傷と匂い
子狸が目を覚ましたのは、白いシーツの中でした。
柔らかいけれど弾力のある寝心地の良さは、地面でも、いつも眠る籠の中でもなく、寝台の上のようです。
顔を上げると、ここ数日存在感を放って聳えていた柵が見当たりませんでした。
不思議に思って周りを見回せば、そこは女の子の連れてきたあの部屋ではありません。
乳白色の壁紙とその上から施された金装飾の壁飾り。複雑な模様が織られた臙脂の絨毯に飾り格子の白天井。格式の高そうな調度品の置かれた室内は大変見覚えのあるものです。
そこは、王宮にある領主様の部屋でした。
なんて鮮明な夢なのでしょう。
嬉しくなって、すんと鼻を鳴らせば、シーツから領主様の匂いがしました。
吃驚してシーツに鼻を埋めます。
……領主様の匂いです。
じーんと、ひとしきり感動して。
もう一度、顔をずぼりと埋めると、誰かが噴き出すのが聞こえました。
見上げれば、ちょっと呆れたような、困ったような顔をした領主様と、口元を押さえて笑いを堪えている従者様がいました。
領主様は寝台に腰を掛けており、従者は天蓋の支柱に凭れる様に立っています。
子狸には何が起きたのか、全くわかりませんでした。
もう会えないかもしれない。そう思ってすごく哀しく思っていたのに。
ずっと会いたかった領主様が、すぐ目の前に。
手を伸ばせば届きそうなところに、居るのです。
「きゅう……?」
夢か現か、戸惑う子狸を領主様が優しく掬い上げました。
夢かもしれないという不安に動けなくなってしまったネリを領主様は、確かな現実であるとわからせるように腕の中に引き寄せ、膝の上に下ろします。
硬い領主様の膝の上。確認するように前脚をたしっと置くと、シーツとは異なる白い色が目に飛び込んできました。子狸の前脚は両方とも包帯に包まれ、まるで飴玉のようにされています。
それを見た途端、じーん、じーんと後を追うように痛みが襲ってきました。
痛いです。
ほとほとと涙を零し出した子狸を領主様は慌てた様子で抱き上げました。前脚がどこにも付かない姿勢に変えてから、改めて膝の上に座らせます。
「治療はしたが、暫くは痛むだろうとのことだ。薬を飲ませたい。人になれるか?」
ぼんやりとした様子の子狸に、領主様がそう尋ねると子狸はこくり頷いて、目を閉じました。
いつもの様にぽんと音を立て、人の姿に変わります。しかし、いつもとは異なる有様に、領主様と従者は苦い顔になって息を呑みました。
小さな両手は白い包帯で覆われています。それだけでも痛々しいのに、彼女の細い首筋には幾つもの赤い引っ掻き傷が走り、血が滲んでいたのです。己の爪が自分を傷つけていることにも気が付かず、懸命に首輪を引っ掻いていたのでしょう。
赤い傷の無い白い場所が、今は無い首輪の存在を知らしめていて、余計怒りとやるせなさを感じさせます。
「薬箱、持ってくるね」
言葉少なに従者が部屋を出て行きました。残されたのは領主様とネリだけです。
愛しい娘に触れてみれば、随分と体温が高いことに気が付きました。
子供の体温と言うだけでなく、怪我と疲労で熱を出してしまったのでしょう。
どうりで、ぼうっとしているわけです。
領主様はサイドテーブルの上に用意していたグラスを手にすると、ネリへと近づけました。薬湯らしい青臭い匂いに少女の顔が顰められます。
小さくいやいやをするネリに、領主様は額を寄せて懇願しました。
「頼む、飲んでくれ」
自分よりもずっと辛そうな領主様の様子に、どうして断ることが出来ましょう。
ネリは躊躇いがちにグラスへ手を伸ばしました。領主様の支えてくれているグラスを、包帯の手で軽く挟みながら、そろそろと口元へ近づけます。そして、覚悟を決めて口に含みました。
に、苦いです。
もう、飲みたくなんてありませんが、ほっとした顔の領主様を見てしまえば、頑張るしかありません。苦みに身体を震わせながら涙目でなんとか飲み切ると、領主様はよくやったと優しく笑ってから、口直しだと言って甘いお菓子を口の中に放り込んでくれました。
ほろりと溶けたお菓子が、やんわりと苦みを消し去っていきます。
「もう一つ、食べるか」と勧められて、いつもなら喜んで頷くはずのネリでしたが、曖昧な顔で首を横に振ります。
不思議です。お腹は空いているのに、お菓子はとても美味しかったのに。
何故でしょう、食べたいと思えないのです。
「大変な目にあった後だ。食欲もないか」
困ったように萎れる子狸に、領主様は無理強いをしませんでした。なにより、今ネリに必要なのは休息なのでしょう。
早めですが、もう休もうと提案され、寝台の上に寝かしつけられます。
潰しそうだから駄目だと、いつもは寝台に乗せてくれない領主様が、今日に限っては一緒に眠ってくれるようでした。人の姿になったことはすっかり忘れている子狸です。
同じく横になった領主様が、ゆったりゆったり背中を撫でる感触に、瞼が次第に重くなってゆきます。
くるりと身体を丸め、シーツに顔を埋めるとやっぱり領主様の匂いがして、ほっとしたと思った瞬間、ネリはあっという間に深い眠りの中へと沈んでいきました。
すー、すーと規則正しい寝息が聞こえてきます。
身を護るように小さく丸くなった体を見下ろし、領主様はひどく切ない気持ちになりました。
たった数日前までは、呑気に腹を出して眠っていたネリを知っているだけに、その差に苦しくなります。
「あれ、寝ちゃった?」
ノックもなしに戻ってきた従者を叱りもせず、領主様は差し出された薬箱を受け取りました。怖がりなネリの事ですから、怪我の治療は寝ている間の方がよいでしょう。
箱を開ければ、入っていたのは子供用の沁みない消毒液に、可愛らしい絵付きのテープや包帯、オブラートなどなど……。何とも気遣いに溢れたその中身に、領主様は真面目な顔で尋ねました。
「どこの子持ちから、強奪してきた?」
「うわ、酷っ。ちゃんと、俺が入れ替えといたに決まってるでしょうが。どうせ、貴方には拘りないんだし、だったら、ネリが喜びそうなもので揃えておくのは当然ですって。これ使うのにだって、貴方は抵抗ないでしょう?」
そう言ってハートマークの散った包帯を摘まみ上げます。確かに気にせず使うでしょう。従者の言葉に否定はありません。ただ。
「ネリの喜びそうなものを選べる気遣いがお前にあるとは思わなかった」
大層ひどいことを、領主様は真顔で言い切りました。
「俺の事なんだと思って……」
がっくりと肩を落とす従者に、ネリとの初対面での対応を思い出してみろと領主様が返します。彼は苦り切った顔で息を吐きました。
「動物の恩返しなんて、お話の中だけだと思っていたんですよ……」
人同士ですら裏切りや騙し合いに明け暮れ、持ちつ持たれつ、損得勘定ありきで、純粋な厚意だけで行動するなんてありえないのに。こんな小さな子狸が餌付けされたわけでもないのに、ただお礼をしたいがためにやってくるなんて考えもしなかったのです。
領主様も偏屈ですが、ようは似た者主従。
従者もなかなかの人間不信だったわけです。
****
さて、子狸が居なくなった伯爵家では、女の子が酷い癇癪を起していました。
両親はおろおろしながらも、似たような動物を手に入れては娘に見せていますが、気に入りません。
子狸を逃がしてしまった護衛はと言えば、その日のうちに解雇となりました。屋敷内に容易に侵入者を許した挙句、女の子のお気に入りを奪われたのです。
当然の結果と言えるでしょう。
解雇通告の後、追い立てられるように屋敷から出された彼ですが、文句ひとつ言わず、あっさりと去っていきました。それに対し、伯爵夫妻は己の失態を良く理解していたのだろうと、何の疑問も抱くことはありませんでした。
ですが、彼は追い出されたのではなく、我先にと逃げ出したのです。
侵入者の残した言葉を誰にも告げることなく、今にも沈みそうな、泥船から。
エルレイド伯爵夫妻がそのことに気が付いたのは、王宮から召喚状が届いてからの事でした。