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お城の蝶々



「あけましておめでとう」

 

 寿ぎの声があちらこちらで響き渡ります。


 女神さまのいらっしゃるこの緑豊かな国も、新たな年をお迎えしました。

 めでたい年始め。国中が明るく活気に溢れかえっています。

 勿論、王宮も例外ではありません。

 何処よりも華やかに。

 美しく飾り付けられ、次々と新年のあいさつにやってくる各地の領主様とその関係者の来訪に、いつも以上に賑やかです。

 そんな様子を、窓越しに見つめるものがありました。

 窓枠に寝そべって、下を覗き込む毛玉のような動物です。

 疲れた執務官や衛兵たちに癒しを与え、一部の侍女たちに萌えを提供するもふもふ。

 そう、領主様の所の子狸、ネリです。

 黒く円らなまなこをきらきらと輝かせ、ずんぐりとした尻尾をぱたぱたと忙しなく揺らしながら、子狸は大層楽しそうに下の様子を眺めています。


 つい先日、ネリは仲良くなった侍女に絵本を読んでもらいました。

 一人の少女が王子様に見初められ、お城で開かれた舞踏会の最中に求婚される、そんなお話です。

 愛らしく着飾った女の子と、彼女の前に膝を突き、手を差し伸べる王子様。

 可愛らしい絵柄で描かれた、とってもわかりやすい幸せな物語。


 ふんわりとスカートを摘み、美しい姿勢で礼をする女性に、さりげなく腕を差し伸べ優雅にエスコートする男性。扇を広げ、やんわりと微笑みながら談笑する淑女たちの、その向こうでは白い手袋をした紳士たちが親し気に挨拶を交わし合っています。

 大広間ホールへと続く回廊で行われているのは、すれ違いに挨拶を交わす程度の細やかな社交でしかありませんが、実際の舞踏会など見たことのない子狸には、あの絵本のような華々しい世界に見えました。


 飽きることもなく窓に鼻を寄せる子狸の頭の上に、ぽんと誰かの手が乗せられました。

 子狸にとっては、大きな、大きな手です。


「きゅ?」


 顔を上げた子狸は、身なりの良い不愛想な青年と目が合いました。

 領主様です。

 精悍な顔立ちをされていますが、切れ長の目元に加えて厳しく見える表情のせいで、仏頂面にしか見えません。

 ですが、


「ご機嫌だな。なにか面白いものでも見えたか?」


 そう掛けられた声は柔らかく、とても温かいものでした。

 子狸は嬉しくなって彼の掌にすりすりと頭を擦り付けます。

 それだけでは足りなくて、手をぎゅっとしようと後ろ脚で立ち上がりました。

 狭い狭い窓枠の上、ということはすっかり記憶の彼方です。

 当然、その片脚はいっそ見事なほどの勢いで空を切り、浮遊感を覚えたのは一瞬。傾いて、転がり落ちた子狸は、危なげなく領主様に受け止められました。

 子狸がおっちょこちょいなことは出会いからも十分理解している領主様です。


「きゅー……」


 情け無い鳴き声が子狸から零れ出ます。それが可笑しくて領主様の表情が緩みました。

 くるりと回った視界の中で、鋭い眼差しががやんわりと緩み、口角が引き上げられます。ほんの僅かな変化ですが、子狸は胸がぽかぽかしてくるのを感じました。

 あまり変わらない彼の表情が変化する、その瞬間が子狸は大好きなのです。

 ですから、腹を見せた無防備な姿であることも気にせず、……そもそも気が付いてもいませんが、子狸は領主様に向かって短い前脚を伸ばしました。

 甘やかされ過ぎて、少々野性を忘れ過ぎなのはご愛敬、ということにいたしましょう。

 子狸を甘やかすその最たる人物は、ソファに移動すると自分の膝の上へ子狸を下しました。


「で、何を見ていたんだ?」


 柔らかな毛並みを撫でながら尋ねます。

 口数の多い訳ではない領主様ですが、子狸との会話の切っ掛けはこうした領主様からの問いかけが殆どです。

 なぜならば、領主様がお話をすることが苦手なことを子狸は知っていたからです。

 子狸自身は動物ですから、無言が苦痛なはずもなく、些細な感情の変化にも敏感から、言葉にされない領主様のわかりにくい愛情だって、しっかり受け止められます。ですから、不安になることも、不満に思うこともありません。

 しかし、言葉でしか伝えられない想いや言葉で伝えられるからこそ嬉しいこともあると、人となって知ることが出来ました。

 ですから、領主様から話を振ってもらえた時には精一杯言葉にして返そうと思うのです。


 ぽふんと音を立て、子狸は人の姿になりました。

 領主様の膝の上で足を揺らすのは10歳くらいの女の子、ネリです。

 顔を上げて無邪気に笑いかける少女の頭を領主様は優しく撫でました。

 恋人兼婚約者同士の二人ですが、子狸の幼さもあり、そのふれあいは年の離れた兄妹のように、実に微笑ましいものです。だというのに、幼い恋の特有の甘酸っぱさではなく、さりげなく目を逸らしてしまいたくなるような気まずさを感じるのは、間違いなく領主様のせいでしょう。

 

 可愛らしい娘に向けるには、その目に宿る熱は熱すぎて、そして甘すぎます。

 しかし、それを向けられたネリが嬉しそうににぱぁと笑うから。

 甘さを滲ませたしっとりとした大人の世界は、色っぽさとは全く無縁の何とも柔らかな空気に塗り替えられていくのでした。

 領主様としてはそれに対し思うことがある、と言うのが本音でしょう。

 ですが、時々、……恐らく時々、こうして駄々洩れてしまう愛情に、子狸が正面からぶつかってくれるから。

 その度にまあいいかと、のんびり待つ余裕を取り戻すのです。

 恋情というさざなみを引かせ、穏やかな瞳で待つ領主様に、ネリは絵本のことを話しました。


「『お城の蝶々』か」


「はい!」


 絵本に興味がある訳ではない領主様でも知っているような、広く知られたお話です。


 偶然出会った女の子と王子さま。

 身分違いの恋に悩み、引き裂かれそうになる苦悩の夜を越えて、互いの想いを伝え合って結ばれる。めでたしめでたしのお話は、確かに女の子には好まれそうです。


「女の子と王子様、盛装した紳士淑女の皆々様。華やかな装いで、舞踏会を彩ります」


 ネリが楽しそうに諳んじたのは、話は終盤、まさに盛り上がりへと駆け上がるその合図となる言葉でした。

 ページを捲り先へと進めていけば、王子様がお姫様をダンスに誘い、一曲踊った後に衆目の前で求婚をする、あの場面へと繋がっていきます。


 そんなきらきらした盛装の紳士淑女が今まさに窓の下にいるのです。

 夢中になってしまったのも可笑しくはないでしょう。


 話を聞き終えた領主様は少し考えてから尋ねました。


「ネリもああいった格好がしたいか?」


 ネリは不思議そうに首を傾げます。

 きらきらとしたドレスはとても綺麗ですが、それを自分が着ることなんて、全く想像もしていませんでした。ですから、改めて想像して……。

 何故でしょう。泥だらけにしてしまうまでの一連の流れが鮮明に駆け巡り、ネリはガクブルと首を振りました。

 ええ、洗濯だけには自信のあるネリは真面目な顔で答えます。


「あれは、泥は落ちないと思うのです」


 相変わらず、とっぴな回答ですが、その思考回路が単純なことも領主様は知っています。ですから、「なぜ、そんな返事?」と思ったのは一瞬で、すぐさまその理由に辿り着きました。


 着たら、汚す。


 なるほど、ネリらしい答えかもしれません。

 しかし、その答えでドレスを着たい訳ではないことも理解しました。


「なんだ、絵本のような光景が楽しかったのか」


 領主様の導き出した答えに、ネリは嬉しそうに頷きました。

 人になろうとも、お城で過ごす様になろうとも、ネリは変わらずネリだったわけです。

 変わらない子狸が愛しい反面、領主様は少しだけ残念にも思いました。

 愛しい娘を着飾りたい。領主様だって、そんな風に思うことがあるのです。

 ですが、社交界に出すつもりがあるかと聞かれれば否と答えるでしょう。

 ネリは狸です。

 そんな彼女にマナーだの淑女教育だの、詰め込むつもりはありません。

『公爵夫人』にしたいわけではないのです。

 女主人がいなくとも、今までだって領主様の領地運営に影が差したことなどありません。社交界で得られる情報なんて、女主人の活躍がなくとも手に入れられますし、味方を作るのだってやりようはいくらでもあります。


 領主様は、ただ、この子狸と共に生きていきたいだけなのです。

 女神様に助けてもらった、大切な命。

 領主様の宝物。

 ネリの懸命さや純粋さ、のんびりとした雰囲気や心に寄り添う優しさ、動物らしい可愛らしさや滑稽ささえ、領主様は愛してやまないのですから。


 そして、それはきっと、領主様だけではないのです。

 領主様のお屋敷は以前よりもずっと居心地の良い所になりました。

 

 天気が良いこと、今日のパンが上手に焼けたこと。

 ごはんがおいしいこと、掃除した部屋が綺麗になったこと。

 蕾が綺麗な花を咲かせたこと、いい笑顔で「おはよう」の挨拶が出来たこと。


 当たり前すぎて、なんの感慨も抱かなくなっていた毎日が、本当はとても温かくて幸せなものだと、些細なことに喜ぶ子狸に気が付かされ。

 領主様へ恩返しをしようと奮闘する子狸の幸せそうな笑顔に、屋敷の人たちも一緒に笑顔になって、互いを気遣い思いやるようになっていったのです。


 領主様の屋敷で子狸が芽吹かせたのはきっと、『優しさの種』だったのでしょう。


 人の姿になり、ネリが学ぼうと頑張るのを、止める気はありません。

 ですが、完璧なマナーや人の決めたルールなんてものを押し付ける気もないのです。

 ネリはネリらしく、領主様の傍にいてくれればいいのです。


 とまあ、そんな真面目な思いは別にして、単純に可愛い恋人を着飾ってみたい。

 そんな欲求は消えません。

 屋敷に戻ったら使用人たちと相談してみるかと、頭の中でこっそり計画し始めた領主様でした。


「新年の祝いが終わったら、屋敷に帰ろうか」


 年の瀬の大仕事も終わり、新年の行事が済めば、領主様もお役御免です。

 以降はいつも通り、王様と宰相さまでどうにかできるでしょう。

 屋敷に戻れるのも、もう間もなくです。

 領主様の言葉に、懐かしい屋敷の人たちの顔を思い浮かべて、ネリは嬉しそうに頷きました。



 そんな領地への帰還を目前にしたある日のこと。

 王宮内を震撼させる大事件が起きました。






 子狸が、行方不明になったのです。










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