12月25日、だるま少女。
今日は12月25日だ。世間ではクリスマスだなんて呼ばれているらしいが、今年で20になった私にクリスマスなんてものは何の関係もない。もちろんサンタからのプレゼントも無い。
……いや、クリスマスと言えば、もちろん男女関係云々の話はあるだろうが、「彼女いない歴=年齢」である私にとってはやはり、どうでもよい話だ。
私は中学に上がってからというもの、一回もサンタからプレゼントを受け取った覚えがない。
それは幼き頃からサンタを信望してきた私にとって、単なる裏切り行為でしかなかった。
小学6年生のクリスマスまでは、決まって枕元にラッピングされた箱が転がっていたものだ。
……それがなんだ。親にサラッと暴露された時の私の衝撃といったら、その時の私の表情、到底見るに耐えないだろう。
「サンタさん? お前まだそんなの信じてたのか……ウケる(笑)」
クリスマス明けに、「お父さんから◯◯買ってもらった!!」とかなんとか自慢していた友人を、「ああ、コイツは私と違って不真面目だから、サンタに来てもらえなかったんだなぁ」なんて見下しつつ、得体の知れない優越感に浸っていたあの頃の私は何処に。
中学校三年間、あの瞬間まで『サンタさん』に捧げてきた余分な片想いは何処に。期待してたのに。
ーー結局何が言いたいのか。
つまりサンタなんて都合の良い架空生物であり、それに伴う『クリスマスプレゼント』なんて単語も、企業の陰謀が構築した幻想に他ならないということだ。
イエス=キリストを祝わずして、一体なぜ大半が無宗教である日本人がクリスマスを執り行うのか。
であるから、私は断固として企業の策略なんぞには引っかからぬよう、極めて細心の注意を払い、今日という日を迎えたのである。
ーーしかしながら、人間関係についてはどうしようもない事実が付き纏う。
男女のイチャコラした関係も、クリスマスという幻想に煽られた結果に他ならぬ、と言うわけにはいかないのだ。
こんな事を宣う彼女いない歴=年齢の男は、おそらく私くらいなものであろう。この点において、私はしっかりと現実を見据えた、立派な紳士であるということだ。
さあ、そこの君。惚れたまへ。
……閑話休題。
あるべきタイミングで、双方どちらかの告白の結果付き合うことになったのが、彼らカップルである。
彼らは勿論、それまでの時間を共に分かち合ったからこその彼らであって、決してクリスマスの奇跡が作り上げた関係ではないのである。決して、だ。
この点に於いて我々は認めなければならない。
彼らの努力だ、と。
であるならば、お前は努力してこなかったのか。と言われれば断固反論する他ない。
去年までの私は、側から見れば1人虚しく過ごしている『クリぼっち』の哀しい野郎であった。
しかしながら今年、私は自らの努力によって、世間から付けられたあの忌まわしい称号を葬り去ることに成功したのだ。
……そう。『クリぼっち』から、新たに『3人クリぼっち』の称号を手に入れたのだ。
今日はクリスマス。1人の同回生と、1人の先輩と共に、クリスマスの夜を過ごすのだ。3人で飲み飲み語らうのだ。これを努力の結晶と呼ばずして何と呼ぶのか。呼ばないか。
結局ぼっちじゃねえか。
……いや、決して寂しくなどない。3人集まれば文殊の知恵と言うだろう? ……そう、私は最早敵無し。無敵。
私は、進化した。褒めて。
〜 〜 〜
12月25日、朝。7時に目が覚めた私は、髪の毛をぐしゃぐしゃにしたままシャワーを浴びに浴室へ。
シャワーから上がり、キッチンの戸を開けると、嗅ぎ慣れた芳醇な香りがブワッと溢れてきた。
インスタントコーヒーの瓶を大量に収納してあるのだ。
コーヒーを淹れ、砂糖とミルクをこれでもかと投入する。カコカコとスプーンでかき混ぜ、まだ水面がぐるぐると回っているうちに、ゴキュゴキュと一気に飲み干す。
ちと飛び散ったコーヒーが、卓上のスマホケースについたが、今更汚いスマホケースがさらに汚くなったとて気にはしない。
これらの行程を経て、初めて私の1日が始まる。
例年通りであれば、これから近くの古本屋へ足を運び、適当な漫画や小説を数十冊見繕ってから家に帰り、一日中麦茶を飲みつつダラダラ読んでいるところであるが、今年はそうはいかない。
なんせ、私は進化したのだ。
夜、コタツに入ってゴロゴロしながら、交通事故で1名死亡したなどというニュースを、
「クリスマスなのに悲惨だなあ。私みたいに一人孤高に過ごせば良かったものを」
などという不謹慎な呟きでもって、自分の状況もたいへん悲惨である事をひた隠しながら過ごしていた、去年の12月25日とは違うのだ。
私は大学二回生である。文系の私は理系の親からバカにされ、理系の知り合いからは努力をしないクズの烙印を押された。
では日本にはクズの烙印を押された者はいったい何人存在するというのだろうか。全国の文系達の恨みは根深いのだ。高校時代の理系組よ。今に全国の文系達に押し潰されるだろう。待っていろヨ?
……大学で実に文系らしい文系人間をしている私だが、入学してから、同じ文系同士、仲良くなった友達が割と多くいる。
……いる筈なのだが、どういうわけか今回の飲み会では1人しか集まらなかった。
なぜだ。貴様ら裏切ったな。
山口、見たぞ。昨日カワユイ女の子を連れていたお前を。許さない、絶対。
あちこち話が飛んでしまってろくに話が進まないが、許せ。私は奴らが憎いのだ。
ーー兎にも角にも、私はそういう存在である。
今日はとある新宿の飲み屋へ行くことになっているが、正直夜まで暇だ。
というわけで、私は約束の時間まで新宿の古本屋やらゲーセンやらで暇を潰そうと、朝から家の最寄り駅へ向かった。
休日の朝から電車に乗ることは滅多になかったので、少し新鮮であった。何故だか心臓の動きが速くなり、血液が頭によく廻るような気がする。
きっと朝のインスタントコーヒーがそうさせているのだろう。
その時はそう考えていた。
……が、違ったのだ。実はこの時、私の身体は人生最大の災難が自身に訪れる事を予感してビクビクしていたのである。
今思い返してみれば、あのだるま少女が災難そのものであったのだろう。
しかし、今日は同時に、私の人生史上もっとも充実した一日でもあったに相違ない。今は心からそう思うのである。
〜 〜 〜
さて、ガッタンゴットンと、人間でぎゅうぎゅうになった電車に揺られ、新宿駅に着いた。辺りを見渡せば人人人。人の海。ホームのど真ん中で少々呆けていた私を避けながら、人はドンドン奥へと流れて行った。
どうやら私は、もの凄い人の量に少々酔ってしまったらしい。
人の流れが収まって、ようやく歩けるようになった。私はあまり人混みが好きではない。
改札を出て、待ち合わせ場所である階段下の周りをぐるっと一周してから、ポケットから灰色の生地に黒いラインが引かれた、ヨレヨレのスマホケースを取り出し、パカっと開ける。それから、私は慣れた手付きでスマホのマップアプリを立ち上げた。
アプリが起動すると、自分の現在位置が青い点でマークされており、ポワーンポワーンと一定の時間でオーラを発し始めた。
…………しかし新宿駅はデカイな。
ビルやらなんやら周りがごちゃごちゃしていてよくわからないが、駅自体がやたら大きいことははっきりと理解できる。ついでに写真でも撮っておくか。パシャっと。
諸君。ここが新宿駅である。
私が少しでも画面から目を離せば、サンタのコスチュームをした客引きが、ビラやポケットティッシュを配っていたり、どの建物も植木も、至るところにイルミネーションが施されていたりと、クリスマスムード真っ盛りな情報が見て取れた。
……騒がしい。
少々の沈黙を経て、ようやっと私の指は検索対象の「ブックオフ」を入力し始める。
すると、候補が赤いマークで4つほど出てきた。
ふむ。二つは遠すぎるな。
残り候補は二つ。今いる位置からすると、片方は駅を跨いだ向こう側にあった。もう片方は今自分がいる側にあったので、この「ブックオフ東口店」へ足を運ぶことにした。
クリスマスフェアとかやってるかな?
テクテクと歩み始める私。
すれ違う人がドンッドンッと私の肩に当たってくれるので、なかなかテクテクとは行かず、テクテットトトテテテと歩調が安定しない。
私は人の流れに逆らっているのだと途中で気がついたが、次の瞬間、若いカップルの男の方に肩を強くぶつけられて、この逆流からは決して離れまいと固く誓った。
肩に入れる力を一層強め、ズンズンと人混みの中を進んでいく。
ズンズンズン…………ズンズン…………ズ……。
……どこだここは。
全くわけのわからない所へ着いてしまった。店への方向が全く分からなくなってしまった。
すぐさま、私はポケットのスマホを取り出し現在位置確認を…………アレ?
ポケットを慌ててまさぐる。
カサコソ、バンッバンッ…………。
ーー無いっ!?
私のポケットからはついさっきまで存在していた筈のスマートフォンが消え去っていた。
…………スられた。
馬鹿な奴め。財布だと思って勘違いしたな? きっと得物を確認したらすぐに警察に持っていくだろう。
あんなヨレヨレのケースに入ったスマホなんて誰が欲しいと言うのだ。
しかし、初っ端から最悪な事態に陥ってしまったのは変わりあるまい。
すぐさま警察へと思ったが、ここが何処だか全くわからない。
あたりを見渡せば、わけのわからない言語を話す外国人と、ハートを飛ばし合う日本人カップルのみがやたら目に映った。
これは話しかけられない。
というか此処にいたくない。
すぐ目の前に細い裏路地があったので、そこで束の間の休息をとることにした。
はぁはぁ…………疲れた。もう疲れた。2分でこんなに疲れるなんて。
私は両膝の皿を手で押さえて、ぐったりと息をついた。
ーー最悪である。今日は最悪な日である。
しばらく上の言葉を脳内で繰り返していると、ガタッっと前方で音がしたので、ビクッとしながら頭を上げた。
ーーそこにはだるまの少女が水色のゴミ箱の蓋を掲げ、こちらを見つめながら突っ立っていた。
「あなたは誰ですか」
ーーそこにはだるまの少女が水色のゴミ箱の蓋を掲げ、こちらを見つめながら突っ立っていた。
「あなたは誰ですか」
話しかけられた。
「あなたは誰ですか」
それは私が問いたい。
「…………」
あまりの衝撃に思わず沈黙してしまったが、ソレはまさに『だるま少女』としか表現できない見た目であった。
正月によく見る達磨を手で抱えているとかいうわけではなく、達磨そのもの。かといって少女と区別できるくらいは人間部分を露出している。
…………とどのつまり、赤い達磨の着ぐるみ(?)を着た幼い少女であった。ちなみに手にはそこら辺にあるような青いバケツの蓋を持っていた。
さっきから急なイベントが連続して起こっているためか、頭が少しも機能していない気がする。
とにかく情報量が多すぎる。うん。
ーー少女と私はしばらく見つめあった。
両者、互いに額からツーと、ひとすじの汗をかく。
「「…………」」
やっとのこと、口を開いたのは私である。
「私は……大学生だ」
割とどうでもいい情報を口に出してしまった。
「……だい、だいがく……せい」
「……そうだ」
「あっ、はーん……」
どうやら得心がいったらしい。これで良いのか。
「う、うむ……それで、君は?」
私に問われた少女は、顎に指を添えて、首をひねった。
「うーんと……わたしは……神さま、ですか?」
そんなものは知らない。こちらが尋ねたのだから、聞かないでほしい。
「……うん。わたしは神さまだ」
神さまなのか。
「…………君は迷子なのか?」
「ううん、神さま」
「なぜ此処にいる?」
「まよった」
「ゴミ箱の蓋を持っているのは?」
「……なんか、身を守れそうだなとおもった」
「そのだるまの格好はなんだ」
「…………これだるまって言うの?」
「ではさようなら」
「ま、まって」
これ以上どこに議論の余地があろうか。
君がもし神さまなのだとしたら、私が居なくともやっていけるのだろうし、そうでなくても、碌に言語が通じない時点でお互いやっていけないだろう。よって私は此処から去るべきである。
チラッと少女と目があった。
少女は瞳をうるうるさせている。せこいぞ貴様。
「…………家は?」
「しらない。じつは自分のなまえもしらない。きおくが無いらしい」
「本当か」
「ほんとう」
「その格好も?」
「これはなんか……むかし着てた気がするので」
「親が着せたのか?」
だとしたら相当やばい親であるが。
「わからない。おもいだせない」
「本当に何も覚えていないのか?」
「うーん……おっちゃん?」
「私はおっちゃんではない」
「ちがくて、おっちゃんを覚えてる」
……なんと反応すればいいのか。このまま帰るか。
「とりあえず、警察に行こうか」
「じゃあ連れてって」
「…………」
…………そういえば私も迷っていたんだった。
ーーさて、こういう時はどうするべきか、このままここでじっとしていてもキリがないが、かと言って適当にフラフラと歩いて行ってしまえば、この区域から遠のいてしまう可能性がある。それはいけない。少女の親も困ることであろう。
私は少女から背を向け、少し渋めの声を出そうと意識してみる。決して迷子を保護するオレカッコイイとか、そういうのではない。
「……では参ろうか、君」
「どこに」
「…………」
どうやら今の私のIQは揚げたてホカホカのチキン並らしい。
「どこに」
「……どこか、適当に行くのだ」
「…………まいご?」
「つまり……そういうことだ」
こうしてだるま少女と私の新宿冒険(徘徊)が始まった。
〜 〜 〜
私が適当に歩いてる後ろを、だるま少女がトテトテとついてくる。すれ違った外国人が私のすぐ後ろを見ながら何か叫んで「オウ! ジャパニーズコスプゥレファッキンシッ!」いたが知らない。ムカつく。
「だいがくせーはここに来たことあるの?」
「新宿のことか? ……いや、高校生の頃一度来たきりだ」
「こうこーせーは強いの?」
「いや、大学生よりは弱い」
「だいがくせーは強い?」
「無論」
だるま少女は、無論の意味がわからなかったのか首を傾げたが、私の得意げな表情をみて「そっかーつおいのかー」と呟いた。そもそも何の強弱を聞かれたのかわからなかったが。
しばらくこのようなやり取りを経た後、私たちは道路を挟んだ所にある、新たな裏路地の入り口へ辿り着いた。
「れっつごー」
「待て」
そのままズンズン進もうとした少女の肩を抑える。
「?」
「何故また裏路地に行くのだ。もっと、こう……どこかあるだろう?」
せっかく広めの通りに出たのに、なぜ裏路地に行こうとするのか。
「どこかってどこ」
「わからん」
「じゃあ、ご、ごーほーむ?」
ここは君の住処なのか。
いや、疑問形なのでこれは自分の言葉が理解できていないのだな。
これまでの会話で、このだるま少女の会話癖や性格がだんだんと分かってきた。大丈夫か、私。
「…………」
私が裏路地へ入るのに躊躇していると、背後からいきなり話しかけられた。
「お前さんじゃないか!」
ビクッとして、後ろを振り返ると、友人の菊池が片手を挙げ、ヒラヒラとしながら近づいてきた。
「菊池か」
今日飲む約束をした内の、同回生の方であった。
菊池は私のことを「お前さん」と呼ぶ唯一の輩である。
その脳味噌の内訳は90%の性欲と10%の性欲であるらしいが、実際はわからない。
というかお前はどういう評価を世間から受けているのだ。100%性欲じゃないか。チンパンジーにも劣るぞこの男。
「そうだよ、お前さんの友人、菊池だ」
「私にチンパンジーの知り合いはいない」
「なにいきなり!? どういうこと!?」
「うるさい」
「お前さん酷いな、全く。というかどこに行こうとしているんだ。風俗か?」
チンパンジー未満の生物となぜ私は知り合ったのだろうか。
「いや、裏路地……だ」
私がそう言い、親指で背後の裏路地を指差すと、チンパンジーがキョロキョロと私の背後を覗いてきた。
「…………いや、壁しかないけど」
こいつ、ついに退化しすぎて現実を頭が処理しきれなくなり始めたか。巫山戯てるのかお前。
「何を言う、私を騙そうなどとんでもない。ここをよく見るのだ、チンパン」
そうやって、菊池を裏路地の目の前に立たせた。一人の友人(?)として、彼をコッチの世界に戻さねばならない。
「では、前に進みたまへ。現実を見るのだ。チンパン」
菊池の背中を押して裏路地へと導く。
「ちょ、ちょお前さん、無理だって、壁! 壁だから!」
ーーゴッ。
「アガッ!?」
「なんと」
透明なガラスに顔を押し付けた時と同じ現象が起きた。ほっぺたが空中で潰れている。
パントマイムなんて珍しい芸を覚えているな、菊池。
「だ、だかふぁかへだって」
「なんだって?」
「はなふぃて」
私は手を退いた。
「だから壁だって言っているだろう相変わらず無茶な野郎だなお前さんは」
菊池は顔を抑えて早口に言った。
そんな演技、私は騙されんぞ。
だるま少女は、私たちのやり取りを見ながら呆然と突っ立っていた。口があんぐり空いていた。
「こ、こやつはだれだ?」
菊池を指差して、恐る恐る聞いてきたので応えてやる。
「菊池だ。こいつは菊池だ、チンパンとも言う」
「? お前さん急になに言ってる」
菊池が首を捻った。
「いや、このだるま少女がお前は誰かと聞いてきたのでな」
傍で呆けている少女を指し示す。
「お前さん。俺は騙されんぞ。何を企んでいるのかはわからんが、随分わかりやすいじゃないか。なにがだるま少女だ」
そして菊池は、そもそも俺は間違ったことは何一つ言ってないんだがな、と続けて腕を組んだ。
「何を言っているのだ、貴様の目は節穴なのか。この娘を見てみなさい。ほら、君も話して」
少女は口を開けたまま何も話さない。なぜだ。
「はぁ……お前さん。疲れているのは良くわかった。悩みがあるならば今日の飲み会で全部吐き出せ、な? よければ良い女の子がいる店だって教えるぜ?」
心外である。私はまともだ。貴様にはこの幼いだるまが見えぬのか。巫山戯るのも大概にしてほしい。
「……ま、とりあえずまた後で飲み屋でな」
「お、おいちょっと待て菊池」
「俺はちょっと用事があるんでな! 愚痴なら後で聞いてやるからさ!」
スリには注意しなー、などと言って菊池はどこかソワソワと去って行った。そっちに確か風俗店の看板がチラホラ見えた気がするが、まあ良いだろう。
私をバカにする友人は消えたのだ。結局あいつの頭は煩悩で埋め尽くされいただけだったのかーー。
「ーーって良くはない。絶対に良くはないッ!」
私は今ここが何処なのかすら理解していない遭難者なのであった。
思い出しても時すでに遅し。菊池は人混みの中へ消えてしまっていた。
あやつめ、私はもう忠告以前にスられているというのに…………!!
「だいがくせー、いこー」
気の抜ける声がした。
振り向くと、だるま少女が裏路地の中へ入って行くところだった。
「…………う、うむ」
私は応えて、裏路地の暗がりへと進んでいった。このまま放っておくわけにもいかない。保護者が不在ならば尚更だ。
暗がりの中をテクテクと歩いていく。
テクテクテクテク…………。
テクテクテクテクテク…………。
テクテクテクテ、おい長いぞどういうことだ。
というか、さっきから同じ道を進んでいる気がするが。
「君」
「神さまとよびなされ」
「君、どうしてさっき話さなかった」
「だって、だいがくせー、 みどり色のおばけと話してた」
「菊池のことか」
「あの、キクチっておばけなの?」
「ある意味でバケモノだが、あれは私と同じ人間だ」
そう、彼は性欲モンスターである。
「うそ、ぜんぜんみため違ってたもの」
ーーこの少女には世界がどのように見えているのだろうか。
少なくとも私の目に、菊池はチンパーー人間に映っているが。やはり純朴なる子供には全てを見透かされているのか。少なくとも人間として見られているであろう私には朗報である。味方が増えた。菊池ドンマイ。
いや、それよりも聞かねばならぬことがある。
「で、君、ここは何処だ」
「ここはここだす。わたしも知らぬです」
そう言って、さらに奥へとズンズン進んでいく。出口がさっきから全く見当たらないが、本当に大丈夫であろうか。
「ここはおちつきますな」
口調が変になってる気がするんだが。
「君は裏路地出身かい?」
「それは違うとおもわれる」
「君、神さまならば警察へ連れて行ってくれたまへ」
「ぶつりほーそくには逆らえぬのです」
「随分と現実的な神さまだな」
「いまは地上におりますゆえ」
「柔らかそうだなそのだるま」
「やわらかいです」
そう言った途端に、だるま少女がこちらへ突っ込んできた。
「だるまあたーっく!」
「どーん」と効果音を口で発しながら私の体に体当たりした。
「うげっ!」
だるま少女が呻いた。私に跳ね返され、転がったのだ。おい、弱いぞこのだるま。
「おのれだいがくせー! きさま強いな!」
「確かに柔らかいな」
「だろう? じまんのいっぴんだ」
「怪我はないかい」
「だるまがまもってくれましたとさ」
「それはよかったとさ」
随分打ち解けてしまった気がするがまあいいだろう。
あまりの裏路地の長さにうんざりしていたことだ。少々茶番に付き合ってもいいだろう。
そんなことを考えながら、その場でしばらく立ち止まっていると、
「おい」
と頭上から声がかかった。
そちらを見ると建物の裏からニュッと出ている階段に、見知らぬ男が座っていた。40代くらいであろうか。少しやつれた顔をこちらに向けていた。黒いエプロンを身につけていた。
「お前らどこから入ってきた」
「どこからも何も、この裏路地の入り口から普通に入ってきた」
「そそ、そうだそうだ!」
だるま少女が私の背後から声を上げた。少々声がうわずっていたが、突然現れた見知らぬ男に緊張しているのだろうか。
「何を言っている。入り口は塞いでいた筈だ」
「そちらこそ何を言う。私たちは嘘など言っていない」
そもそも裏路地の入り口を塞ぐな。
「そこのお嬢さん、顔を見せい」
無視するな。
「…………」
少し間を空けてから、だるま少女は私の腰あたりからピョコっと顔を覗かせた。
「ふむ、成る程な。お前たちが此処に居る理由がわかったぞ」
「貴方はマジシャンか何かか?」
「マジカルなのは間違いないな」
「そうか、貴方もおかしなお方と見えた」
「心外だ。俺らからすればあんたがおかしい存在だよ。さ、こっちに登ってきな」
「なぜだ」
少し怪しいなこの男。
「なんだ、お前は元の所へ帰りたくないのかね」
「今行く」
この裏路地地獄には辟易していたところだ。即答するものだろう。
「ま、まってだいがくせー」
「どうした。戻るぞ。早く警察へ行かねばならない」
「そのおっさんとても怖い」
初対面のおっさんにそれは無いだろう。見た目も普通だろうに。やつれてるけど。
「お嬢さん、それは酷いぜ」
おっさんが振り向いて顔をしかめた。
「そうだぞ君。この方は間違いなく今の私たちにとって益となる……」
「でも…………」
「いいから、いいから。さあ来なさい」
私はだるま少女の手を引いて階段を上っていった。
「んじゃ、付いてきな」
おっさんがそう言って壁にはめ込まれた裏口であろうドアをガチャっと開けた。
「ほう、広いな」
中は広々としたバーのようであった。
「飲み屋……バー、ですか」
「そうだ。俺が経営している。どうだ、少し休憩していくか」
「では少し」
そう言って私は近くの椅子に座った。
だるま少女は私の真横に座った。少しムスッとしている。
「何にするかい」
「今夜は友人たちと飲む約束をしているので…………ではコーラを」
「お嬢さんは」
おっさんが少女に顔を向ける。
「………………おれんじじゅーす」
少女は、少し間を空けてから小さく呟いた。
「はいよ」
そう言っておっさんは店の奥へ引っ込んでいった。
ふう、やっと息がつけるぞ。
私が少女に目線を戻すと、未だに少女はムスッと頬を膨らませていた。
「君、何が不満なのだ。安心したまえ、私が金を出す」
「そうじゃないもん」
「じゃあ何だ」
「あのおっさん。目がまっ赤だった」
「それは寝不足だろう」
なんかやつれていたし。
「ちがう、そうでなくて、だいがくせーみたいな黒と白の目とちがった」
「むむむ、それはどういうことだ」
私が思案していると、おっさんがやってきた。
「さ、持ってきたよ」
コトンコトンと私とだるま少女の前にグラスを置いた。
私はおっさんの目を注意深く見た。
「ん? なんだお前、俺の顔ジッと見て」
「いや、なんでもない」
おっさんの目、普通じゃないか。
「そうか……少し休憩したらサッサと帰りな」
そうだな、約束の時間もあるし。
「すまない」
「なぁに、あと1分ほどで開店だが、いつもは1時間くらいは客が入らない。それまでに出てってくれりゃ…………」
カランカランと奥から音がした。
「デっさん! 来てやったぞ!! なんか飲ませろ!!」
客か? ……まあいい。…………ズズズ。
うまいな、コーラ。
「スィズさん、まだ開店まで1分ありますぞ」
「なに固いこと言うな。入るぞ」
「ちょ、ちょっとまっ」
どうやら入ってきてしまったらしい。
「おお、珍しい。人間じゃないか……ってこいつ……」
ん? 何が珍しいと言った。
私は振り向いて…………固まった。
「……ガハハハ、この人間怯えちまったぞ。デっさん!」
そこには、いつしかの世界史資料集に載っているような、真っ黒いガーゴイル像のような男が立っていた。
「大丈夫だぞ、人間。今の俺はフリーだ。契約がうんたら言うつもりはない」
「失礼ですが、貴方は」
「俺はスィズ。悪魔だ」
悪魔だ。なんて言われても。イマドキ流行りのコスプレというものだろうか……?
「スィズさん。この人間、どうやら迷ってしまったようなのでちょうど帰すところでした」
「そうか。じゃあそこの嬢ちゃんが」
「ええ」
さっきからなんのやり取りをやっているのだろうか。全く理解できない。
「いいか、人間。俺が酔って忘れる前に言っておくが……しっかり嬢ちゃんを助けてやれ」
「言わずとも会った時から保護者代わりに付いて回っている」
どうせ時間は潰さねばならなかったのだ。保護者の真似事くらいどうってことない…………迷っていなければだが。
「まあ、今はそれでいいがよ。しかし人間、お前はあまり驚いていないな。俺を見て怯えない人間は今までいないぞ」
「はぁ。まあなんか」
コスプレに気合い入り過ぎだとは思うが。
「気の抜けた人間だな。まあいい。ちなみにこのデっさんも悪魔だ」
そう言って隣にいたおっさんを指差した。
「……はい?」
おっさんもコスプレするのか?
「あぁー、まあお前が怯えるかもしれないから言わないでおいたが、そうだ。もっとも、そこのお嬢さんは気づいていたようだが」
「誠か」
「誠だ」
まあ、私にコスプレ好きな人間を見抜く能力なんぞ必要ないがな。そこについては、同じコスプレを愛する同士として、だるま少女は見抜けたということか。
つまり……そうか、ここは大人になっても中二病が治らなかったおっさん達が集うバーなのか……。
「おい。お前今失礼なこと考えてたろ」
おっさんが私を見て言った。
「そんなことはない」
「さてはお前、信じてないな?」
「ガッハッハッハッハ!! デッさん、この人間、俺らのことコスプレしたイタいおっさんだと思っていやがる!!」
…………!?
「な、なぜそれを……!?」
読心術か?
「いや、術っちゅうか、見えるだけだな。人間よ」
「!?」
ーーこのおっさん、イタすぎるっ!?
「ガハハハ!! 面白い奴だな、貴様。いいか人間……驚いて死ぬなよ?」
何を言っているのだ。イタくてとてもじゃないが見てられん。
私は卓上のコーラをズズッと飲み、改めてコスプレおじさんを見ーー
ーー次の瞬間、スィズと名乗った男が大きく膨らんだ。
ムクムクモキモキッ!!!
お、おおおいなんだこいつッ!?
バッキャァッ!!
側にあった机が粉々になった。
「おおおおい!! スィズさん!! その机新調したばっか!!」
おっさんが慌てて止めようとするが、尚もコスプレ……否、人間ではない何かは膨張を続ける。
「スィズさん!! とま、止まって頼む! このままじゃ店が文字通り潰れっちまうよ!!」
モリモリッ……ピタッ。
止まった。
モリモリモリッ。
また膨らみはじめた。
「おっちょっちょ、スススィズさん!?」
再び膨れ上がるソレに、おっさんが抑えにかかる。まるで楠木の幹にしがみついているかのような抑え方である。
「……グ」
ソレが呻いた。
「ぬ」
私は顔をしかめる。瞬間。
ーーぱしゅんっ。
「「…………」」
「…………はぁ」
私と少女は絶句した。おっさんは額に手を当て、ため息をついた。
ーー絶句するのも無理はない。なんせ、スィズと名乗るコスプレおじさんが急激に膨らんだと思ったら、ぱしゅんと破裂してしまったのだから。
まるで、風船が割れたかのように、服の残骸だけを残して。
「……わけがわからん」
ポツリとこぼした一言である。なかなか的を射ているであろう。
「わけがわからん、じゃねぇ、見たまんまだ、まだ信じねぇんか?」
そしてスィズコスプレおじさんの声が後ろから聞こえてきーー。
「ーー!?」
私は慌てて振り向いた。少女は尻もちをついて目をくるくるさせていた。
「な、なな、な……」
「ガッハッハッハ! やはり貴様、所詮は人間だな」
「貴方はマジシャンでもあるのか?」
「潰すぞ人間。あまり調子に乗るんじゃねぇ」
「しかし、そんなトリック、映画の中でくらいしか見たことがないのだが」
私がそう言うと、とうとう彼はキレた。
「いいか人間ッ!! とっとと現実見や《・》がれってんだよ! テメェはなーー」
彼が何かを言いそうになった時、おっさんが口を滑り込ませてきた。
「ちょ、スィズさん! それ以上はダメですって! バレたらクビですよ!」
「…………」
「…………」
少々の沈黙が訪れた。
コスプレおじさんとおっさんは、しばらく見つめ合う。
なるほど、なかなかに汚い光景だ。
「…………チッ。わぁったよ、俺も消えてぇわけじゃねーからな。ちったあ冷静になってやる」
「そうですよ、スィズさん。ちょっと前に謹慎処分くらったばかりなんですかグエぺっ!?」
そして、素晴らしい腹パンがばちこりと決まった。
「おいテメェそれ以上何も言うんじゃねぇ」
「うぐ、ずびまぜん……」
「あー、ったくよ、もういいわ、興醒めだ、俺はもう帰る」
そう言って、コスプレおじさんは店のドアへ歩いて行った。
そして、店のドアノブへ手を置き、チラとこちらを振り返って一言。
「おい、人間。お前の義務を果たせ。嬢ちゃん守ってやれ。俺にはそれしか言えん。」
ガチャとドアを開け、彼は帰って行った。
「あ、ありがとうございました〜、ゴホッ」
ひらひらと手を振った床に撃沈おじさんは、ゆっくりと立ち上がり、私たちのところへやって来た。
「ああ、とんだ災難だ。お前ら、もう帰れ、いいな。金はいらねぇから。元々お前らが来ては行けねぇとこなんだよここは」
「わかった。私たちは帰ることにする」
「わかったならとっとと行け、スィズさんが言った通り、お嬢さんを守ってやるんだぞ、いいな」
「それは一体どう言う意味なんだ」
「ごちゃごちゃ言うな。それしか言ねぇんだよ阿呆」
「ごちゃごちゃと言っても、私は既にこの子を保護している立場だ。そこら辺は弁えているが……」
「だったらその責任を果たすだけでいい。さっさと帰れ」
私が続けて何か言おうとしたら、遮られた。
「わかった、飲み物ありがとう」
「はいよ」
私は立ち上がり、だるま少女に声をかける。
「ほら、行くぞ」
「うん」
何やら、少女の表情が強張っているようだ。
それはそうか、かなり頭のおかしい大人に囲まれていればそうなるのも納得だ。
「失礼なこと考えてんじゃねぇよ!!」
「ああ、これは失敬」
「うるせぇわ」
「あとひとつお願いがあるんだが」
「んだよ、さっさと帰れってんだろ」
「そうだが……私たちは、実は……迷子なんだ」
〜 〜 〜
「これは驚いたな、ドアを開ければそこは大通りであった、か」
後ろを振り返ると。私たちが通ったドアがなくなり、なんの変哲もないビルの壁が聳え立っていた。
そして正面を見れば、人人人。人の海。
「どんなトリックなのだろうか、何も感じられなかったが……」
「あの」
クイっと服の端を引っ張られ、私は少女を見下ろした。
「どうした」
「あの、わたし……あれ、なんだっけ、ううん、やっぱなんでもないかもです」
「なんでもないかもですか」
「うん」
「はあ」
そしてしばらくその状態で沈黙が続いたが、すぐに私はしなければいけない事に気がついた。
「ああ、そうだ、交番へ行かなければならないな」
「うん」
「では行くぞ」
「うん」
そうして私たちは歩みをすすめーー。
「ーーどうした、止まっていてはいつまで経っても着かないぞ。さ、行こう」
「……て」
少女が俯きがちに口を開いた。
「て?」
「……て、つないでください」
そのか細い声に、私は少々驚いた。さっきまであんなに元気であったのに。
やはりおっさんは、小さな子に合わせてはいけない生物なのかもしれない。
「……え、あ、ああ、わかった」
そして私が左手を差し出すと、少女は右手を伸ばしてきた。
一瞬、互いの指先が触れ合い、間もなく、私たちの手は繋がれた。
そうして私たちは、手を繋いで歩き出す。
ーー少女の手は、やはり若干強張っていた。
〜 〜 〜
人混みの酷い大通りを道なりに進んでいると、すぐに交番が見えてきた。
「三谷警察署、遅分交番、か」
「みつや? ちぶん? なにそれ」
「お巡りさんがいらっしゃるところだ。私たちの目的地。ちなみに美味しくはない」
「そうか、そうか、よくやったぞ、だいがくせー」
「ああ、大変に時間がかかったが、ようやくたどり着けた」
「たなんでしたな」
「ああ、多難であった」
そうして私たちは互いに視線を交錯させーー。
「「ーーでは、参(まい)る」」
ーーガラガララ。
「お、どうぞこちらへ……ってなんだ? 自首か?」
「いきなり失礼な」
入ってそうそう、若い警官がそう言ってきたものだから、私はとても驚いた。なんだこいつ。
「いや、だって小さい子の手を握ってきたものだから……見たところ、兄妹でもないようだし」
「たいへん失礼な」
流石に憤慨する私であるが、一応サッと手は離しておいた。
「怪しさMAXだぞ、あんた」
「勘弁してくれ、私はこの迷子を連れてきただけなのだ」
「ん? このだるまっ子、迷子なのか」
そう言って、若い警官は机から身を乗り出して、少女を見つめた。
「きみ、この人になにかされてない? 大丈夫かい?」
「うん、だいがくせーはやさしいひとでした」
そう言って遠い目になる少女。
「おい、私は死んでないぞ」
「そうでした」
こやつ、元気になってきたな。
「……ん〜、まあ、大丈夫そうかな」
私たちのやりとりを見て、一応、警官の疑いは晴れたらしい。
「で、その子、迷子なんだっけ?」
「ああ、そうだ。そして私はスマホをなくした者だ」
「ええ、あんたもなにかあるのか」
「そうだ、何か文句あるか」
「ないよ、じゃあ、まずはあんたから対応するから。だるまっ子はそこの椅子座っといてね」
「うん」
そう言って少女は、近くの椅子にポテッと座った。
「んで、あんた、失くしたのはいつ?」
「つい2、3時間ほど前」
「そのスマホの特徴は」
「灰色の生地で黒のラインが一本入っている、かなり汚いヨレヨレのスマホケース。林檎社が出している正規品だ」
「ふむ、それじゃ、ちょっと待っててくれ、ちょいと確認して来る」
そうして、警官は何やらガサゴソと動き始めた。
私はそれを横目に、少女の方を向いた。
「ぬぬぬん」
なんか言っていた。
「お、これじゃあないか?」
間も無く、警官がそれらしいスマホを持ってきた。
「どれ……おお、これだ。これこれ……おや、随分とヒビが割れている……というかなんだこれ、埃まみれじゃないか。どんな管理してるんだ」
「心外だな、預かるものはしっかり管理しているぞ」
「いや、にしても、さっき落とした割には、長い間使ってないような感じだが」
「文句言うな、あっただけよかったろ。ほら、電源入れて確認してみろ」
なんだこの警官。若いくせに随分と雑な対応だな。若いくせに。
だが、確認しなければ話は進まない。私は渋々スマホの画面にパスコードを入力してホーム画面を開き、何となく写真アルバムを開いてーー。
ーーぴたと、指が止まる。
おかしい、これはおかしいぞ。
「ん? どうした」
警官は何事かとこちらを見ている。
「おかしい、なぜか、なぜかさっき撮った駅の写真がなくなって、いや、これは……」
ーー私のスマホからは、去年の12月25日からのデータが一切消えていた。
「なんだなんだ」
「私のスマホが一年前にもどってる」
「何言ってんだ」
警官が怪訝な表情を浮かべながら、そう言った。
「だから、私のスマホのデータが一年間分全て消えているんだ」
「はあ? よくわからんが、これはあんたの物で間違いないんだな?」
「え、ああ。そうだ、そうだが……」
「じゃあほら、こっちきて書類あるから……っておい、なんかそのスマホ光りすぎじゃあないか?」
そう言って警官が私のスマホを指さしてきた。
「え?」
私がすぐさまスマホを見ると、明かにスマホ画面が白い光を発し始めた。
「おお、おおおおいおいおい」
「なな、ななななんなんだ」
その光はさらに強くなり、段々と周囲を白く染め上げーー。
ーーそして、交番内は真っ白い世界へと移り変わった。
〜 〜 〜
「ん、んんあ?」
「あの、君ぃ〜、そのスマホ、君のであってるんだよね?」
すぐ目の前でおじさんの声が聞こえた。若干心配そうな声色だ。
「ーーはっ、ここは」
「いや、あの、ここはって言われてもね、君、交番だよ交番、君、そのスマホ取りにきたんじゃないの?」
「え、いや、そうですけど、え?」
私はすぐに異変に気がついた。
ここは……ここは、先ほどいた交番ではない。
私の目の前にいるこの警官は、さっきの若い警官では決してないし、何より、私が手にしているスマホは、ヒビも割れてなければ、朝ついたコーヒーの染みも無い。
「君、どうかしたのかい? 交番は初めてだった?」
「い、いえ」
おじさん警官は、私の様子を見てかなり心配しているようだが、私の耳にはほとんど届いていなかった。
「だ、だだだ」
「え、なんだって?」
「だるまの少女がいない!!!」
「は?」
とんでもないことに気がついた。だるまの少女が居たはずの椅子から忽然と姿を消していたのだ。
私は警官が何か話しかけて来るのを無視して、すぐさま交番を飛び出した。
「あ、コラきみ!! 危ないよ走ったら!」
警官の静止する声を無視して、私は大通りを走り出す。
すると、すぐに目の前にだるまの少女が……だるまの、少女……?
そこには、なぜかごく普通の服を着た少女が、母親らしき人物と手を繋いで歩いていた。
もはや私の頭は混乱しすぎて、ほとんど思考する機能を捨てていた。
「おい、きみ、きみ!」
そして、私が話しかけようとしたその時、少女が唐突に母親から離れて駆け出した。
どうやら、抱えていただるまの人形を落としてしまったようだ。
だるまの人形はなぜかそのまま転がり続けて、そのまま交差点へ。
ーーそして、少女もそれを追いかけ、赤信号の交差点へとーー。
「きみ、きみっ! 危ないっ!!」
少女の名前を必死に呼びながら追いかけようとする母親を押し退け、私は少女の元へ駆け出した。
しかし、既に視界の隅で大型トラックが迫ってきていた。
このままでは2人とも轢かれてしまうかもしれないが、最早私には考えている余地などありはしなかった。
少女の背に手を伸ばし、私はドンっと、ありったけの力を込めてその小さな背を押し込む。
あまりに軽い少女は、そのまま衝撃に押し流されーー。
一瞬、少女と私の視線が交錯した。
この瞬間、現実の時間はゆっくりと動いていた。
あの時、コスプレおじさん、いや、あの悪魔が言っていたことはこのことであったか。
あのモノたちにはこうなる未来が見え……いや、あるべき過去が見えていたのか。
目の前にいる少女と、転がるだるまの影が重なり、一瞬、見たことのある少女の姿が見えた。
この瞬間、私の脳内にはこの少女と会った時からの出来事が次々と思い出されていた。
そしてーー。
「君は、生きろ」
凄まじい衝撃が身体中を走り、全てがブラックアウトした。
ーーだいがくせーは、やさしいな
そんな少女の声が、聞こえた気がした。
〜 〜 〜
この感覚はなんなのだろうか。ゆらゆらと海中に漂っているかのような感覚だ。
とても心地がいい。
「ふーん、キミはやっぱりその選択をするんだね」
意識に直接語りかけて来るような声が聞こえた。
ーーなんだ、お前は。何を言っている。
「僕はキミ担当の神だよ」
ーーは、わけがわからん。
「折角、キミが死ぬ未来をを避けてやったというのに。世界はやはり強大だな。歪みを直そうとしてくる」
ーーいったい、なんの話だ。
「いいよ、教えてあげる」
そして私を担当する神とやらを自称するナニカが、語り始めた。
「僕はキミを担当する神。キミは僕に守られて今まで生きてきた。キミはね、1年前の今日、12月25日に交通事故で死ぬはずだったんだ」
ーーどういうことだ。
「キミが守ろうとしたあの子、だるまのあの子さ。今まさにキミが助けたあの子。本来ならキミが死ぬはずだった去年の12月25日に、キミが助かった代わりに死んだんだ」
ーーは。
「そう、さっき起きたことは、本来起きるはずだったことが起きただけさ。キミのスマホをトリガーに、世界がキミを過去へと押し戻したんだ」
ーーおい。
「なんだい」
ーーお前は、私を守る為にあの子を殺したというのか。
「そうだよ」
ーー何様だお前。
「神様だよ。キミ担当のね。なにか気に障ったかい?」
ーー腐れ外道のようだな貴様。
「え、なんでさ、僕はキミを生かそうとしただけなんだよ。担当の神として当然じゃないか」
ーーふざけるな、あるべき運命を捻じ曲げていいはずがない。
「はあ? なに一丁前に語っちゃってんの。キミは神もなにも非現実を信じた試しがないくせに。なに運命とか言っちゃってんの。なんなの。僕は助けてやっただけなのに」
ーーああ、そうだ、私は基本、神も悪魔も魔法も信じない。だが、運命は信じている。
「何言ってんだか、こっちが聞きたいよ。オマエも他と同じ人間なら、せいぜい生にしがみ付いて僕を崇めてればいいだろ。ありがたく思えよ」
ーー思わん。
「……テメェ、僕は神様だぞ!! オマエを助けた! 神だ! 今すぐにオマエを冥界へ連れていって、二度と出れないようにすることもできるんだぞ!」
ーーいいだろう、好きにするがいい。それであの子が生きる世界が守られるならいい。
「クソが!! テメェ自分で何言ってんのかわかってるのか? ああもう、いい! さっさと俺を肯定しろ! 早く、早く!!!」
ーーしてやるもんか、悪魔め。あのおっさん達の方が遥かに紳士だった。
「ねえ、頼むよ、き、キミが肯定してくれないとさ、僕が、き、きき消えちゃうんだよ世界を変えちゃった罰でさ、ね、ね、僕も悪気があったわけじゃないんだ、だからさ」
知ったことか。私は貴様をーー。
「ダメ、ダメダメやめてやめてやめて」
ーー断固、否定する。
「あっ、あれおかしいななんでなんでなんでなんでなななななななんああんああああああああああ?」
ーーピシッ。
どこかで何かがひび割れたかのような音がした。
ーーピシピシピシッ。
……プツッーー。
〜 〜 〜
ーーあれ、ここどこ、わたしは……?
「お、目覚めたかい、嬢ちゃん」
ーー??
「なあに、心配するこたぁない。悪い神はあの兄ちゃんがやっつけてくれたさ」
ーーにいちゃん?
「そうだ。嬢ちゃん、俺のこと覚えてるかい? あのバーに来てた客だ。スィズだ」
ーーあ、あ、あのこわいひと……。
「ガハハ、そうだな、嬢ちゃんにとっちゃ怖い人同然だな」
ーーだいがくせーは? だいがくせーはどこなの。
「お、そうだったそうだった。あの人間の兄ちゃんのことだが、無事、過去に戻って世界を修正してくれたさ。嬢ちゃんを救ってな」
ーーどうゆうことなの、だいがくせー、わたしをすくったの?
「ああそうだ、全くなゴミ人間かと思ったが、そうじゃあなかったようだな。世界の掟に従い過去に戻って、嬢ちゃんを救ったのさ。今、ここは二つの世界線が交差する特異点だ」
ーーねえ、だいがくせーはどうなるの。
「あー、まあなんだ、あいつは死ぬことになるな。だが、これは正しい運命なんだ。嬢ちゃんが案ずることはねぇさ」
ーーやだ。
「ああん? どうした嬢ちゃん。何か気に食わないか」
ーーだいがくせー死ぬのやだ。だいがくせーはやさしいんだ。だいがくせーが死ぬなら、わたしがまもる。
「……嬢ちゃん……でもな、こりゃ世界の法則なんだ。そいつを歪ませた悪い奴がいなけりゃ、今の嬢ちゃんも存在してねぇし、兄ちゃんとも話してないんだぞ。それに……母ちゃんとも離れ離れにならないで済むんだぞ、これで」
ーーいやだ、わたし、だいがくせー死なせたくない。やだよ、やだよ。
「はぁ……やっとここまで来たってのに……わかった。まずは俺の話を聞け」
ーー……うん。
「俺はお前を担当する神だ。いや、だった。だが、一年前のあの日、兄ちゃんの担当神が悪さをして、嬢ちゃんを殺してしまった……。世界は掟に従い、嬢ちゃんを暫定神として1年後の同じ日、今日の12月25日に召喚したんだ。世界の歪みを修復させる為にな」
ーーうん。
「嬢ちゃんを死なせちまったおかげで、俺は謹慎処分になって悪魔区分の仲間入り。修復が始まるまでの1年を悶々《もんもん》として過ごしてきた。そして、やっと辿り着いた今日の12月25日、出会ったあの兄ちゃん、あいつは神を信じず現実を見ない、あの腐れ外道神と同じ臭いがしたんだが……。そうではなかったようだな」
ーーだいがくせーは、やさしいよ。
「ああ、そうだな……。で、嬢ちゃんは兄ちゃんを死なせたくはないんだな?」
ーーうん、死なせたくない。わたしが、いちねんまえに死んじゃったってゆうのも、じじつ。
「…………」
ーーでも、そのおかげで、やさしいだいがくせーに会えた。あんなたのしい気持ちになったのは、はじめてだったかも。
「……嬢ちゃん」
ーーうん。
「兄ちゃんを救いたいのか」
ーーうん。
「……そうか、わかった」
ーーわたし、だいがくせーといっしょにいたい。
「……わかった。嬢ちゃん、1つだけ道がある。教える前に言っておくが、嬢ちゃんは死ぬぞ」
ーーわかった。
「じゃあ、まずはーー」
〜 〜 〜
ハッとして目が覚めた。
目の前には見慣れた天井が広がっていた。
私は、私はどうなったのだろうか、長い夢を見ていた気がするが……。
ふと隣を見ると、日付は12月26日に変わっていた。
「んあ? 丸一日寝ていたのか? ああ、まずい、昨日の用事をすっぽかしてしまったか……」
そう独り言ちた途端、私に昨日の記憶が蘇った。
「……あの子は、あの子はどこにっ!! 助かったのか!? どこだ、どこだっ……!!」
私が落ち着きを失ったその時、私の起き上がってベッドのすぐ隣で声がした。
「わたしはここだす〜〜」
「!?」
振り向くと、なんと、だるまの少女がベッドの端で
に両肘を付き、ニッコニコとこちらを見ているではないか。
「な、な、なななんっ!?」
「えへへ、わたし、死んじゃったみたいだす〜〜」
「は、はぁ!?」
何を言っているんだこの子は。
「あのね、あのね、わたしはだいがくせーが好きなので、神さまになってだいがくせーを生きかえらせたのであーる」
「えぇ……」
ーーそう、あの時、だるま少女は、スィズに従って、世界と盟約を誓った。
『我、世界の掟に従い誓う。我、自らの死をもって世界の歪みを修正せんとす。我、暫定神より真の神となり、今は神なき人間を守らんとす』
ーーこうして少女は真の神となり、1人のしがない大学生の担当神として、彼と共に居るという願いを叶えたのであった。
「マジですか」
「マジですです」
「はぁ……理解がほとんどできないが、つまりそういうことなのだな。君がここにいるというのが現実なのだな」
「です〜。だから〜、だいがくせーはだいがくせーで〜」
「……ああ。そして君はーー」
「そう! わたしは、神さま、ですっ!!」
〜 〜 〜
後日、私は飲み会の約束をぶっちしたことを謝して、改めて3人で先輩宅にて飲み会を執り行った。
「へぇ〜、そんなことがあったのか」
頬をかなり赤らめた紺野先輩が、12月25日起きた私の話を聞いて、適当に相槌を打った。
「そうなんです。私としても物凄く不思議な体験でありました」
「お前さん、お前さん」
急に菊池が話に割り込んできた。
「なんだ、チンパン」
「あー、えっとだな」
こいつ、すっかりチンパン呼びに慣れやがったな。
「なんだ早く言え。時間は有限だ」
「俺には、お前さんに頭の病院を進めるという選択肢が過ぎっているんだが」
なんと失礼な。
「黙りたまえ、元よりお前に信じさせようとは思っていない」
「いや、誰も信じねぇよ、あの、あそこでムシャムシャとキャベツ喰ってるあの子が、神だって?」
そう言って私たちが視線を向けるそこには、だるまの少女が、先輩が用意したキャベツにマヨネーズを大量にかけた物をむさぼっていた。
「うまうまうま」
うまうまらしい。
「だってなぁ、あんな子、神って言うより、もはやだるま人形じゃねーか」
菊池がそう言い、紺野先輩が同意する。
「ははっ、違いねー」
「ああ、もういい、信じる信じないはどうでもいい」
ーー今日は1月3日。あれから9日が経った。
あれから私の生活はまるで変わった。
ずっと私のそばについてまわる少女は、相変わらず神に似つかわしくない行動を取るし、私はコーヒーに砂糖とミルクを入れなくなった。
まあ、だが、これでいいのだ。
少女が幸せで、私も今、幸せを感じている。
それが今目の前にある現実で、事実、人生それだけで十分なのだ。
この話の元となったプロットの日付けを見ると、2017年の12月26日でした。
当時僕は、現役の大学受験生。日々の勉強が忙しくて、どうしても物語を書いている暇がなく、電車に乗ってるときやトイレにいるときに、コツコツと色んなプロットを書き溜めていました。
その年の12月25日は、新宿予備校へ行っていました。世間はクリスマスムード真っ盛りで、仲睦まじく歩く男女の姿が散見され、西武新宿駅前のドンキで外人はヒャッフーしていました。
そんな中僕は参考書片手にテクテクと鼻頭を赤く染めながら歩いていました。
そして、大学受験に続いて合格発表。
僕は全て落ちていました。
そりゃそうか。気もそぞろにメモアプリなんか開いて妄想を書き留める。
現実逃避そのものじゃないか。
そうして当時の僕は、浪人決定と共に全てのプロットを消去したのです。
浪人、受験、大学進学を経て、僕は今ここにいます。
大好きな物語を書きながら。
この物語のプロットだけが何故か残っていたのは、もしかしたら僕担当の神が選りすぐりの物をとっておいてくれたんでしょうね。
ありがとう、当時の僕。