絵本の女の子
子狸の定位置は領主様の膝の上、もしくは領主様の部屋の中。
要は領主様の目の届く所なのですが、彼が会議や話し合いに臨む際には傍を離れます。
狸は狸でも、ネリは空気の読める狸なのです。
「あまり遠くに行くなよ」との領主様の言葉に、「きゅいっ」と元気に返事して、扉を開けてくれた護衛の騎士にぺこりと頭を下げてから部屋を出ました。
ここからは、お散歩時間の始まりです。
ひと月近く過ごしていますから、王宮の人達ともほとんど顔見知りです。
初めのうちはぎょっとされたり、追いかけまわされたりしたこともありましたが、今はもう、不快そうに顔を顰める者より、領主様のお屋敷と同じようにお菓子を背負って散歩する子狸をにこにこ見守る人間の方が圧倒的に多くなりました。
廊下を歩いても咎められることはありません。
狸鍋にされそうになることもありません。
安心、安心。
とてとて呑気に歩いていると、通りすがりの人たちがおやつをくれます。たくさんは持てないことにしょんぼりしていたら、なんと侍女の一人が、中身が落ちないよう絞りの口の付いた籠を背中に背負えるようにしてくれたので、今は、みんなそこにお菓子を入れてくれるようになりました。
本日も大量、大量。子狸はほくほくです。
たくさん集まったらお菓子を広げて皆でお茶をするのです。参加者がお菓子を突っ込んでいる張本人、侍女だったり、執務官だったり、近衛だったり、庭師だったり、洗濯女だったりするのはまあ、お約束でしょう。
あまりにもごった煮にな参加者に、新たな人間関係が出来たりして大変人気があるなんてことは、子狸には預かり知らぬところです。
ただ、単純に、美味しいねえと、のんびりお茶をする。そんな時間を誰もが欲していたのかもしれません。
さて、子狸の散歩に目的地はありません。気の赴くまま思うまま、のんびりぽてぽて歩くだけです。
ですが、今は新春の挨拶中。
来訪者は減っているものの、まだまだ少なくはありません。大広間が近い辺りは避けて中庭を廻り戻ることにしました。
来訪者に対応しているせいか、中庭の辺りはいつもより人気がないように感じます。
領主様の居る棟が王様の居住区で常に人が多いために余計にそう感じるのかもしれません。
珍しいくらい誰ともすれ違わない静かな中庭を散策していると、どこからか微かに話し声が聞こえてきました。子狸は興味をそそられて、声の方へと足を向けます。
垣根を抜けた先に白い六角形の二重の屋根が見えてきてました。中庭の片隅に設置された四阿です。白い円柱の向こう、中のベンチに腰を掛けているのはドレス姿の女の子でした。
年の頃はネリと同じか、少しだけ年下でしょうか。
にこにこと笑うその姿を見て、子狸は目を輝かせました。
フリルの付いた可愛らしい桃色のドレスに白いレースのリボン。
結ばれた金色の髪はふわふわで、ぱっちりとした空色の瞳は髪と同じ金色の睫毛に縁取られています。小さな唇には甘やかな笑みが浮かび、ぬいぐるみに話しかける声さえも愛らしく、そう。『お城の蝶々』に描かれていた女の子が、今まさにそこに居たのです。
ネリの視線は、彼女に釘付けになりました。
実際のところ、舞踏会に出ている訳ですからお披露目が済んでいる年代。つまりは女の子も王子さまも十代後半でしょうが、絵本の絵です。その絵姿は幼く描かれていました。
そして、ネリにはそのあたりのことがよくわかっていませんから、まさに絵本の中から女の子が飛び出してきた、そんな風に思ってしまったのです。
女の子の傍には他に誰もいませんでした。彼女が話しかけている相手は、丁度子狸と同じくらいの大きさのぬいぐるみ。
一人でいるところを見ると、来客者の子供なのでしょう。
王様への謁見が許されるのは大人だけなので、子供たちがこうして待っていることは別段珍しいことではありません。王宮の中はそれだけ安全な場所なのです。
「ハーヴェスト。お父様たちのご挨拶はまだかしら。もう待っているのも、飽きちゃったわ」
果たして、彼女がどれ程の間待たされているのかはわかりません。けれども、その言葉通り、もうとっくに飽きがきてしまっていたのでしょう。女の子は、話しかけていたクマのぬいぐるみを椅子の上でぽんぽんと弾ませると、その勢いに任せて、ぽいっと放り投げてしまいました。
ぬいぐるみは四阿の外へ、それも子狸の方に飛んできます。吃驚した子狸は、地面をはずんで転がってきたそれを慌てて前脚で受け止めました。
とても高価なぬいぐるみなのでしょう。柔らかな綿、触り心地の良い生地に、子狸の前脚がゆーっくりと沈みます。
頬擦りしたくなるような何とも魅力的な感触に、子狸の関心はあっさりぬいぐるみへと移っていました。
茜色と藍色の釦で出来た大きな目、縫い付けている太い糸は同系色ですが釦よりも薄い色をしています。二頭身の丸みを帯びた茶色の体躯に、首元付いたチョーカーには女の子の瞳と同じ色の石が雫型に加工され付けられていました。カットされたその輝きを見るに恐らく本物の宝石でしょう。子狸は触り心地の良いお腹に夢中で気が付いていませんが、わかりやすく女の子のために作られ、贈られたであろうぬいぐるみです。
ぽすぽすとその柔らかさを堪能することに夢中な子狸は、近づく影に気が付きません。気が付いたのは、背後から抱き上げられてしまってからのことでした。
突然抱き上げられれば、いくら呑気な子狸とは言え驚きます。
「きゅいっ!」
「痛っ!」
吃驚して身を捩れば、なにかを引っ掻けた感覚がしました。と同時に小さく響いた悲鳴に、子狸は我に返って動きを止めます。
悲鳴は女の子のものでした。
そして、子狸が見たものは。
女の子の白く細い腕にくっきりと走る、赤い線でした。
己の爪が付けた傷痕です。
「暴れちゃ駄目!」
ぎゅっと抱きしめられて、子狸は動けなくなりました。
子供特有の柔らかで繊細な肌。
子狸が動けば再び傷をつけてしまうでことしょう。
猫と違い、狸には爪を仕舞うことは出来ないのです。
「可愛い!動くお人形!私と一緒に帰りましょうね」
すりすり頬擦りされて、子狸は途方にくれました。
血は出ていません。蚯蚓腫れにもなっていないから、それほど深いものではないでしょう。
ですが、子狸は、ネリは。
誰かを傷つけたことなどありませんでした。
ですから、その紅い傷が。
……あまりにも恐ろしかったのです。
女の子の両親が戻ってきて、王宮から連れ出されても、馬車に乗せられても。
彼女の腕から解放されて、檻の中に入れられるまで。
一度たりとも、動けないくらいには。
そして、ネリが居なくなった中庭には。
戦利品の入った籠とともに、土に汚れたぬいぐるみが一つ、地面に残されているだけでした。