下をお支えするために勉強しなさいって言うけど、誰も私に優しくしてくれないの。愛してくれないの」
「立派な妃となられたあかつきには、国中が貴女の努力を認め、讃えるでしょう」
「でも今駄目なの。こんな冷たい場所にいられない。貴方がいてくれなければ私耐えられないわ。今だけでも私を助けて」
最後の押し殺した悲鳴のような女の声をこれ以上聞いていられず、王太子は扉の前を離れた。
まさか。
あんなに相思相愛だと思って迎え入れた愛する人が、自分を裏切っていた。
男は、護衛騎士だろう。
新しい婚約者の護衛騎士として、王太子が念入りに選んだ優しく誠実な男だった。
今にも倒れそうになりながら廊下を歩いていた王太子は、ふと背後からの強い視線を感じた。
振り返ると、護衛騎士がありえないものを見る目で王太子を見ていた。
王太子は、自分の愛する人から愛を打ち明けられていた男の姿をこれ以上目に入れたくなく、ゆっくりと向き直り、何事もなかったかのように執務に戻った。
数日後、護衛騎士は生家の辺境伯領で後継の兄を支えるため、王太子の婚約者の護衛の任を下りることを願い出た。
王太子は引き止めなかった。
「私はお前が仕えるに相応しい主か」
去ってゆく男に最後に王太子は問いかけた。
「私の命は王家と王国のために捧げております。命ある限りお仕えいたします」
元護衛騎士は晴々とした表情で言い切った。
一番聞きたかったことは聞けなかった。
王太子と婚約者との関係はぎこちなくなった。あれほど時間を惜しんで側にいたい、触れたいと思っていたのに、食指が動かなくなった。
あの男と何があったのか。あの男に会いたいか。そう聞きたいが聞けない。
王城に慣れない婚約者が気安く過ごせるようにと若い騎士と侍女をつけたのがよくなかったのだろう。王太子は婚約者のお付きの者を壮年の厳格な者たちに入れ替えた。婚約者から侍女が離れる時はなく、一人になる時間はない。
婚約者がせめて息抜きできるよう、王太子がまめに訪れて、機嫌を取ってやっている。
婚約者は相変わらず小鳥が囀るような愛らしい声で王太子に囁きかけてくる。初めは鬱陶しいと感じていたのが、次第に哀れだと感じるようになった。
確かにここは、婚約者にとっての牢獄、決して出られない鳥籠なのだ。王太子にとっても。
婚約者の一年に及ぶ勉強の成果はまずまず及第点を出せる程度だった。既に一度、瑕疵のない相手に婚約解消をしている王太子が再度婚約をなかったものとするわけにはいかない。
相手の不貞を訴えるには、あまりにも王太子の心は優しすぎ、脆すぎた。何もなかったことにするしかなかった。
私が目をつぶればいいのだ。私が…。
愛のある結婚をあれほど願っていたのに、と王太子は心のうちで嘆いた。
結婚式の前夜、王太子は国王の私室に呼ばれた。
「いよいよ明日だな。子爵令嬢とは配偶者としてやっていけそうか」
国王は、香り高い酒を口にしながら鷹揚に息子に尋ねた。
「私に相応しい配偶者なのかわかりません。王家の後継者の配偶者は相応しい者でなくてはならないと言われているのに…」
と、父である国王の優しい声音につられて王太子はつい弱音を吐いた。酒を嗜もうという気分には到底なれない。
「相手に非がないのに相手が冷たいと婚約解消した男と、相手が冷たいと浮気をする女だ。立派に似合いの相手だな」
「父上」
投げやりに言い放たれて、王太子は戦慄した。
「ご存知だったのですか…」
「王たる者、城内、いや国内で知らぬことなどあるものか」
先程までとがらりと雰囲気を変え、威厳を備えた声で国王は答える。
「王家の後継者に相応しい配偶者とは、お互いが相手に相応しくあるために努力するということだ。決して、相応しい配偶者がいれば神が恵みをもたらすなど、そんなお伽話ではない。それを取り違えるとは笑い話にもならぬ」
「ああ…」
うなだれる王太子に、国王はそっと声をかける。
「王妃はお前に似た気の優しい女だった。あれが亡くなって十五年。儂も家臣もお前を甘やかしてしまったのだな」
国王の脳裏に優しい妻の顔が浮かんだ。久しぶりに思い浮かべるその顔は、心なしか泣いているように見える。
「公爵令嬢には申し訳ないことをした。貴重な十年の時間を奪ってしまったのだからな。だがそのおかげで、隣国の王には恩を売れた。結婚式で見かけたが、令嬢も幸せそうだった」
国王は二月前の隣国の王の結婚式のことを思い出したのか、懐かしむように微笑んだ。
「よかった…」
胸がちくりと痛むのを感じながら王太子はつぶやいた。
「お前が次に選んだ女はひどいものだが、まだ騒がなかった分、お前の首がつながったな。隣国の危険性は下がったが、辺境伯も敵に回したくはない。愚かなお前に相応しい配偶者だ。お前たちに子は生まれないだろうが、せっかくの王家初の恋愛結婚だ。命ある限り添い遂げよ」
「父上!」
王太子は顔面蒼白になった。
「儂の弟も、その息子も優秀だ。お前とこの国を立派に盛り立て、次の代へつなげてくれるだろう」
王太子は顔を上げた。
「私は何をすれば…」
それ以上王太子の言葉は続かなかった。
「何もするな。そうすれば国は守られる。傀儡の王として生きよ」
王太子は慟哭した。