第七十六話 黒ノ意志ガ渡ル石
あれから、顔擬の姿は依然戻る気配がなく、元気もないように見える。正直、もたもたしてはいられない。
その一方、どうすれば事態が落ち着いてくれるのか見当がつかないでいた。そのうち薫が俺たちの前に姿を見せ、吟も多くの怪異の異変に対応すべく走り回っていると現状を教えてくれた。
『まあ、そろそろ戻るだろう。悪いな、こうも慌ただしくては貴様らの相手もままならん』
「いやそれはいいよ……それより、こうなってしまった原因、俺たちが作ったかもしれないんだ。だから、聞いてくれる?」
薫は一瞬顔色を曇らせたが、言葉に出すことはせず、ただ話してみろと催促した。事の成り行きを、穏慈に話したのと同じように話すと、次第にその顔はいつものものになっていた。どうやらそのことを責めるつもりはないようで、“触れない”という真実を覆して俺たちは触れたのだから、俺たち自身が一番驚いただろうと、むしろフォローをしてくれた。
『責めはしないさ』
「薫ちょっと性格変わった? 真っ先に怒鳴ってきそうなのに」
『貴様私の主でありながら私の優しさを知らんのか』
優しさなど見たことがない。そうラオが返すと、薫は黙り込んで俺たちを睨んできた。何で俺まで睨まれる羽目になっているのかは分からないが、単に気に食わなかったのだろう。穏慈がその場を落ち着け、ひとまず吟が戻ってくるのを待つことになった。
その後、そう間もたたずに吟の姿を確認できた。
『オォ、デッド……来テ、イタカ』
しかし、その姿に違和感を感じる。薫は確かに『走り回っている』と言ったが、その不思議に浮かぶ体からは、人の足と同じように生える棒のようなものがあるように見えてならない。しかも、その二本で当然のように立っている。
「言葉のあやじゃなくて、本当に走り回ってたの!?」
『ただの装飾じゃないのか。吟がペタペタと走り回るなど想像すると笑えてならん』
見ると、穏慈の毛がふるふると震えている。想像してしまったのだろう。尾を踏んでやろうかとも思ったが、ラオを見てみると、こちらも肩が震えていた。
「すげぇ震えてるぞ穏慈。俺も人のこと言えないけど……」
ラオの声がぶれぶれだ。穏慈とラオが身を震わせているのを見ると、俺の想像力が乏しいのかと思えてくる。
「いやもういいから本題にさ……」
『……青精珀トヤラノコトハ穏慈カラ聞イタ……。タシカニコノ異変ハ、ソノ……マセキニヨルモノダ。ダガ、気ニヤムコトハナイ。ソレハモンダイヲ、妨ゲテイル』
「妨げて……?」
『ソウダ。主ラガ触レタオカゲデ……完全ニココニ、カカワッテオレルノダ』
完全にアーバンアングランドと〈暗黒〉の間を繋げた、ということで良いのだろうか。しかし、その吟の言葉には少々引っかかる。まるで、もともと不完全状態で影響しあっていたと言わんばかりの言葉だ。青精珀は珍しい魔石ではあるが、本来は青郡に在るべきものではなく──そこまで思考したのち、その件に関して確認するように問い返すと、それには穏慈が答えてくれた。
『元々、あの魔石はここにあったものだろう。それが、ある原因によって断ち切られ、そちら側にいってしまっていた。吟の力で徐々には戻っていたが限界があってな。それをお前たちが可能にしたらしい。吟曰くな』
「てことは穏慈もこっちであれを見たことあるんだろ? 青精珀を見た時って……」
『あんな形ではなかったのだ。そのせいで分からなかったが……吟は誤魔化せぬようだ』
それを聞くと、あの魔石が持つ能力にも納得がいく。〈暗黒者-デッド-〉である俺たちが触れたのも、やはり〈暗黒〉に関わるものだったからで、人が触れられないというよりも、正確には本来存在し得ないものが青郡にあるというだけのことだということが明確になった。
「ちなみに穏慈は弾かれる?」
『さぁな。触れたことなどないが……』
『マッタク……面倒ナ、シロモノヨ……。魔石ガ、ウケイレル、ノハ……デッドノミ……ダ。ソノ、武具ト同様ニナ』
「え? 〈暗黒〉のものなのに、怪異は触れないの?」
鎌や鋼槍と同様。それほど〈暗黒者-デッド-〉は特別だということを実感する。本当に〈暗黒〉の中では特別扱いで、存在するだけで格が違うのだろうが、ここまで違う存在となると気が引けてしまう。それでも、最弱と言われるよりは良いかと前向きに捉えることにした。
「そうなんだ……じゃあ、この現象を止めるにはどうしたらいいんだ?」
顔擬の体調を窺うと、その怪異は唸りながらも体を縦に振った。まだ大丈夫なようだが、状況は相変わらずと言ったところで、このままの状態を長引かせるのはあまりに可哀相だと、俺たちは少しだけ気持ちが焦り始めた。
『……デハ、深火ノトコロヘ、イケ。深火……ハ、長イアイダ……ムコウニ、イタ。魔石ノ影響、ヲ……ウケナクナッテイル。今ハモウ、動ケナクナッテイル』
「? え、……え?」
吟が何を言っているのか、全く分からない。深火がアーバンアングランドに慣れたことは理解できる。しかし、それが現象の解決に繋がるという理由が、いまいち把握できていなかった。
『影響ヲ、ウケナイ……ツマリ、力ガハタラカナイジョウタイニ、イル……』
「……あっ! じゃあ、深火が空間の軋みの影響をもろに受けてるとしたら……」
「そうか……保護が効かないってことは一番苦しんでるはず……」
早く解決しなければ、深火は確実に死んでしまう。動けない身に頼るのも申し訳ないが、今回は守護が働いている吟よりも、深火の方が事態をそのまま感じているのかもしれない。手を貸している中で、そのまま動けなくなってしまったのだろう。
「分かった、深火を探そう!」
『近クニイル、ハズダ……イソゲ……』
知り合ってしまった以上、無関係ではない。
(絶対、死なせるものか)
......
ホゼの追跡を続けるゲランは、手を離すことができず、それ以外のことに一切触れなかった。そのため、ヴィルスのことは後にゲランが情報を集めやすいように、本部長の俺とオミで書庫での調べを進めていた。
「どう、ルノ。だめ?」
そこにソムが顔を出し、進捗の確認にくる。もちろん未だ見通しは立っておらず、ただそれらしい史乗と真迷いについてを調べているだけの状態だ。オミも疲れてきたようで、集中力が切れたのか机に伏せて動かなかった。
「いや何……少々詰め過ぎて頭がいかれそうなだけだ」
「大分疲れてるのね。休んだら? オミもあんなになっちゃってるもん」
そうソムが進めてくるが、もう少し、と調査を進める。ヴィルスのことはできるだけ早く分かった方がいい。無理をしていることは自覚しているが、ここで手を休めれば掴みかけそうなものも取り逃しそうな気がして、それらを読み漁った。すると、俺が重ねている本の一冊にソムの手が伸びてきて、自分の前で開いて読み始めた。
「あ、おい」
「手伝って良いでしょ? ルノとオミだけだと限界があるもん」
「……講技は?」
「無理言って、ノームに合同にしてもらったの。ガネは今頃講技中ね」
それならと、渋々承諾するしかない。ひたすらページを捲っていくしかできないが、ソムは改めて快く引き受けてくれ、休憩を終えたオミも一緒に書庫に籠った。
△ ▼ △ ▼
医療室解散後、僕は講技を執り行っていた。最近、本当にまともに講技ができなくなってしまい、屋敷長には説明したものの、教育師失格かもしれないし、除職になってもおかしくない。しかし、事が事なだけに僕はここにいなければならない。そのため、できる限りで力となるよう講技をする。
「今日は……そうですね。三人一組になって、ローテーションで一人を追い詰めてください」
『リンチ!!?』
さすがに大袈裟な表現をしてしまった。対複数という意味で言ったのだが、屋敷生たちはそれをそのまま受け取ってしまっていた。面倒だと思いながらも、柔らかく言い直すと「良かった」と安堵する声がちらほらと聞こえてきた。
「目が冗談じゃなかったんで……マジでそういうことかと……」
「いくら僕でもそんな酷いことしませんよ」
「いくらって普段厳しいのは自覚してるんですね……わあすんません! 目が怖い!」
そんな揚げ足を取って来たのはユラ君。お調子者なのはいつものことだが、あまり賢いとは言えない。自由に三人組を作るように指示を出しながら、僕の冷ややかな視線はしばらくユラ君に刺さり続けていた。その視線を外したのは、シリス君と組んでいるチェイン君だった。見たところ、あと一人足りないようだ。
「あの、三人一組だと二人余り……」
「バカッ! んで言うんだよ!」
他のグループを見ると、すでに三人ずつで組むことができているため、確かに一人足りていない。しかし、僕の中ではこれは問題でも何でもない。もちろん、それに当たったグループには僕が入り、大きな実践を積んでもらうことが目的だ。他のグループの人たちは安心しているだろう。
「計算済みですよ、僕が入るので」
「てめぇ!」
「いやごめん……そこまで頭回らなくて。怒らないでよ、おれだって被害者になるんだから」
言い出しのシリス君は、チェイン君に胸ぐらをつかまれているが、二人が仲が良いのは知っているし助ける義理はない。三人組になることができた人たちには試合を始めてもらい、僕も僕で、二人に指示を出す。
「二人で僕を攻撃してください。全部弾きますから」
「意味なくね!?」
「何を言います、強い相手に太刀打ちできるようにならないと。……いつでも始めてください。手加減は、不要です」
その瞬間、竹剣を持った二人の屋敷生は、それぞれで協力するように動きながら僕を狙う。単純かつ、互いの動きを把握できる限りの挟み込みで。その動きは評価できるものの、工夫がなければ僕から一本でも取ろうなんて、不可能にも等しい。
「続けてください。諦めることは、お勧めしません」
しかし、それでこそこの講技に意味があるというものだ。その意味に、屋敷生は気付いてくれるだろうか。
いや、たとえ気付かれなくとも、それが自信と実力になっていけるように。それが僕の教育方針だ。
......
穏慈や薫の背に乗せてもらい、薫の利く鼻で深火を探してもらってその目の前に来たのだが、そこには久しぶりに方舟がその姿を見せていた。相変わらずの大きさに体が仰け反りそうになる。
「……うわぁ久しぶりに見た……方舟」
『体内から出現させたようだな。おい深火、顔を出せ』
穏慈の声に反応したようで、シュー……と消え入りそうな音を立てながら、方舟から出て来た。すっかり弱ってのろのろと身を引き摺っている深火を見ると、何とも言えない感情に心が支配された。
『……余り……動キタく、なイ……』
どうやら何かに敏感になっているようだ。どこか怯えが見られる気がする。ぐぐっと体を起こして俺たちの前に座り込むが、その時に見えたその尾につく炎は弱っていて、今にも消えてしまいそうに揺らめいていた。まるで蠟燭の火のようで、心許なかった。
「……これが、方舟?」
「うん。……そうか、あの時ラオはいなかったんだよな。昔よりでかいだろ?」
方舟の存在を目に留めたラオは圧倒されながら、俺にそれの正体を確認する。ラオも一度はこれに向き合い、怪我も負うところだったのだ。こうして目の前にあり、こちらを襲ってこないのが何よりもの救いだ。
「おぉ……。それにしても、大丈夫、じゃあなさそうだな」
『あぁ……、……酷い、重圧、ダ……、ただモノ、でハない。解決……シナ、けレバ』
『答えてくれ深火、何が起きている』
『あ……魔石ガ、暴走……っここニ、収まリ切れてイナい……』
守りは〈暗黒〉からアーバンアングランドに働いているが、魔石……つまりもともと闇の中にあったと聞いた青精珀が、もとの場所に完全に返ってくることはできていないのが、今回起きたことの発端だと深火は言う。それが確かな事実なのであれば、ここに青精珀が収まれば、事が酷くなることはないのではないか。
「でもどうやって……? だって、収まるとかは青精珀の問題じゃ……」
『……歪を、作れ』
穏慈は徐に言った。その促しのセリフは、俺の想像にはない、一か八かの案。しかし確実に外部に移ったものを収めるには、これしか方法はないと、深く落ち着いた声で、俺たちの心に植え付けた。
「歪……って、えっ?」
以前泰が作った歪。そのせいで〈暗黒〉はおろかアーバンアングランドまでも壊れかけてしまうところだったことは忘れていない。そんなものを、今度は俺たちが開けと言う。それはつまり、失敗すれば間違いない、甚大な被害が待っているということに他ならない─。
『最も最短かつ、戻すなら確実だ……。強要はできんが……やるなら全身全霊をかけてお前たちを援助する』
『私は穏慈に乗ろう。……〈暗黒者-デッド-〉、決断を下すのは、貴様らだ』
怪異はその眼で俺たちを捉える。この手にかかる表裏の生存を分かっていながら、真っ直ぐに。俺たちが下す答えを、じっと待っていた。