第八十二話 黒ノ若キ夢ノ闇
番外編 ※一話読み切りの詰め合わせ
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─時々、嫌な夢を見る。
嫌な、というよりも、ただただ広がる暗い場所で、僕一人がその中心部に立ち尽くしている気味の悪い光景。どれだけ経っても変わらないその景色に、訳も解らず飛び起きてみればそこは間違いなく僕の部屋。
そんな短い夢は、僕にとって過去を掘り返されているような気分になる他ない。
まるで、今でも僕には味方の一人もいないと言わんばかりに、孤独を意味しているかのようで。
森凱を離れてから一年。見る頻度こそ少なくなっていたが、僕に昔の心を蘇らせるには申し分ない夢を、久しぶりに見た。まさに、僕の中に埋め込まれている不安、恐れを、忠実に見せているといっても過言ではない。
「……はぁ、何で……」
どうして暗闇はそこから動かないのか。
死ぬわけでもない、闇に佇んでいるだけの夢に恐怖を覚える。自分は今でも孤独だと思わされる。
「何でだよ……」
嫌な感覚を拭い去ろうと両手で頭をかきむしる。それでも、脳裏に焼き付いた闇は離れてくれない。どうすることもできずに苦悩していると部屋の扉がノックされ、僕の返事を待たないままに開いた。
そこに立っているのは、五年前に出会い、僕を屋敷に導いてくれた人。僕が犯した罪に対してまっすぐに叱った上で、更生するために保護してくれた人だ。今のところ、僕の中では一番の信頼対象で、負った傷を癒してくれる唯一の存在だった。
「起きてたのか」
「ルノ……。今、起きた。嫌な夢、見たから」
「そうか。どんな?」
それを聞くや否や、ルノは僕が寝ているベッドに腰をかけ、話を聞くと言って僕を見た。優しく自然に、僕の奥深い感情に入って来そうで来ないような、絶妙な感じで話してくれる。その距離感が、僕にとっては丁度良いのだろう。
心を許したその相手に、素直に夢のことを話した。次第に、不思議と楽になって、孤独を感じる夢を“誰か”に話しているという孤独でない今の状況に気付いて、言葉に詰まった。
それは僕にとっては奇妙で、意に反して溜まってきた涙を拭った。
「泣くほど怖かったのか?」
─違う。
言葉に出ないけれど、決してそういうわけではない。僕が本当に怖いのは、暗闇に一人でいることなんかではない。もっと、違う意味でひとりになってしまうこと。ルノの温かさに触れてからは、それがその対象になっていた。
だから、どうしてあんな夢で恐れるのかが、僕には理解できなかった。
「……っ、分からない……何でこんな夢が、怖いんだよ……」
胸が締まる思いがこみ上げてどうしようもない。俯いていると、僕の様子を見かねたらしいルノがそこを立ち、部屋の電灯を調節して、明かりをともした。視界が一気に明るくなり、思わず手で光を遮る。何度か瞬きを繰り返し、その明るさに慣れてから手を離すと、はっきりとルノの姿を捉えることができた。
その瞬間、心の底から安心した。
「暗いとこにいたら、余計辛いんじゃないのか? しばらく点けとけ。俺も少しここにいる」
「え? ……でもルノ、用事か何かでたまたま来たんじゃ……」
「別に大した用事があったわけじゃない。様子を見に来ただけだ。時々寝起きの機嫌が悪いっていうか、暗い時があることくらい分かってるからな。寝足りないなら、俺のことは構わず寝なおしてもいい」
「ルノだって寝不足だろ、知ってるよ。そのクマ前はなかった。ルノこそ寝ろよ、倒れられたらそれこそ……」
僕を心配するルノの目の下にあるクマを見逃さなかった僕は、ルノの身を案じたのだが、そこまで言って口を閉じる。こんなこと、普段言わないから気恥ずかしくて、続けられなかった。
語尾でごにょごにょとしていると、ルノは僕の年に関係なく、僕がかきむしったぼさぼさの髪をさらに乱すように撫でた。
「心配してくれてありがとうな。俺は本当に大丈夫なんだよ。……でもまあ、お前の気遣いも受け取ってやらねーと不公平だな。だったら、お前が無事寝たら俺も部屋に戻る。今は俺の心配するな。いいな?」
「……そういうことなら、分かった」
ルノと打ち解けてから、相変わらず横にいることで心が凄く楽になる。初めて僕に与えられた優しさは、今の僕にとって必要不可欠であるということは、言われなくても分かる。僕の心はこんなに落ち着いて、こんなに安心して、話ができるのだから。
寝付くまではルノと他愛のない話をして、次第に瞼が重くなってくる僕は手でこすりながら、噛み合わない言葉を投げ返し、「もう寝ろ」と促された僕は再び横になり瞼を下ろす。
そんな僕に、またあの夢を見るかもしれない、という後ろ向きな思考は、不思議となかった。
その後、目を覚ますと、日の光が窓から射し込んでいた。もう日も高いようで、時間的にもかなり睡眠で時間を潰してしまったらしい。もったいないことをした、と体を起こすと、ベッドに寄りかかるように座って眠るルノがいた。
「……部屋に戻るんじゃなかったの? 風邪引くよ」
嫌な夢を見ることなく、今回はすっきりとした目覚めで爽快感に包まれている。これも話を聞いてくれたルノのお陰だ。僕は被っていた毛布をルノにかけ、起こさないように慎重にベッドから降りて着替えを済ませる。ルノが起きる気配がないことを確かめようとベッドの方へ向き直ると、ベッドの色とは違った色が枕下からはみ出るように置いてある。明らかに寝る前にはなかったもので、それを取るためにベッドに戻った。
引っ張ると、小さく畳まれた紙が出てくる。
「何……これ」
何も考えず、その紙を開いた。そこには、ルノの温かい文字が綴られていた。ルノらしい心遣いに、僕はまた一つ、ルノへの信頼を厚くした。
もしかしたらこの手紙のお陰で、嫌な夢を見なくて済んだのかもしれない。都合良く、お守りのように感じた。
─お前はひとりじゃない。だから一人で頑張ろうとしなくていい。俺を頼ってこい。いくらでも支えてやるからな。
「ほんと、変なところで真面目だよな……。有難う、会えたのがルノで、本当に良かった」
その紙を大切に、大切に、戸棚の引き出しに片付けてから、ルノを起こすために呼びかける。
ルノがしてくれたことに対して、僕がどれだけの返しができるかは分からない。いや、あの生活から抜け出させてくれたことに相応したものなんて、僕の中では思いつかない。それだけ、大きな変化を僕に与えてくれたのだ。
せめて僕も、ルノが僕に手を貸して良かったと思えるように、僕ができる限りで伝えないといけない。
面と向かって言うのは少し気が引けるけど、僕の命を、意味のあるものにしてくれたこと。精一杯の言葉で、それを伝えるんだ。
「ルノ。一つだけ、聞いて。大事なことだから、一回きりの話」
改まって何だ、とルノは言う。僕の話を聞こうと、僕の眼をまっすぐに見てくれる。森凱で会った時も、初めから目を逸らさずにいてくれたその紫眼は、僕の奇怪な眼をそのまま映していた。
寝起きのルノに言うのはずるいかもしれないけれど、今を逃せば、きっとまた言えないままになってしまう。
もう一度だけ一回きりだということを念押ししてから、言った。
─僕を見つけてくれて、ありがとう。