21話 トイレの掃除
トイレ掃除回です。
かなり化学的な話にまとめたので、不潔だとかそういう感じはないですが、一応食事中の方はご注意ください。
当然だがこの世界にもトイレはある。ただし、日本のトイレほどの高性能さを求めてはいけない。
まず、下水道がちゃんと完備されていない。街の中心を突っ切る川から用水路を引いて、それを下水道の代わりにしている。
文字であらわすなら、「Φ」だ。真ん中の棒が川、そこから用水路が2本飛び出し、また元の川の下流で合流する形だ。
この近くにある建物なら、用水路に直結したトイレが併設されていることが多いのだが、それ以外の場所ではトイレがないみたいだ。
その代わりに、一定の間隔で公衆トイレが置かれている。ドアの前に監視員がいて、その人に利用許可証を見せるか金を払ってトイレを利用するシステムのようだ。
利用許可証は有料だが、毎回金払うよりははるかに安くつくみたいで、自宅にトイレがない人はおそらく全員トイレ利用許可証を持っているのだろう。
時として、中身が絶対にこぼれないように、口を堅く、ものすごく堅く締めた耐水紙袋を持って公衆トイレに入る人もいるが……そういうことなのだろうか。
それはそれとして、この孤児院は立地条件がいいのか、施設の中にちゃんとトイレがある。洋式のものが2つだ。
話を聞くと、孤児院でなにかいたずらをするなどの問題を起こすと、罰として便器を磨くらしい。
個人的な意見としては、トイレ掃除を罰として用いるのはどうなんだと思うが。掃除は自分の意志でするものだろう。むりやりさせられる掃除ほど楽しくないものはない。
でも、一応はそのルールのおかげで便器の方は割ときれいみたいだ。一方で、床までは掃除の範囲に指定されていなかったらしい。便器のまわりに汚れが目立つ。
「最後にトイレの床をキレイにしたのっていつだっけ?」
「しらなーい」
「オレも」
毎日使うところなんだから、もっと快適な環境にしようぜ。
床はタイル。とんでもなく汚れているというわけではないが……黄ばんでいるのがわかる。それなりの期間、掃除されていないことがうかがえた。
でもまあ、この程度は楽勝でしょ。ゴミ屋敷や巣ごもり亭の掃除を乗り越えた俺にとっては、こんなものカナブンみたいなもんだ。
まずは、普通の掃除機モードでトイレ内を走り回り、土ぼこりを吸い取っておく。
あらかたホコリを吸い込み終えたので、機能から[酸性洗剤]を選択して、床に向けて注いだ。
先ほど『トイレがない家もある』という記述をした後で申し訳ないが、ウチの宿屋には普通にトイレがある。宿屋としてトイレがないというのはかなりのマイナスポイントになりそうだから、さもありなんだが。
そのトイレの床掃除も、現在は俺の仕事になっている。当然ながら、それに関連した新機能はすでに取得済みだった。
酸性洗剤を床にまいて、水拭きをする様子を見ていた子供たちだったが、床の変化にびっくりすると同時に、そのうちの一人がおねえさんの方へと駆け出して、大声で報告をしだした。
「おねえちゃん!すごいよ!床が白くなってるよ!」
「そりゃ、ウチのトイレの床は始めから白いでしょ」
「そうじゃないよ、もっと白くなってんの!見にきてよ!」
「何言っているのかわからないけど、見まちがえたんじゃないですか?おっと、火を強めすぎました」
「まちがってないもん!」
そうだな、間違ってないよな。あと何してんだおねえさん?
酸性洗剤を塗り広げるように水拭きをすると、黄ばみがきれいに消えて、くすんでいたタイルの本来の輝きが再現されていく。
油汚れほど頑固じゃないし、範囲もかなり狭い。ほんの10~20分で終わりそうな仕事だな。
需要があるか不明だけど、今回の掃除についても説明しよう。
前回の油汚れは、アルカリ性の水によって、油が水に溶けるように変化させたことで掃除することができた。
だけど、今回は真逆だ。酸性の洗剤を使わせてもらう。
トイレの黄ばみの主成分は、尿石という物質で、化学的にはシュウ酸カルシウムという。尿の中にほんの少し含まれているのだ。
どれぐらい少しかっていうと、どんなに多くても、尿1リットルに対してシュウ酸カルシウムが10mgあるかどうかってレベルで少ない。
で、例えば男が立った状態で洋式便器に用を足そうとすると、床にけっこうな尿が飛び散る。どこかの実験では、一回の排泄で100滴とか1000滴とかの尿ハネが生じるみたいな結果が出ていた。
その尿ハネが蒸発することにより、尿石だけが床に残る。1回だけなら本当にごくわずかな量しかないのだが、長年続くと大量のシュウ酸カルシウムがトイレの床にたまって、これが黄ばみの原因となるのだ。
この尿石も水に溶けないので、やはり水拭きで落とすのは難しい。
ここは前回と同じように、尿石を水に溶ける物質に変化させたい。そして、その手段に対する一つの答えが「酸性」だ。
ここでは、塩酸を使って話を進めよう。塩酸の中に尿石(シュウ酸カルシウム)を入れると、酸性の力によって「シュウ酸」と「塩化カルシウム」に変わる。そのどちらもがかなり水に溶けやすい。
水に溶けやすい物質は、簡単に水ぶきで落とせるのは以前説明した通りだ。
ゆえに、トイレの黄ばみに塩酸を作用させると、黄ばみを簡単に水ぶきで落とせるようになる。
まとめると、トイレの床の黄ばみは、酸性の環境では水に溶けやすい物質に変化する。そのまま水拭きでふき取ることで、床がきれいになるのだ。
なお、尿石が分解された後でも、中性やアルカリ性になると尿石が復活するので、そこには注意。酸性洗剤が黄ばみを溶かしたら、素早くふき取っておきましょう。
ちなみに、これは掃除とは全く関係のないトリビアだが、尿路結石もシュウ酸カルシウムでできていることが多い。そして、尿を酸性にすることで尿路結石を溶かすという治療法がある。
トイレの黄ばみ掃除と尿路結石の治療。一見あまり関係がないように思えるけど、その根底にあるメカニズムが似ているって、面白くないだろうか?
そんなことを考えている間に、床を覆っていた汚らしい黄ばみは見事に消え去り、まるでタイルが貼られたばかりの頃にタイムスリップしたかのような美しさを誇るトイレに生まれ変わった。
まあ、さすがにそれは言い過ぎだが。それでも、掃除前と比べて明らかに床が白くなったのは確かだ。
トイレの前に集まっていた子供たちも、「ありえねー!」「すげー!」を連呼して大はしゃぎしている。喜んでくれるのは嬉しいけど、語彙力をもうちょっとつけたほうがいいよ。
「あらあら、トイレ掃除は終わったみたいですねえええエエエェ!?」
あ、おねえさんが登場した。床が真っ白になったトイレを見て、奇妙な叫び声を上げている。
「こ、これは……タイルを削ったのですか!?なんてことをしてくれたのでしょう!?それ以外にこんなに白くする手法なんてあるわけないでしょう!」
「ここねえちゃん、ポルカはふつうに床をふいてただけだったよ」
「そうそう、けずってなんかいないよ」
「なん……です……って……」
おねえさんが驚愕のあまり、後ろにのけぞって危うく転びそうになった。この世界の住人は、オーバーリアクションをとることが多いな。最近ではもはや慣れてしまったが。
あと、なんでみんな「床に油を塗った」だの「床を丸ごと入れ替えた」だの「床を削った」だの、酷い想像をするんだろう。それだけ俺がこの世界の常識からかけ離れているのだろうか。かけ離れているんだろうなあ。
「ただ白くなっただけではありません……トイレにありがちな臭さまで非常に弱まっており、その代わりにさわやかな草花の香りまで漂ってきます。わたしの今までの掃除とは何だったんでしょう……」
ああ、そういえばラベンダーの香りの消臭剤をおまけしておいた。これも宿屋で普段から使っているものだ。俺の嗅覚ではその匂いを感じることはできないが、評判はかなりいいとはノエルの談である。
きれいになったトイレにしばし放心していたおねえさんだったが、しばらくしてハッと我に返り、子供たちに伝言を伝える。
「あ、そういえば。みんな、ごはんができましたよ。冷めないうちに食べましょう」
「「「「はーい!」」」」
そういうと、群がっていた子供たちはわらわらと廊下を戻っていった。
一人だけ、おねえさんが残り、俺に向かってお礼を言う。
「まさかここまでやってくれるとは思いませんでした。噂以上にすごい存在みたいですね。ありがとうございました」
それだけ言うと、片手に大きな紙袋を引っさげて、トイレに入っていく。
便器に向かって紙袋を傾けると、中から出てきたのは大量の灰だった。
いきなりの謎展開に、思わず「ポン♪」みたいな音を出してしまう。すると、おねえさんは何を言っているかもわからないだろうに、律儀にも説明してくれた。
「この孤児院は常に貧乏でしてね、役所からの補助金じゃ全然足りなくて、ごみの処分所としてもやっているんです。子供たちにゴミ分なんて仕事は本当はさせたくないのですが……」
ああ、最初に俺が思った「ゴミの処分場」という予想も正解だったわけか。
無秩序に混ざったゴミを、燃やせるものとか燃やせないものとかに分けるのが子供たち、燃やすのはこのおねえさんの役目って感じだろう。
灰になったゴミを全て入れ、近くの水がめから持ってきた水を注ぐことで、灰を全て下水道に流したおねえさん。この世界のゴミの処理法を、少しだけ学ぶことができた。
「今はお礼らしいお礼はできませんが、もし何かあったら、トスネ孤児院のみんなが力になります、今日は本当にありがとうございました」
「ピンポン♪」
「それじゃあ、外まで案内します」
おねえさんについていき、孤児院のドアを通って外に出る。
今回はいろいろと考えさせられたけど、一介の掃除機にできることなんて限られているのだ。できることをするしかない。
とりあえず、まだ少し時間があるから、火山灰の掃除をちょっとやってから帰るとしよう。
近くにある排水路から流れ出てきた灰を見つつ、まだ吸い取ってないゴミを探して街の中を再び走り回るのだった。
酸性の汚れにはアルカリ性洗剤、アルカリ性の汚れには酸性洗剤を使うことで、汚れが中和されて落としやすくなるという記述をそこかしこで見かけます。
この考え方は理解しやすいですが、完全に正解というわけでもないんです。
例えば、今回の黄ばみに関しては、塩酸を使えば落とせますが、硫酸を使って落とすことはできません(色が変化する可能性はありますが)
ゆえに、この話では、あえて「中和」という言葉は使わずに説明しています。その理由をより詳しく知りたい方は、「洗浄と洗剤の科学 より 洗浄の酸・アルカリ中和説」(http://www.detergent.jp/kaisetsu3/acidbase.html)をぜひ読んでいただくようお勧めします。




