第八十五話 黒ノ若キココロニ触レル者
─ルノのお陰で屋敷での生活に慣れ、ある程度気持ちも落ち着いてきている僕は、あることを習慣的にするようになった。寝る前に一人で広間に行き、剣を振ること。
何の為に、と聞かれても特に理由があるわけでもないが、とにかく毎日繰り返していた。
そんなある日の座学中、隣に座っている奴から一つの情報が入った。橙色の髪の、十二歳の女の子が入ってきたと。僕には関係のない話で、興味もない。適当に流してそっぽを向いた。僕を気にかけてくれる屋敷生ももちろんいるが、今僕たちに座学を講じている一人を除いて、僕に近づく人間への関心をもてない。僕からしてみれば、いらない世話だった。
「おーい、ガネ聞いてるか。上の空だぞ」
気を抜いていると、どうやら僕に話しかけていたらしいルノが目の前まで来ていた。当然ルノの言う通り、座学などそっちのけで上の空だったのだから聞いているわけがない。
「んん……聞いてな……った!」
「悪い、珍しいと思ってたら手が滑った」
ルノが持っていた書物は僕の頭に直撃し、そのまま目の前の机上に落ちた。頭部にはじんじんとした痛みが残り、少し涙が浮かびながらルノを見上げた。
「どうかしたか?」
「……いや」
相も変わらず平々凡々な日々。そんなつまらない一日を繰り返すが、屋敷に来てからは、以前よりも生きているという実感を持つことができている。その点、嫌いではなかった。それでも僕が人とほとんど関わりをもちたくないのは、人の汚いところを嫌という程見てきたためだった。
「はぁ……」
「……部屋に戻るか?」
ルノから視線を背けて再度考え込んでいると、ルノの声が横から聞こえてきた。その場を離れていなかったらしいルノは、体調が悪いのかと脈を測ったり、顔色を窺ったりと、僕の様子を見て心配しているようだ。
二回も注意を受けるとは失態だ。他の屋敷生も僕に視線を向けているのが分かる。
「……そうする」
ルノの促しに乗り、書物は置いたまま、足早にその部屋から立ち去った。その足でまっすぐに自室に戻って、そのまま夕刻まで一人で過ごした。
その日の夜。ルノは一度、僕の体調を案じて訪ねてきた。特別調子が悪いわけでもないことを伝えると、ルノも仕事があるらしく、僕の答えを聞くと一言詫びを入れてから部屋を出て行った。
僕もいつものように広間に行くために、動きやすい服に着替えてから部屋を空けた。
広間に着いて、今日の座学で集中できていなかった分を補おうとさっそく竹剣を手に取り、自分の持つ型の精度を上げようと何度か振っていた時だった。
「……綺麗」
そんな小さな声が、遠くから聞こえてきた。高い声だったこともあり、気になってその方向を見ると、女の子が広間の扉から覗き込むようにしてこちらを見ていた。それはちょうど、今日みんなが話していたような子。情報を持ってきた者がどこで知ったかは定かではないが、本当に、情報通りの身なりだった。
「……あっ、あの!」
僕が振り返ったことで目があってしまった。自分を認識されたからか、声を張って一歩踏み入ってくる。
「近付くな」
一言そう言えば、その子の足はぴたりと止まる。拒絶されてわざわざ食い気味に来るような物好きもいないだろう。
しかし、僕の想定とは裏腹に、構わず小走りで僕の近くまで来た。
「は……? ちょっと、近付くなって」
「私、ソム=ネロ、十二歳です! 名前教えてください!」
「嫌だ。出て行け。何で来た」
「私、今日屋敷に来たんです。そしたら、毎晩広間で練習している人がいるって聞いたから、来てみたんです!」
僕がここを使っているということも、すでに知っている者がいるというわけだ。この子が来たのも、とどのつまり興味本位。
しかし、その割には目を輝かせて僕を見ている。そのせいで、僕自身の意欲も阻害されてしまった。まだほとんど時間も経たないが、続けても意味はないと切り上げることにした。
「……帰ってくれないか。邪魔だから」
そう言うと素直に帰ってくれたが、先程の感じからして、この調子だと明日も来るかもしれない。そう考えた僕は、明日はいつもよりも遅い時間帯にここに来ることにし、自室に戻ってシャワーを浴びてから早めの眠りについた。
翌日。
一日講技に参加することができ、いつもの調子を取り戻した僕は日も変わろうとしている時間帯に広間に向かった。今のところ、昨日の女の子はいない。
(こんな時間にわざわざ起きて広間に来るのも変な話だしな……良かった)
そう安堵して、しばらくいつも通りに竹剣を振っていると、驚くことにその子はまた姿を現した。
まさか本当に来るとは。昨日と同じ目で僕を見ていたため、諦めて部屋に帰ろうとすると、その子は僕の横に来た。
「……何なの。お前にとって来る意味があるのか? 昨日邪魔だって言っただろ」
「じゃあ、お兄さんはどうしてここに来て剣を振ってるの?」
何だ、この子は。僕を、眼を、恐れていないのだろうか。それとも、分かっていないだけなのだろうか。全く引こうとせず、ここに来るためだけにこんな時間に起きているなんて、僕の中では普通ではないことだけが確かに分かっていた。
「別に意味はないし、お前に見せるためじゃないことは確かだろ。……頼むから帰れ、どうせ、分かれば離れていくくせに」
「何で? みんな剣が巧くて格好いいって言ってるのに」
「僕の眼を見ても、それが言えるのか?」
物は試しだ。この子がこの眼をどう思っているのか、どう見えているのか、その反応を見てみようと思った。しかし、僕が聞きたい答えは返ってこなかった。
「眼? 眼のことも、みんな綺麗だって言ってるし、私もそう思う」
どれだけ飾って言葉を言おうと、この眼のことを知らないだけに過ぎない。だとすれば、知られないうちに避けた方がいいに決まっている。
「……帰れ」
そう言っても全く帰る気配を見せないその子に、僕は動揺していた。何故僕に構うのか。何故僕の話を聞かないのか。少し考えて、その結論は出た。
「……知らないから、そうやって平然としてるんだろ。それにこんな時間に起きてるなんて、僕はともかく体に良くない。もう来るな」
そう言って僕は、自分から広間を去った。
その翌日の夜は、ルノの部屋にいた。あの子はまた、今日も来るはずだ。接触するのを、避けたかった。
部屋の主は不在、つまり勝手にルノの部屋にいるのだが、そんな程度では彼は怒らない。むしろ、何かあれば僕が部屋に来ることができるようにと合鍵まで渡してくれているのだから。
そんなことを考えていたところに、ルノが部屋に戻って来た。
「お、何だ。今日はいるのか」
「……いけない?」
「いや。……そういえば、広間使ってんのお前だろ? 未の零時以降は申請制って知ってるか?」
「初耳。ていうか僕が使ってるの、気付いてたなら言えばいいだろ」
あの子のように誰かから耳に入ったのか、それとも目視されていたのか。どちらにせよ、ルノのことだから何となく、気付いていてもおかしくはない。
「あの女の子、懐いてんな」
「まるで監視してるみたいだな。……あの子も知った時は離れていくんじゃないの。ルノが裏切らなければそれでいいし、あんな子相手にする気ないよ」
「何度も言うように、俺が裏切らねーのはお前が一番分かってんじゃねーの? 教え子ってのは置いといてな。……ついでに言うけど、あの子はお前の雰囲気っつーか、内面を見て寄ってくるんだろうし、突き放すのは可哀相だ。親しめる奴を自分から否定してたら変われねーぞ。ちゃんと接してこい、な?」
僕の頭を乱すように撫でる手に温もりを感じる。信頼感から、ルノの言ったことは何でも信じてしまう自分がいるのは事実。その心に負けて、僕は広間に行った。
広間に行くと、昨日「もう来るな」と言ったのに、当然のように女の子はそこにいた。僕から声を掛けるのも癪だが、気付く様子もなくぼーっとそこに立っているその子に呼びかけた。
「あのさ」
「わっ! あ、お兄さん……」
本当に心ここに在らず、という状況だったようで、僕の声に驚いて体が跳ねていた。屋敷内とはいえ、無防備にもほどがある。
この場合、何かあったら僕が罪悪感をもたなければならないのだろうか。
「お前、ほんと言う事聞かないな」
「そうかな?」
「あんなに拒否してるのに。何でここに来るんだよ」
僕が一番感じている疑問だ。今日はルノのフォローもあり、純粋にそう聞くことができた。そして、放たれてくる答えにも、身構えることはなかった。
「お兄さんの心、真っ直ぐなのが分かるから。お兄さんは悪い人じゃないもん。それに、本当に剣が巧いと思うから、教えてほしいです」
「……何だ、それ。恥ずかしい奴」
「えへへ。それから、聞いてないから教えてください。お兄さんの名前」
話してみて、初めて分かるこの気持ち。僕はこれから、どれだけの情に触れていくのだろうか。いや、きっと僕には必要なのかもしれない。こうして、一歩踏み出すことを強いられるような、そういう存在が。そう思いつつ、彼女の申し出に応えることにしたのだった。
「……ガネ=イッド。君の、五つ上。言っとくけど、僕は人に教えたことなんかないから。剣を扱いたいならここに来い」
「よろしくお願いします!」