ショートショート022 やまびこ
一組の夫婦が、ぜいぜいと息を切らして登ってきた。着いた先は、たくさんの人でにぎわっていた。
男が言った。
「着いたぞ」
「ああ、しんどかった。どうしてこんな思いをしないといけないのかしら」
「儀式みたいなものだよ。しんどい思いをした分だけ、爽快感が増すってものさ」
「何それ。しんどいよりも楽なほうがいいに決まってるじゃない。ぜんぜん分からないんだけど」
女は納得がいかないというふうに首をひねったが、すぐに切り替えた。
「まあ、別にいいわ。それで、ここが例の場所なのね」
「ああ。大声で叫ぶと、きれいなやまびこが返ってくるんだとさ」
「やまびこねえ。漫画とか小説とか、そういうのでたまに出てくるけど、そういえば実際にやってみたことはないわね」
「そりゃそうだろう。日常生活の中でそんなことをやるわけもないのだし」
「それもそうね」
「だからこそ、俺もここが気になったんだ。それでちょっと調べてみたんだが、叫び声が山に何度も反射して、自分のところまではねかえって来ると、そういう理屈らしい」
「そうなの。考えたこともなかったわ」
そうこうしているうちに、先客が去っていったので、夫婦はそこに入った。
柵の前まで来て、男が言った。
「このへんでいいか」
「いい景色ねえ。あっ、ほら見て、あそこ。少し先が、がけになってる。この先には行くなってことね」
「そういうことだな。じゃあ、お前からやっていいぞ」
「こういうときって、男の人が先にやるものじゃないの」
「レディファーストだ」
「普段はそんなこと言わないのに、ずるい人。ま、いいわ。えっと、そうね、わーい」
女は叫んでみたが、やまびこはいっこうに返ってこなかった。
「ぜんぜん聞こえないわよ」
「声が小さいんじゃないのか」
「ああ、そっか。大声なんて慣れてないから、加減が分からなかったわ。それに、ちょっと恥ずかしいし」
「せっかく来たのに、恥ずかしがってやらなかったら意味がないじゃないか。それから、こういうときは、わーい、じゃなくて、やっほー、と言うもんだ」
「そういうものなの」
女は首をかしげつつも、深く息を吸って、さっきよりもずっと大きな声で、やっほー、と叫んでみた。
少しして、やっほー、という声が返ってきた。その声は、徐々に小さくなりながら、何度も繰り返し響いた。
「今のは何かしら。何度も聞こえたけど」
「こだまだよ。山の間で、何度も何度も音が反射する。その一部が、タイミングがずれてここまで届くんだ」
「ものしりなのね」
「調べたからな」
「なんだ、つまらない」
「じゃあ、俺もやってみるとするか。いくぞ。おーい」
男はかなりの大声を出してそう叫び、やまびこもちゃんと返ってきた。
「やっほー、じゃなかったの」
「男が、やっほー、なんてかわいいこと言えるか」
「時代錯誤的ね。差別よ、それ」
「ふん。大声を出すのはかまわないが、やっほー、は恥ずかしいんだよ」
「わからないわ」
「とにかく、そういうものなんだよ。さ、そろそろ戻ろうか」
「もう帰るの」
「やまびこというものがどんなものか、知りたかっただけだからな。まさか、ここまでしんどい思いをすることになるとは思わなかったが」
「やっぱり帰りもしんどいのかしら」
「いや。帰りはエレベーターで一階まで戻れるみたいだ」
「よかった。あんなにしんどいのは一度で十分だもの」
夫婦は個室を出てエレベーターに乗り込み、一階まで降りた。
ビルを出て、駐機場に停めておいた自家用機に乗り込む。男が操縦席に座り、女は助手席に腰を下ろす。
徐々に高度を上げていく機内で、女はふと疑問に思い、男に聞いてみた。
「昔の人はみんな、やまびこを経験していたのかしら」
「どうだろう。山に登ったときにやる慣例のようなものだったらしいが、都会でもたまに聞こえることがあったらしい」
「そうなの。でもわたし、やまびこなんて街中で聞いたことはないわよ」
「騒音中和システムが整っているからな」
「ああ、そういうこと。けれど、街中でも聞こえただなんて、うるさくはなかったのかしら」
「案外、気にもならなかったんじゃないかな。別に、ずっと聞こえ続けるわけでもなかったのだろうし」
「それもそうね」
女は納得して頷いたが、すぐにまた新たな疑問が出て、また男にたずねた。
「それにしても、ずいぶん繁盛していたわね。どうして人気なのかしら。行きはわざわざ階段で十階まで登らないといけないし、山や景色もただの映像。やまびこだって、私たちが出した声を、コンピュータが解析して流しているだけなんでしょう」
「たぶん、ノスタルジィを感じているんだろう。俺もそうさ。しんどい思いをして山に登り、疲れ切った状態で大声を出してみたら、やまびこが返ってくる。今ではできない経験だからな。今ではもうできないことだが、昔は当たり前のことだった。そういうものに憧れを持つ人は、けっこう多いんじゃないかな」
男はそう言ってから、ふと、何とも言えない寂しさのようなものを感じた。
高度をどんどん上げ、何かを探すように視線を動かす。
しかし、何も見つかりはしなかった。
かなり前、人口が爆発的に増えたころ、山は全て崩されて平地になった。
山なんて、もうこの地球上には、ひとつも残ってはいないのだ。
男は小さくため息をついて高度を戻し、自家用機の進路を修正して、自宅へと帰っていった。
はるか下の方に、延々と立ち並んでいるビルの群れ。
かつて、この国の霊峰がそびえていたという土地に建てられたビルの、その一室へ。