檻と鎖と取れない首輪
ちょっとだけ、痛い表現があります。苦手な方はご注意をお願いします。
「此処が今日から、あなたのお家ね!」
恐らくそんなようなことを言われたような気がします。
ネリが入れられたのは部屋の中に置かれた檻の中でした。
大の大人が両手を広げたくらいの幅と奥行き、高さのある大きな檻です。恐らくネリのために用意されたものではないでしょう。子狸用にしては、あまりに大きすぎるのです。もっと大きな何かが入れられていたのではと想像されますが、果たして、以前の住人は何処に行ったのか。その行方についてネリはあまり想像したくありませんでした。
あのぬいぐるみの末路を知っていればそれも当然のこと。大切なものに思えたのに、未練もなくすっぱりと放置していったのですから……。
命あるものまで同じように扱っていないことを願うばかりです。
しかし、見知らぬ住人の事ばかり気にしてもいられません。
唐突に慣れ親しんだ環境から連れ出され、大切な人たちと引き離されて、ネリは不安と寂しさで心細くなりながらも、くるりと周りを見回しましました。
状況把握は大事なのです。
女の子がいなくなれば、そこには誰もいませんでした。小綺麗な室内は可愛らしい印象のカーテンや壁紙で揃えられています。角の無い小さなテーブルと椅子。部屋の隅に置かれた檻の前には直接床に座れるようにラグが敷かれていました。
きっと、この部屋もあの女の子のためのお部屋なのでしょう。
ネリは首をねじり、前脚で首のあたりを引っ掻きました。
窮屈な感じがするのは首輪を付けられたせいです。首輪には紐が繋がっており、その端は檻の柵に結ばれていました。
檻が大きいので柵の隙間から抜け出すことは出来そうですが、そのためにはまず、繋がれている今の状況を何とかしなければならないようです。
首輪を何度か前脚で引っ掻いてみます。見えないのですけれど、手応えだけでも中々に強敵な印象を受けました。
改めて自分の首元から檻へと伸びる紐を見ます。
子狸はきらんと目を光らせました。こちらなら噛み切ることができるのではないでしょうか。
うん、出来そうな気がしてきました。
子狸は前向きなのです。
思い立ったら吉日です。さっそく取り掛かりましょう!
そうして子狸の試練は始まりました。
丸一日、はむはむ、かじかじしていれば、唾液塗れな噛み場所はちょっとはふやけて脆くなります。翌日には一部に解れが出来ました。
子狸の目が輝きます。
そのとき。
「あーっ!駄目じゃない!」
突然響いた大きな声に、子狸は飛び上がりました。
ぷんすかご立腹な様子な女の子が腰に手を当て檻に近づいてきます。
「悪い子ね!これは噛んじゃ駄目なのよ。わかった?」
尻尾を丸め、耳を伏せて檻の隅の方ににじり下がる子狸を、紐を引っ張って無理やり引き寄せると大人ぶった口調で叱りつけました。
伸ばされた腕の中に捕らえられ、子狸は女の子の腕の中でピクリとも動きません。
少女の柔らかな肌に残る赤い筋。一日が経過して、その赤みは薄ら残る程度、明日には消えそうなくらいですが、子狸にとってはトラウマです。動けるはずもありませんでした。
そんな子狸が従順に見えたのでしょう。
気を良くした女の子は、ぐりぐりと子狸の頭を撫で、ブラッシングし、恐らく犬用でしょう服で着せ替えを楽しんだ後、気が済んだのか部屋を出て行きました。
そして、入れ替わりに入ってきた使用人によって、子狸が一生懸命かみついていた紐はあっさり回収され……代わりに残されたのは。
ずっしりとした重たい鎖でした。
傷一つない真新しい鎖を暫く見つめ、子狸はしょんぼりと肩を落とします。
努力があっさりと無に帰したのです。それは凹みもするでしょう。
昨日から丸一日噛み続けていた顎はがくがくするくらい疲れています。それでもと、鎖にかみついてみれば案の定、がきっと歯が折れそうな音がしました。
噛み切るのは、とても無理そうです。
ずんと襲ってきた脱力感に、子狸は身体を伏せて顎を床に着けました。
届く所にあるお皿には新たにミルクが入れられています。
きゅるきゅるとお腹が鳴りました。
ここに来て提供されるごはんは浅いお皿に一杯程度のミルクだけ。口に入れるものが何もないよりはましですが、流石にこれでは足りません。
檻の中にはクッションを入れた寝床が準備され、綺麗にされたトイレも、水入れもあります。
自由はないけれど、確かに環境を整えようとした努力は見られます。
興味のある間だけならば、女の子は飼い主として悪い人ではないのかもしれません。
……いいえ、どう好意的に捉えてみても、自分の欲求を優先する彼女に命を預かる資格などありはしないでしょう。
ですが、資格の有無などという問題ではなく、彼女が良い人か悪い人かということも関係なく。
単純に、子狸が居たいのはこの場所ではないのです。
子狸が居たいのは領主様の傍なのです。
そう思うと、居てもたってもいられなくなって、子狸は往生際悪くも前脚で首輪をひっかき始めました。
皮で出来た立派な首輪です。
後ろ脚も使おうとしますが、脚を上げた途端ころんと転がってしまって届きません。仕方ないので、前脚で首輪を引っ掻いて傷を入れていきます。
かりかり、かりかり、かりかり、かりかり。
かりかり、かりかり、かりかり、かりかり。
リードの時と違い、ふさふさな冬毛に誤魔化されて、女の子は首輪の引っ掻き傷に気が付きません。
かりかり、かりかり。
一日、二日と続けているうちに、いくつかの爪の先が尖りを失っていきます。
それでも、子狸は続けました。
成果が確認できなくても、続けるしかないのです。
領主様の所に帰るためには、この首輪を外すしかないのです。
一応、人になって外すという手段も考えました。が、目視出来ない首輪を外すことは不器用なネリには困難に思えました。
まあ、それ以前に大きさが全く違うのですから、人になった途端、間違いなく首が絞まるでしょう。
かりかり、かりかり。
前の反省を生かし、女の子や使用人の目が届かない時間を狙って首輪を引っ掻き続けること三日目、その夜。
床に、ぽろりと何かが落ちました。
首輪ではありません。
反射的にそれを目で追ったネリは、湾曲した黒いものが落ちているのを見つけて首を傾けました。
どことなく、見覚えのある形です。
どこでみたのでしょうか。
思い出す様に、じっと見降ろし、暫し観察。
それから。
恐る恐る自分の前脚を見て……。
ぶわりと、毛が逆立ちました。
真ん中の指の爪が、無くなっていたのです。赤く見えるのは、滲んできた血、でしょうか。
追いかけるように後からじんじんと痛みが襲ってきて、子狸の大きな目からぼたぼたぼたっと涙が零れ落ちました。
痛いです。
よく見れば、他の爪もぐらぐらしています。欠けてしまっているものもありました。
なのに、首輪が外れる気配はありません。
あと、どれくらい頑張れば、外れるのでしょう。
手間取り過ぎては、紐の時のように気が付かれて、あっさり新しいものに変えられてしまうかもしれません。
そうなってしまったら。
(……領主様と、もうあえないのかな……)
捕まってからも、どうにか領主様の下に帰ろうと頑張っていた子狸の、痛みに弱った心の中に不安がぶわっと押し寄せました。
領主様の大きな手を思い出し、恋しくてたまらなくなります。
和らぐ浅葱色の鮮やかな瞳が、名を呼んでくれる静かな声が。
抱き上げてくれる温かな体温が、ただ恋しい。
逢いたくて、逢いたくて。撫ででもらいたくて。
じんじんと痛む手先よりも、ずっとずっと痛む胸に。
子狸は自分を守るように蹲りました。