菜奈子の海
第五回 旅の一幕企画参加作品です。
「臭い。変なにおいがする」
菜奈子がそう言うと、両親が笑った。
「ふふふ。潮風よ」
「しおかぜ?」
「そう。海の匂いだ」
菜奈子が立ち止まると、菜奈子の手を引いていた両親も立ち止まった。
菜奈子は鼻から大きく息を吸い込んだ。
ねっとりと湿った生臭い空気が菜奈子の鼻を突いた。
「やっぱり臭い」
海は、大きくて深い水たまりみたいなものだと聞いていた。菜奈子の住む日本という国もアメリカや他の外国も全部、その水たまりの中にあるのだと教えてもらった。普通の水たまりは、晴れの日が続くと消えてなくなってしまうけれど、海はどんなに晴れてもなくなることはないらしい。
ザー、ザーとゆっくりとしたリズムで音が聞こえる。
「波の音ね」と母が教えてくれた。
波の音は、父の声のトーンに似ていて、耳に心地よかった。でも潮風は臭くて嫌いだ。
父が「週末は海に行こうか」と言ったとき、菜奈子は文字通り飛び跳ねて喜んだ。菜奈子にとって、海は不思議な存在で、魔法の水たまりのように思っていた。けれど潮風の匂いを嗅いだ瞬間、魔法はあっけなく解けてしまった。キラキラと光り輝いていた海のイメージが、今では泥まじりの汚い、ベチャベチャした水たまりにすり替わってしまった。
「すぐに慣れるさ」
父が、顔をしかめている菜奈子の頭を優しくぽんぽんと叩いた。
「裸足で砂浜を歩いてごらん」
穏やかな声で父が言った。
菜奈子は踵同士を当てて、右足のサンダルを脱いだ。両親の手をぎゅっと握りしめ、足をおろした。
「熱ッ!」
サンダル越しではわからなかった熱気が足の裏を襲って、菜奈子は慌てて片足立ちをした。
「大丈夫。そんなに熱くないわよ」
母に言われて、菜奈子はもう一度足を着けてみた。さっきは温度差に驚いたけれど、確かにそれほど熱くはなかった。海の砂は公園の砂場の砂と違って、きめが細かい。その砂に足をうずめると、じんわりと温かくて気持ちよかった。
五月の下旬。夏がやってくるには、まだ少し時間があった。夏になると砂浜は焼けるように熱くなるらしい。そして海も砂浜も海水浴客であふれかえるのだと母は言った。
こんな生臭い水の中に入りたいと思う人たちがいるなんて、菜奈子には信じられなかった。
「ママ、サンダルをお願い」
父は脱ぎ捨てたサンダルを母に託すと、菜奈子の手を引いた。
「波打ち際まで行ってみよう」
さらさらしていた砂が急に湿り気を帯びて固くなった。
「来るよ!」
瞬間、菜奈子の足元を心地よい冷たさの海水がさーっと駆け抜けた。程なく、返す波が菜奈子の足首をさらりと撫で、足の回りの砂を少しさらっていった。菜奈子は、濡れた砂浜に少し足が沈み込んだような感覚になった。
「また来るぞ」
ぞくぞくした。もう潮風の匂いは気にならなくなっていた。
「パパ、海は青いの?」
父が答えるまで、少し間があった。
「うん、青いよ」
泥まじりの水たまりのようなイメージだった海が今では鮮やかな青い色の水をたたえている。父が即答しなかった理由を考えていたら、海のところどころが光を放ち始めて、青とは言い難い部分ができた。
菜奈子は四歳のときに病気で視力を失った。はじめは見えないことが怖かった。でも次第にその恐怖は和らいでいった。失明して半年が過ぎた。見えないことで不便に感じることは今でもたくさんあるけれど、怖いという感覚はもうほとんどない。耳をすませば、いつでも母の存在を感じることができたし、父も菜奈子が失明する以前よりも菜奈子の傍にいることが多くなった。
「パパは仕事人間を辞めたのよ」
父は朝に仕事に出かけていって、夕方過ぎに帰ってくる。仕事人間を辞めたという母の言葉の意味はよくわからなかったけれど、週末によく家族で出かけるようになった。それが仕事人間を辞めたということなのかもしれないと菜奈子は解釈していた。
「お空から聞こえる音はなに?」
彼方からギーヨ、ギーヨ、ギャッギャッギャという不思議な音が聞こえた。
「カモメだね。鳥だよ」
菜奈子の世界は、四歳までに見たもので形作られていた。カモメを知らない菜奈子は、知っている鳥の姿を当てはめる。鳴き声から雀よりも大きな鳥を推測して、カラスを思い浮かべた。でも青い海と空に、黒いカラスは似合わない。すると、カラスは黄色くなって、ギーヨギーヨと鳴き始めた。返す波がぴちゃぴちゃと音を立てていて、なんだかカモメと会話をしているように思えて、菜奈子は楽しくなった。
「パパ! あたし、海大好き」
父は、髪の毛がくしゃくしゃになるくらい強く、菜奈子の頭を撫でた。
「ジュースあるよ。戻っておいでー!」
母の声に「はーい」と返事をして、菜奈子は母の声のしたほうへ父の手を引いた。
菜奈子は、繋いだ手から父が笑顔でいることを感じ取った。「ほら、はやくー」と言う母は、幸せいっぱいに微笑んでいる。両親の笑顔だけは、今でも見えるような気がするのだ。
回を重ねるごとに提出が怖くなっていく。本当に巧みな参加者が多いので、自分の作品がものすごく見劣りするんじゃないかって不安にいつも駆られる。
自分の文章を客観視するのって、本当に難しい。これはなかなかいいんじゃないかと書いてて思っていても、翌日読み返してみたら、なんだこれは……と絶望することもあるし、ダメだ、ダメだと思いながら書き連ねていても、時間を置いて読み返してみると案外悪くないように思えたり。
今回のお題は特に苦しかった。前回のサヨナラ相棒企画のほうが時間はかかった気がするけど(というか、今回は取り掛かるのが遅かったからかもしれないけど)、基本的に旅行好きではないし、そもそも出不精だし、きれいな話を書くしかないっていうプレッシャーがきつくて。もちろん、きれいな話しか書いてはいけない決まりはないし、そう感じてしまうのは、貧困な発想力のせいなのだけれど。
さて、この話、終盤まで見えないということは伏せて書こうと決めた。視覚描写がないので、勘のいい人ならすぐに気づいたかもしれないけど、こういうトリックを用いることができるのが、文字だけで表現する小説というものの面白さかなぁと思う。
普段、それほど五感を研ぎ澄まして生活していないので、非常に表現に困った。本当に海の砂は、公園の砂よりもきめが細かかったか思い出せない。返す波が砂をさらって、足が沈み込む感覚があったか定かではないし、ピチャピチャと飛沫の音が聞こえていたかも記憶にない。ただ潮風が臭いのだけは間違いない。嫌いではないけどね。