三つ子の魂百までと言うならば
王宮の応接間のソファに座り、エルレイド伯爵夫妻は緊張した面持ちで、その娘エレノアは退屈そうな顔をして召喚を命じた相手を待っていました。
程なくして、衛兵が開けた扉から、4人の男性が入ってきました。
一人は王様、一人は宰相、そして領主様と従者です。
興味のない視線を向けた女の子でしたが、領主様が小脇に子狸を抱えているのに気が付いた途端、ぱぁっと顔を輝かせました。「王様に会いに行くから、お利口さんにしていないといけないよ」と父親に優しく言い含められていたのもすっかり忘れて立ち上がり、両手を差し出します。
「私のお人形!」
甘やかされて育った女の子です。
望んだものは与えられ、彼女の希望が通らなかったことはありませんでした。
ですから、今だって、彼女は自分のために子狸を運んできたのだと信じて疑いません。
呆れ顔で、宰相が溜息を吐きました。
「子供とは言え、此処がどこで、誰を相手にしているのか、くらいは教えておくべきでしょうな」
あからさまな白い目に、伯爵は真っ蒼になりました。慌てて娘の肩を引き寄せ、無理やりソファに座らせます。
「エ、エレノア、ちゃんと座っていなさい」
「でも、お父様。あれ私のだわ!」
不満そうに指を差され、子狸は視線から逃れるように領主様の腕の隙間に顔を埋めました。
女の子怖い。
ネリにとって、彼女は恐怖の対象です。ぶわっと毛並みが立ち上がり、小さな身体が小刻みに震えます。
しかし、ここに女の子がいるということは、そもそも始めからわかっていたことでした。
ですから、領主様も従者も、そして王様も皆、子狸を心配して「部屋で待っていればいいよ」と言ってくれたのに、それでも一緒に行くと決めたのは子狸です。
なぜって?
子狸にとって女の子との再会よりも、領主様の傍を離れる方がずっとずっと、怖いことだったからです。
領主様の腕の中以上に安心できるところなんて、他にどこにもないのです。
「断じて違う」
領主様がきっぱりと冷やかに、女の子の言葉を否定しました。
娘を諫める伯爵は、宰相に促されソファに座る領主様と王様を視界の隅に捉えて冷汗が止まりません。何が恐ろしいって、普段、感情豊かな王様が、全く表情の読めない顔を親子に向けているのです。
子供のしたことだからなんて、最初の甘い考えは、その時点でじわじわと崩れ始めていました。
父親の動揺を気にも掛けず、女の子はむっとして言い返します。
「だってお家で飼ってた子だもの。うちの子よ。ちゃんとミルクもあげてたんだから!」
ネリの捕まっていた環境を実際に目撃しているは従者だけです。あの場所を思い出して、彼は凄く嫌なことに気が付きました。食事皿が見当たらなかったのです。
「まさか、……ミルク、だけとか言わないよね?」
「うん!小さい子はミルクがごはんなのよ!」
自信満々に頷く女の子に、王様と領主様だけでなく宰相も唖然としました。
五日にわたり、ミルクだけ。拘束して絶食とは、いくらなんでも拷問です。
赤ちゃんではないのです。それだけで足りるはずがありません。
「道理で食べ物を受け付けなくなっていたはずだな」
食が細くなってしまっていたのは、心労からの発熱や怪我だけが原因ではなかったのです。
大変だったな。よく頑張った。
小脇から膝の上に移動させた子狸を片腕でしっかりと包み込み、領主様は労わるように頭を撫ました。子狸は気持ちよさそうに眼を閉じて、その手に擦り寄ります。
それを見て、女の子はかっと頭に血を昇らせました。父の手を叩いて跳ね退け、立ち上がります。
そうやって子狸が甘えるべきは自分に、なのです。そのふわふわの毛並みを撫でるのも、膝に乗っけるのも、全部飼い主の特権のはずなのに。
「返して!」
女の子は目を吊り上げて大きな声を上げました。そんな彼女を、領主様は冷たく見据えます。
「では、君も。ご両親と離れて暮らしなさい」
告げたのは、今まで沈黙を守っていた王様でした。
「え……?」
「だって不公平だろう?君のせいでネリとラーシュは離れ離れになったというのに。君が同じ目に遭わないなんて割に合わないよね。両親も、慣れ親しんだ使用人もいない場所で、一人で生きなさい。それがその子を奪った五日間の対価だ」
「……なんで?」
不思議そうに少女が首を傾げて、両親を振り返ります。
しかし、いつもであれば自分の味方である父親が、何も言いません。冷汗を浮かべ、おろおろと視線を彷徨わせるばかり。仕方なく母親を見ました。夫人は夫の様子をほんの少し不思議に思いつつ、いつものようにやんわりと微笑みを浮かべました。
「子供のしたことです。どうか寛大なる処遇を」
そう、いつものことです。相手が誰かをわかっていて、夫人は軽々しくも許しを求めました。
彼女は夫の動揺の理由を、半分も理解していなかったのです。苦労を知らぬ深窓の令嬢故の育ちの良さ、……いいえ、世間知らずが仇となりました。
今までであれば、まかり通ってしまった娘の我儘。
王様であろうとも領主様であろうとも、子供のしたことに大の大人が本気で目くじらを立てることなどないだろうと、当然のように思い込んでいたのです。
王様は不機嫌な顔で目を眇め、首を傾げました。
「王宮から、公爵家の掌中の珠を誘拐しておいてそれを言う?」
「誘拐?」
話の流れを酌んだネリが領主様を見て、王様を見て、頷くと領主様の腕の中で人の姿になりました。
それを見て、女の子が興奮した様子で歓喜の声を上げます。
「変身するお人形!」
「人形じゃない。私の大切な婚約者だ」
ネリを守るように抱きしめた領主様は、女の子を睨みつけます。
ごめんなさい、ただ一度でも、その言葉をネリに向けてくれたのなら。
きっと彼らだって、温情を与えたでしょう。
確かに子供のしたことです。反省し、それを生かして変わることが出来るのであれば、その機会を与えることに否はありませんでした。
ですが、望みが叶えられないことに地団太を踏む娘は、傷だらけのネリを見ても反省する素振りを見せません。それどころか、彼女がネリに向けるのは最初から変わらない「お人形」という言葉。
子供が愛玩動物や人形を欲しがる気持ちはわからないでもありません。
しかし、その望んだものが生きているものならば、子供であってもその命には責任を持つ必要があります。その責任を全うせず、大切に出来ない人間の我儘が安易に通ってしまうなんて、これほど恐ろしいことがありましょうか。
王様は溜息を吐くと、不愉快そうに告げました。
「子の我儘を親が矯正できないのであれば、他所で預かった方がこの子のためだろうと思ったが無用のようだ。俺の示した厚意を無下にした以上、もう温情はないと心得てね。エルレイド伯爵夫妻及び長子エレノア嬢。罰として今後一切王宮への参上を禁じる」
「そんなっ」
夫人が悲鳴のような声を漏らしました。
王宮に参上できないと言うことは、もれなく、王宮での式典に参加できないということ。
つまり。
「この子の成人の儀は……っ」
王宮という格式高い場で美しく着飾りデビュタントとして華々しくお披露目をする。それは衆目を集める晴れ舞台であるとともに、今後貴族社会で生きていくための大切な通過儀礼です。
母親としてそれを気にすることを理解できない訳ではありませんが、王様としては、まあ随分と先のことを心配するものだと、呆れを越して嘲笑の方が先立ちます。
「どんな式典であれ、例外を認めるつもりはないよ。成人の儀なら自領で済ませる者もいることだし、問題はないはずだ。嫌だというなら、こちらは別に公にしてもかまわないけど、……手癖の悪い娘と評判になることをお望みかな?」
確かに王様の言うように、成人の儀を自領で済ませる者達は確かにいます。しかし、それは王都の社交に縁遠くても問題の少ない非嫡嗣や非嫡嗣に嫁ぐ女性がほとんどです。
それなのに、伯爵家の一人娘であるエレノアがデビュタントとして王宮の夜会に参加しないとなれば、よくない噂を呼ぶことは間違いありません。良縁を望むことは難しいでしょう。
しかし、そんな先の話よりも、まずは目先の現実に目を向けるべきです。
王家主催の夜会に参加できないからと言って、即座に華やかな社交界からつまはじきにされることはありませんが、それも時間の問題。そうなれば、今後領地の運営にも、交易にも影響が出でくるのは明らかです。
領民の税を安易に上げさせる王様ではありません。切り詰めなくなるのは、当然伯爵家自体。
果たして、近い将来、思い描いていたように娘を着飾る資金が伯爵家に残っているでしょうか?
だからと言って、公に処分を言い渡されてしまえば、それこそ絶望的な未来しか待っていませんけれど。
大切な娘の人生が終わる。終わってしまう。
そう気づいた夫人は震える声で叫びました。
「そこまでのことですかっ」
その言葉に。
沸き起こる苛立ちと胸糞の悪さに、王様は眉間に皺を寄せながら、小さく毒づきました。
「…………言うに事欠いて、そこまでのことと言ったか、この阿呆」
子狸が膝の上に居なければ、間違いなく、領主様が激怒し、容赦のない舌鋒を浴びせていたことでしょう。
領主様が今、彼らに怒りを返さないのは。
正面切って断罪をしないのは。
最も安心できる場所である彼自身が、子狸を怯えさせるわけにはいかないから。
ただ、それだけなのです。
領主様にとって優先すべきは、ネリの安寧と笑顔。そのためならば、己の中で荒れ狂う怒りだって、燃えるような殺意だって、彼は押し殺して見せるでしょう。
ネリに死ぬほど感謝しろと内心で吐き捨て、王様は氷片のような視線を向けました。
「そこまでのことだよ。参加者の手荷物検査なんて無粋なことしないで済むのは、そこに信頼関係があるからだ。でも、お前たちはその信頼を裏切った。それも、最悪の形でな。どうしてもと参加を希望するのであれば、出入りの際、お前らだけ手荷物検査するけど?」
そんなことをされたら、エルレイドの家名は一発で地に落ちます。
落ちてしまえばいいと、半分以上本気で思っている王様です。
真っ蒼な顔で震える伯爵夫妻に、宰相が真面目な顔で止めを刺しました。
「手癖が悪い上、それに罪の意識を持たぬ者など王宮内に入れるはずないでしょう。窃盗も誘拐も犯罪。それを『そんなこと』と言い切る人をどうやって信用しろというのか。自分の身になって考えてごらんなさい。貴方方は娘の誘拐を恐れて護衛を雇っていると聞く。己の大切な娘を誘拐され、それを『それほどのことか』などと言われたなら、どんな感情を抱かれる?安易に許せますかな?」
自分たちが嫌だと思うことを、何故相手にしておいて気が付かないのか。
恐らく、他人の感情に鈍感な彼らは、今までもずっとそうやって人を傷つけてきたのでしょう。
ただ、相手が泣き寝入りしてきただけなのです。
ですが、今回はそうはなりません。
ようやく、王家と公爵家、双方を本気で怒らせたのだと理解した伯爵夫妻。座っていなければその場に崩れ落ちてしまいそうな彼らを、けれど、その子供は心配もしませんでした。
嫌々と変わらず駄々を捏ね続ける女の子に、もう子供であろうとも、一回痛い目を見た方がいいんじゃなかろうかと真面目にそう思い始めた王様は、生温く反省を促すのを諦めました。
「無礼だねー。一日くらい牢屋に入る?囚人と一晩も過ごせば、お前の我儘が通るのは両親の前だけだと、身をもって理解できると思うけど?」
「我儘で我慢できない子供って嫌いなんだよね。俺」と、笑ってもいない笑顔で告げられて、女の子は初めて顔を青ざめさせました。
両親は何も言いません。いつもであれば、宥めに入るか、我儘を叶えてくれる両親が、全身を震わせてその場に居るがやっとです。助けに入る余裕などありません。
いいえ、助けられないのです。
伯爵家の地位と資産でまかり通ってきた我儘です。それ以上の地位を持つ相手に通るはずもなかったのです。
己の我儘が通るのが当たり前ではないこと、逆らってはいけない人がいるということを、女の子はこの時になって、やっと理解しました。
「二度と此処には来なくていいからね」
清々しい笑顔で見送られて。
親子は、ただ、逃げる様に王宮から去っていくしかありませんでした。
……もう少し成長したなら、彼女はたくさん後悔するかもしれません。
淑女としての教育が始まり、親に甘やかされるばかりでは知り得なかった多くのことを学ぶようになったとき、彼女は自身の犯した罪を理解することでしょう。
彼女の悲劇は甘やかし、叱ることのない両親を持ったことなのかもしれません。しかし、その両親のお蔭で恵まれた生活を送ってきたこともまた、事実なのです。
自分がされて嫌なことはしない。自分が大切にされた経験があるならば、その嬉しさを知るならば、子供であっても他者を思い労わる心は持てるはず。
王様も宰相も懇切丁寧に彼女たちの過ちについて説きました。それでも謝罪をしなかったのは、彼女自身。ですから、これは自分のことしか考えなかった彼女の行動が招いた結果なのです。
とは言え、王様が禁止したのは王宮に参上することだけなのですから、ちゃんと謙虚に誠実に生きていくならば、きっと、幸せになることも出来るでしょう。
『三つ子の魂百まで』の言葉通り、我儘が治らず、あのままであれば、生きるのは少々辛いでしょうけれど。
甘い罰かもしれませんが、王様だって子供の更正する機会を根こそぎ奪う気にはさすがにならなかったのです。
今後、幸せになれるかどうか。
それは結局、彼女と彼女の両親の考え方次第、なのでしょう。
残るは一つ。元護衛の男の処罰が決まれば、この事件は解決です。一足先に逃げ出した彼ですが、そうは問屋が卸しませんよと、あっさり王都の警備隊に捕縛されました。只今取り調べの最中です。護衛の傍ら、手広く悪さをしていたらしく、叩けば叩くほど埃が出てくるのでもう少し時間は掛かりそうですが、その辺りはお任せで構わないでしょう。
彼には、罪にふさわしい罪状が付くだけの話です。
ふと横を見れば、領主様の膝の上に座っていたネリが俯き、領主様に凭れ掛かっていました。
「あれ、ネリ、どうしたの?」
調子でも悪くなったのかと心配になった王様は、ネリの顔を覗き込み。
目が点になりました。
……寝てます。
大層幸せそうな顔を領主様に摺り寄せて、まあ気持ちよさそうにすぴすぴと。
とっても真面目なお話しの最中に、一番怖い目にあったはずの当の本人が、まさかの寝落ち。
「大物だね」
「……単純なだけだ」
領主様は少々詰まり気味に言い訳をしました。誉め言葉のつもりですが、残念ですが、誉め言葉ではありません。
ぽんぽんと背中を撫でていたら、へにゃっと笑って眠ってしまったのです。領主様の腕の中が一番安心するのだと、言葉でなく行動で伝えてくれる子狸が領主様には愛おしくてならないのですが、さすがにそれを言ったら、ただの惚気ですから飲み込みました。
代わりに出たのが、単純。
王様の言葉の方がオブラートが効いていますなと、宰相はそう思いながら、彼らの横で口元をほころばせました。




