救出
子狸が王宮から連れ去られてから、すでに5日が過ぎました。
段々と元気のなくなっていく子狸とは正反対に、女の子は本日も大変にご機嫌です。
いつものように子狸を檻の中から出した彼女は、わくわくした様子でミルク皿を手に取りました。
昨日参加したお茶会で、猫を飼う友人から「うちの子は私がお皿を差し出すと寄ってきてミルクをぺろぺろ舐めるの」と嬉しそうに自慢をされたので、自分もしたくなったのです。
「ミルクよ!さあ、飲みなさい!」
女の子ははしゃいだ声を上げて、子狸にぐいぐいとお皿を押し付けました。子狸は仕方なく、のろのろ鼻先を寄せて、ミルクを舐めます。
それはどう見ても嬉しそうには見えませんでした。
剥がれた爪が痛いのです。夜通し首輪と格闘し、昼も夜もあまり眠れていないのです。
何より、領主様に逢いたくて、哀しくて寂しくて、お腹が空くことさえなくなってきているのに、これで美味しそうに嬉しそうに飲めなんて言われても、出来るはずないのです。
けれど、女の子にはそれがわかりません。
ただ、思う通りにならないことを不満に思うだけです。
むっとした顔で、部屋の隅に控えていた護衛を振り返りました。
女の子の家は交易で成功した祖父のお蔭で、貴族の中でも大変裕福なお家です。ですから、誘拐などに備えて彼女には幼い頃から複数の護衛が常に付けられていました。
彼はその内の一人であり、そして、動物の躾けをしてくれる大変助かる存在でもありました。
以前この檻の中にいた大型犬をあっという間に服従させて決して逆らわない従順な犬にしてくれたのは彼なのです。暫くしてその犬は亡くなってしまいましたが、その頃には他のことに興味の移っていた女の子にはどうでもよいことでした。
「エルシール、この子言うこと聞かないわ」
エルシールと呼ばれた護衛はにっこりと笑いました。見た目は穏やかそうな顔立ちをしていますが、見る者が見れば、その性根はすぐ窺い知れるでしょう。
「後で誰が主なのかしっかり教え込んでおきますよ」
「ちゃんといい子にしてね?」
「お任せください」
機嫌を悪くした女の子は、不愉快さを滲ませて、さっさと部屋を出ていきました。
逆に護衛の男は楽しそうです。
躾とは体の良い方便。
彼はただ、一方的な暴力で憂さを晴らしていただけなのです。
何しろ幼い主人は気分屋な上に大変飽き性なので、やりすぎて命を奪ってしまったとしても、他に興味を逸らせば、大抵は忘れてくれます。
「さて、主人の許可が出たことだし、どうしようかな」
男は小さく縮こまる子狸を見下ろして、にこにこ笑いました。
怯え切った小さな子狸など、痛めつけるのは簡単です。
二、三度痛めつければ、逆らうこともないでしょう。
相手は笑顔なのに、なんとも嫌な予感がしてネリは後ろに下がりました。
がちゃんとお尻が檻にぶつかります。後ろを振り返った子狸の上に影が掛かりました。
顔を上げると、頭上にあったのは、何のためらいもなく、持ち上げられた彼の足。
ネリは恐ろしくて目を閉じました。
食べられそうになって追いかけられたことはあります。ですが、今向けられているのはそれとはまったく違いました。
前者は命を繋ぐための行為ですが、後者は命を弄ぶ行為。そして、彼はそれを楽しんでいるのです。
それが、とても恐ろしい。
ネリは丸くなって身構えました。
……ですが、衝撃は一向に襲ってきませんでした。
代わりに聞こえてきた男の悲鳴に、ネリは首を竦めたまま、恐る恐る目を開けました。
そこに居たのは、なぜでしょう?鬼の形相をした領主様の従者でした。
どうしてここに、だとか、どうやってここに、だとか、目を瞑っていた子狸には全く分かりません。突然現れたとしか思えない彼を、ネリはただ、ぼんやりと見上げました。
まさか天井裏からこんにちはとやってきたとは、思うはずもありません。
従者は床に転がって、うめき声を上げている護衛を睨み付けていました。子狸に手を、否、足を上げようとしていた男です。愉悦で歪んでいた顔を、痛みと苦しみに歪ませようとも、全く気は晴れません。
容赦なく蹴り飛ばし、間一髪のタイミングで助けられたことに安堵した様子もなく、彼は子狸の首に付けられた首輪をちらりと見て、不愉快そうに舌を打ちました。
「ネリ、じっとしていて」
子狸の前に片膝を突き、首と首輪の隙間に指を差し込んで首が絞まらないように保護してから、逆側に小剣を差し挟んで慎重に首輪を断ち切ります。あっけないほど簡単に、首輪はネリの首から離れて滑り落ちていきました。
それを見下ろしてから子狸は顔を上げます。
いつもは、のほほんとしている領主様の従者が、見たことないくらいに厳しい顔をしていました。子狸を抱き上げた彼の鋭い視線はもう子狸ではなく、護衛に向けられています。
顔を顰めながら咳き込んでいた護衛の男は、乱暴に口元を拭って体を起こすと、侵入者である従者を睨み返しました。
「伯爵家に不法侵入して、唯で済むと思っているのかっ!」
道理、道理。
たしかに、誰かの家に無断で入ることは、いつ何時、誰であっても許されることではないでしょう。
しかし、まず、前提が間違っています。
「王宮で公爵家の大切な子を誘拐しておいて、そっちこそタダで済むと思ってる?」
そう、先に罪を犯したのは伯爵家の方なのです。
大切なものを浚われて、それも目の前で非道な扱いを見せられて、正当な手段に拘るなんて、それこそあり得るはずがありません。
壮絶な笑みを浮かべて本気の殺意を向けた従者に、護衛は青くなって固まりました。
物騒な気配に中てられて、ネリもぴゃっと毛を逆立て尻尾を丸めます。
……抱っこしている従者の服の袖がじわじわと濡れて、水滴を滴り落としたのは、そのすぐ後のことでした。
「……ネリ」
「きゅいぃ……」
すごく微妙な顔をした従者に、ネリは神妙な顔で謝ります。
………………狸は臆病なのです。
「ネリに怒ってるわけじゃないのはわかってるよね?」
「きゅい」
非情に複雑な気持ちの従者ですが、怖がらせてしまったのは理解しているので、怒る気にはなりません。気になったのは、ただそれだけです。
こくこく頷く子狸の円らな黒目に怯えがないことを確認し、彼は、ほっと安堵の息を吐いて笑いました。
「んー、なら、許してあげよう。あ、洗濯はよろしくね」
「きゅいっ!」
任せてとばかりに、彼の腕に子狸の前脚がたしっと乗せられます。次の瞬間、走った痛みに「ぎゅわっ」と悲鳴が上がりました。
忘れていたのです。爪のこと。
「ちょ、爪、取れてるじゃん!なんで早く言わないのっ」
悲鳴に驚いた従者は改めてその前脚の惨状を見て目を剥きました。慌てて踵を返し、窓を押し開けると、軽々窓枠を飛び越えて走り出します。
「ああ、そうそう、これで事はすまないから。覚悟しててね」
立ち上がれない護衛に、そう言い捨てるのは忘れずに。