第九十話 黒ノ若キ能力ニオケル決断
ガネが正教育師になり、俺と同等の扱いを受けるようになった頃。俺は応用クラスでの講技を続けていた。
そんな中、俺も周囲と同様に歳を重ねていくと同時に、自分の身に起こるある異常を実感し始めていた。俺の額に着いた一つの痣。生まれつきのものではないこれは、確実に俺の身を蝕んでいっている。しかし、これは他人に知られるべきではない。特に、その時点でガネには伝えられないものだった。
この話は、ガネが今の俺と同じくらいの立場になってからでも遅くない。そう確信していた俺は、俺の身のことを明かさないままでいた。もちろん、それは今でも心の内に秘めている。ただ、そんな俺にも転機が訪れた。それが、自分に与えられる地位というものだった。
それは、俺が二十八歳のこと─
応用クラスにも慣れ、いつも通りに講技を行ったある日の夕刻。和装に身を包んだガネが教育師室で話しかけてきた。以前、その服装の理由を聞くと、着やすい上に武器を隠し持つのに都合が良いからだと言っていた。俺から見ればむしろ動きにくいきもするが、武器を隠し持ちやすいという理由は、ガネらしいと思った。
逸れてしまったが、本題に戻すために用件を聞くと、それは意外な相談事だった。
「講技ってどうやって教えたらうまくいくのか全く分からない」
「……ソムには教えられたのにか? お前らしくない」
「ソムにだって、特別何かを教えたことはない。それだけソムが有能だったんだろうけど、難しい」
人に何かを教える、というのは確かに難しい。人それぞれに向き不向きがある上、様々な特性をもつ屋敷生に同時に講じるのは、経験を積んでも骨が折れるものではある。ガネにとっては壁となって立ちはだかっているらしいが、残念なことに、ガネのタイプから見ても俺と同じような講技はできないはずで、俺も一緒に頭を悩ませた。
「……座学の方はどうなんだ?」
「嚙み砕いて喋ってるだけだけど、屋敷生は分かりやすいって言ってくれてるし、問題ないと思う」
「そうか……噛み砕いて……ううん」
基礎知識や一般教養は、確かにそういう手を打ちやすい。ガネも賢いため、どう言えば人が分かるのか、ということはある程度分かっている。しかし、実践となれば能力に応じて伝え方を変える必要がある。苦戦しているのはその点だろうと感じたものの、それは俺にとっても課題でもあった。
「……悪い、それは俺でも難しいことなんだ。自分に合うやり方を見つけるまでは、俺も苦労した。唯一言えるのは、お前はソムの力を伸ばした実績がある。それはどういうやり方であったにしても、糧にはなっているはずだ」
「そっか……時間かかるんだな。分かった」
「いいのか?」
「それなりに苦労しろってことだろ? それが分かればいい。ありがとう」
ひらりと俺に手を振り、ガネは足早に去って行く。
ガネの自立が見え、心の中では安心しているものの、今度は教育師という同じ立場になった身として心配していた。しかし、思ったよりは充実しているようだ。そういうことならガネの、教育師としての成長を見守らなければ、と意気づいた時だった。
「ルノタード教育師、時間は空いているかね?」
「屋敷長、何ですか」
直々に話しかけてくる屋敷長は、教育師室の奥ばったところにある休憩室に俺を招き、真面目そうな顔をして俺と向かい合った。これまでも直接話があると言って声を掛けられたことはあったが、こうして完全に個室で話をするというのは今までになかったことだ。それだけ重要な話ということだろうが、不安と興味が半々に生まれた。
「君は、応用クラスの担当になって数年だが、実力信頼実績、すべて確かなものがある。実はな、君宛に本部から伝達が来ているんだ」
屋敷長からと思えば、今度は本部とやらからの連絡が来ているという。また何故そんな大掛かりなことになっているのだろうか。
「本部って、試験部と監査官部のある、あれですか?」
「そうだ。……君の、その能力を見込んで本部に来てほしいと、申請書を預かっている」
「……え?」
本部─正式には教育師試験部および監査官部、という名称だが、そこが屋敷を取り纏めているため、教育師の間では本部という通称で通っている。そんなトップの管轄から、俺に申請が来ている。俺はずっとこの屋敷で講じるものだと思っていた。驚かないわけがない。
「可否は七日以内で頼まれている。時間は短いかもしれないが……これは滅多にないことだ。前向きに考えてみてもらいたい」
「……分かりました」
本部がどんな仕事をしているのかは、俺も知らない。用件を話し終えた屋敷長はすぐにその個室から出て行ってしまい、しばらく放心状態の俺が一人で取り残されていた。
それからどれだけの時間が過ぎたのか、その個室にはゲランが入って来た。黒珈琲を飲むために来たと言い、俺がそこにいたからか俺の分まで淹れると、向き合うように座った。
「……悩みでもあんのか?」
「まあ、悩みというか……そうだな……聞いてもらえるか?」
ゲランは快い返事をしてくれ、俺も素直に屋敷長からの話を簡単に説明した。すると、ゲランは良い話ではないかと俺が本部に行くことを勧めてきた。しかし、俺の中では引っかかっているものがある。迷っている理由としては、それが最も大きい。
「何で迷ってんのかは聞かねーけど、ガネは喜んでくれんじゃねーの? そういう、恩師の昇格っての」
「けど分かるだろ。目立たなくなったとはいえ、あいつは今でも不安定な部分をもっている」
「心配なのは分かるけどよ……あいつももう一人前だと思うぜ。不安定な部分に負けてるようじゃ、教育師にはなれてねーよ」
ゲランの言い分もよく分かる。俺の手から離れ、ガネがどうなっていくのかは想像もつかないが、それは本人にとって大事なこと。本部への異動の話は、ガネにも話してから答えを出すのが良いのかもしれない。
「……そうだな。少し考える」
「その決断で、後悔しねーようにな」
ゲランの残した言葉を胸に、俺はその足でガネを探した。
向かった先─ガネの自室─には、寛いでいる部屋の主がいた。俺の存在を確認したガネは、設備の整った部屋に招き入れるとソファに誘導してくれた。
「変な顔してる。何かあった?」
「……今から話すことは、お前にも関わるだろうから前置きをする。分岐点だと思って、聞いてくれ」
ゲランに話したように、屋敷長から聞いた話、本部からもらった話を包み隠さずに伝えた。ガネは驚いたり、悩んだり、複雑な顔をしていたが、予想とは違う答えを返してきた。
「ルノが僕に言ってくれたことは、覚えてる?」
「ん?」
「“お前の道は、お前の意志で成り立つんだ”……そう言ってただろ。だったら、ルノは僕のことを気にしないで、選んでいいと思う。僕も、一人で何とかしろってことだろ」
その言葉は、俺が森凱にいたガネを迎えに行った時にガネに言ったもの。そんな五年前の言葉、よく覚えてくれていたものだ。ガネが俺の力になってくれようとしているのだと感じると、心の底から嬉しさが込み上げてきた。
「……ああ。そうだな」
ガネからそういう言葉が聞けるのは、何よりも俺を喜ばせてくれるものだった。俺が不安に感じていたものは、一体何だったのだろうか。こんなに立派に成長して、教育師になって、ガネはもう、俺がいなくても大丈夫なんだと確信をもてる。もしかしたら、俺自身が寂しいだけなのかもしれない。
「……分かった。お前に応えることにする」
ガネの一言があって、俺は迷いを吹っ切った。単純と思われるかもしれないが、それだけガネのことは気がかりだった。それがこんな形で、良い意味で裏切ってもらえると、俺としては達成感があるというものだ。
ガネを部屋に残し、自室に戻った俺は本部に行く決意をし、翌日、屋敷長に結論を伝えた。屋敷長も喜び、俺もその昇格を受け止め、次の長期休暇に入ると同時に、本部に行くことが決まった。
同時に、屋敷長には話すべきだと思って、話した。俺の身を食い荒らす、一つの異常を。この額の痣の理由と、その経過を。それを聞いた屋敷長が驚いたのは言うまでもない。
─それは、俺の生命にかかわる、大きな異常。いつか話さなければならないことではあるけれど、これを彼らが知るのは、もう少し先のこと。




