15話 厨房の掃除
正直に言わせてもらおう。飲食店の床として、失格である。
なんなんだこのキッチンは、床なのか?それとも換気扇なのか?
仮にも食堂なのだから、衛生環境には気を付けなければいけないだろうに。
ルーカスのゴミ屋敷とはまた別の意味で酷い環境であった。不衛生という面では同じだが。
とにかく、頼まれたからには徹底的にやってやろうじゃないか。
もう一度新機能の一覧を開き、ゴミ10kgを消費することで[重曹]を取得する。
ぬるま湯に重曹を溶かして、その後はひたすら水拭きで床をこする作業だ。
経験したことがないほどガンコな汚れだが、それでも気合を入れてこすっていると、だんだんとその黒ずみが薄れていくのが目に見て取れるようになってきた。
よっしゃ、元の世界の掃除法は、異世界でも十分に通用するみたいだ。このまま一気に汚れをこそぎ落としてやろう。
ここで重曹が油汚れを落とすメカニズムでも説明しておこうか。
油汚れが水でこすっても落ちないのは、ざっくり説明すると油が水に溶けないからだ。
油性マジックと同じだ。水に全然溶けないものが表面にこびり付いている場合、水拭きで落とすことは難しい。
水性絵の具のように、水に溶けるものならば、簡単に水拭きで落ちるんだけどな。
この問題を解決する手段は大きく二つ、『油が溶ける液体で掃除する』か、『油が水に溶けるように工夫する』のどちらかだ。
前者だったら、アルコールやベンゼンとかで掃除すれば楽に落とせるんだろうけど、今回は後者の方法で行かせてもらう。
この掃除の主役となるのが重曹だ。重曹は水に溶けると弱いアルカリ性を示す。
アルカリ性の環境では、油汚れはまず、脂肪酸とグリセリンに分解される。グリセリンはそのまま水に溶けるので、水拭きでふき取ることができるのだ。
問題なのは脂肪酸のほう。こちらはそのままでは水に溶けない。では、どうするか?
実は、ここでもアルカリ性が関係する。脂肪酸はなんと、アルカリ性の環境でセッケンに変化するのだ。
そんなバカな!?と思うかもしれないが、鹸化という立派な科学的手法である。
一昔前に、古くなった天ぷら油からセッケンを作るのがプチブームを起こしたことがあったが、あれも原理は全く同じだ。アルカリ液を天ぷら油に加えることでセッケンにしていた。
こうして作られたセッケンは、普通に売られているセッケンと同じように、油汚れを落とす作用をちゃんと持っているのだ。
汚れをセッケンに変えるのだから、ある意味究極の掃除法じゃないのかなと個人的には考えている。
まとめると、1.アルカリ性によって油を分解して、水に溶けるようにする 2.分解された油がセッケンになって、油汚れを落とす
この二つの作用が重なり合うことで、重曹が油汚れを落とすことができるのだ。
そんなことを言ってる間に、よし。3割ぐらいの範囲をきれいにすることができた。
このペースなら、2時間もかからずに掃除を終えることができるだろう。頑張るとするか。
足りなくなった重曹を時々補充しつつ、俺はひたすら床を磨き続けた。
「ふうー、やっとこさ従業員を雇えた……今度はすぐに辞められないように祈っておこう。おーい、ポルカさん、今どんな状況ですか……って、なんじゃこりゃああ!?」
お、ロベルトさんが帰ってきた。
なんじゃこりゃとはご挨拶だな。これほどまでに掃除したというのに。
「おい!これは床を入れ替えたのか?俺の店のキッチンの床が!床ごと入れ替えないといけないぐらい汚れてたのか!?」
それもう掃除じゃなくね?リフォームの匠の仕事じゃねえの?
あと、いくらキッチンの床が見違えたからって動揺しすぎだ。丁寧な口調キャラだったはずなのに。
とりあえず、床の張り替えなんてしていないことを伝えないと。
「ペポー」
「え、違う?……まさか、この短い時間で、あの汚れをここまできれいにできたっていうのか!?」
「ピンポン♪」
「信じらんねえ……うちのキッチンの床が白かったなんて、初めて知ったぜ……」
うん、それはオレも驚いた。
茶色い床でも出てくるかなーとか予想しながら、黒ずんだ油汚れを落としていくと、出てきたのはまさかの白色の床だったのだ。
本来の姿は清潔感あふれているのに、あんな姿にされてこの床もさぞや悲しかっただろう。
とりあえずロベルト、お前はキッチンを掃除しろ。毎日な。
まあ、汚れに汚れた範囲を掃除して、ゴミもそこそこ回収できた。重曹やぬるま湯につぎ込んだゴミの量を考えると赤字なのだが、今回購入した新機能が消えるわけでもないし、長い目で見れば悪くない仕事だっただろう。
「あ、それで報酬だな……ですね。確か銀貨6枚って約束でした。でもこれだけきれいにしてもらって銀貨6枚は安すぎます。10枚でどうでしょう?」
おお、羽振りがいいな。
こちらとしても断る意味はないし、ありがたく頂戴しておこう。
ロベルトさんが床に銀貨を10枚おいてくれたので、[ゴミ箱]に放り込んでおいた。
これで今回の依頼は終わりかな。いったん帰っておかみさんに報告でもしておくか。
ほれぼれといった感じで自分のキッチンを眺めているロベルトさんをせっつき、町役場の階段を下ろしてもらった。
ホームベースで帰ってもいいのだが、階段も降りられないのに消えたとなると不審がられるかもしれないからな。
階段を下りたところでロベルトさんと別れ、俺は役場の外へと向かう。
みんなが使う食堂なのだから、人手不足は深刻な問題だよな。俺がその問題の解決に少しでも貢献できたのならうれしい限りだ。
火山灰の掃除ほど直接的ではないものの、それでも間違いなく『みんなのため』の掃除ができたであろうことに満足しながら、俺はいつもの宿屋へと戻っていった。
「おや、お帰りポルカ。ロベルトさんとこの掃除は上手くいったのかな?」
「ピンポン♪」
ホームベースを使って従業員ルームに直帰したが、今回はノエルじゃなくておかみさんが出迎えてくれた。
おかみさんはどうやら破れたシーツの補修をしているようだ。物を大切にする人には好感が持てるな。まあ、ゴミ屋敷を生み出したルーカスのような例外はいるけど。
何事もほどほどが大切だ。
でも、うちって『低価格で高級宿の雰囲気を味わえる宿屋』って売りだったよな……補修したシーツって高級感ゼロだぞ。いいのか?
「ああこれ?破れたシーツを繕っているのよ。補修した個所は見えないように工夫すれば、なんとかなるわ。隠せないぐらいに破れちゃったらまた別の使い道を考えるわね」
じっと見つめていると、うまい具合におかみさんが説明してくれた。なるほどなあ。そういえば江戸時代の日本もそんな感じだったって、たしか小学校の国語で習ったな。
着物がやぶれたらおしめに、おしめが擦り切れたら雑巾に、雑巾を使い古したら燃やして、灰も業者が回収するんだっけ。懐かしい。
そんなおかみさんの足元にすり寄って、ロベルトさんから受け取った銀貨10枚を全部吐き出した。
「あれ、多くない?確か6枚のはずだったけど。ロベルトさんが色を付けてくれたのかな?」
「ピンポン♪」
「そうか、よかったねえ……え?ポルカ、もしかしてこの銀貨をくれるっていうの?」
「ピンポン♪」
銀貨を足元に吐き出したまま、後ずさるように銀貨から離れる。おかみさんはそれだけで俺の言いたいことを察してくれたのか、ちょっとだけ渋い表情をした。
「気持ちは嬉しいけど、これはポルカの金だよ。私のものじゃない」
確かにそうなんだろうけど、俺が金を持ってても仕方がないんだもんな。
ゴミとして吸い込むこともできるんだろうけど、あまりにももったいなさすぎる。
それならば、むしろこの宿屋を繁盛させるために金を回すべきじゃないのかというのが俺の考えだ。
そうすればこの宿屋に発生するゴミも増えるだろう……この街から火山灰が無くなった後を見越して、ゴミを手に入れる手段は充実させておきたいという打算もあるしな。
「あれ?そういえばポルカって、うちの従業員だけど、給料ってどうなってたっけ?」
おっと、そこでこの話が来るか。
雇用条件を決めずに雇うとか、おかみさんも抜けているところがあるな。現代日本なら大問題になりかねないけど。
とにかく、ここはチャンスだ。給料としてゴミをもらいたいということをアピールしなければ。
従業員ルームにあるゴミ箱に向かって体当たりを仕掛ける。これで通じてくれるだろうか。
「なにしてんだい、ポルカ」
うーん、これじゃあダメか。
あ、おかみさんの手元から、糸くずが床に落ちた。
素早くそこへ移動して、糸くずを吸い取る。
「おや、ありがとうね……あれ、そういやポルカ、今更だけどあんたって火山灰吸い込んでたよね」
「ピンポン♪」
「火山灰を全部片付けたら、いなくなっちまうのか?」
あれ、おかみさんが少しだけ不安そうな目をしている。
まあ、従業員がいきなりいなくなったとしたら困るのも当然だよな。
別に俺は火山灰を片付けることだけが目的じゃないんだし、そんな心配は無用だよ。
「ペポー」
「あら、そう……もう道の火山灰がかなりなくなっているから、ちょっと聞いてみたかっただけ。気にしないで」
「ピンポン♪」
うーん、給料の事についてアピールする雰囲気じゃなくなってしまった。
今日のところは諦めよう。いつかおかみさんに意思を伝えられる日が来るといいな。
今回の重曹の説明は、chem-stationのHPより「『重曹でお掃除』の化学(その2)」(http://www.chem-station.com/blog/2012/03/post-360.html)を参考に書かせていただきました。
より詳しい説明を知りたい方は、ぜひこちらのURLを見てください。
個人的には、「(危険性を取り除くために)いろいろやって安全になった洗剤より、何もしていない重曹の方が汚れを良く落とすことがある、と言うことは起こり得るとは思います。」という一文がすごい好きですね。そういう考えもあるんだなーって。
なぜ脂肪酸がセッケンに変化するのか?を書きたかったけれど、本文中にそれ加えるとマジでただの化学の参考書にしか見えなくなったので、自重しました。これでもメッチャ雑な説明なんです。




