第七十二話 黒ノ難航スル講技ト循環
指定された、恒の四時。ここまで一時間半ほどの猶予があった。その間に軽く食事を済ませ、上着のみを脱いで嫌々準備をした。
ガネさんとのマンツーマンになるわけにはいかないと思い、それなりにやる気を出そうとしてみるが、そう簡単に苦手意識を拭えるわけもない。目の前に見える広く張られた水から目を逸らした。
「ザイ、泳げないのに着たままやるの?」
「え? あ、ああ……。だって実戦じゃあ服脱ぐわけじゃねーし、やるならこうだろ」
「それはもっともなんだけど、ザイはそれ以前の問題でしょ。泳げるようになるまで脱いだ方がいいと思うけど。それとも自分の華奢を気にしてんの?」
「ちげーよバカ。ラオよりないけど並だろ」
ラオの言うことにも頷けるのだが、俺として致命的なのは実戦で溺れかかる危険性が人の何倍もあること。例えば、崚泉で水の中に入ってしまった時のような、つまり衣服の重みに反発して体を浮かせなければならない。泳ぐ泳がないの問題ではない。と、俺は思っている。
「はいはい、言い訳はそれまでにして。そこまで冷たくはないと思うので、入ってください」
ついに水中講技に取り掛かる、ガネさんの指示がきてしまった。俺の覚悟は未だに決まり切っていない。こんな状態で講技に集中できるはずがない。云々考えていると、先に水溜槽に入っていたラオが俺に手招きをして促していた。
「こういう場なら、いざって時確実に助け上げられるんだし。大丈夫だよ」
「ザイちゃん怖いの!? 何それオレも助けてやるよ可愛いなあ」
「お前はちょっと気持ち悪いからどっか行ってくんない? しっしっ」
手で追い払う動作をするも、ユラは全くそこから動く気配がないし、むしろラオの横に並んで手を伸ばしてきている。こいつの手を取る気はさらさらない。なかなか水溜槽に入らない俺に、以前一度だけ会話を交わしたことのあった二人が寄ってきていた。
「足つく深さだから、入るだけなら平気だよ」
「お前水中苦手だったんだな。すげー意外」
その二人はチェインとシリス。五人組を組んだ時にグループになっていたが、俺たちがほとんど顔を見せないため、あまり関わらないままなのが申し訳ない。
「君、本当に大変になったんだね。ずっと見なかったから」
「本当に、って……?」
「覚えてない?」と言われ、会話をした時のことを思い出そうとあの時の状況、流れ等を一から考えながら、いわゆるエピソード記憶というもので辿っていくと、何とか言われたことが頭の中に戻って来た。
─君は、この先大変になるんだろうね。
その言葉は、今になって俺の心に圧し掛かった。これがきっかけで、俺のことが知れ渡るのではないかと。しかし、すぐに話は切り替わり、シリスが俺を水中へと誘った。ある意味ほっとして足を水につけたところ、突然背中を押され、俺の足はすでに浮いている状態になっていた。
「入ってください」
ガネさんのその言葉が聞こえるか聞こえないかというところで、俺は水しぶきと共に水中に入った。
ボディバランスを取り切れず、なかなか顔が水面に上がらなかった。
「わーっ!! ガネさんちょっと! ザイ浮いてこない!」
「ぶはっ、がほっ」
ラオが早い段階で俺の腕を引っ張り上げてくれたお陰で息を吸うことができるようになり、大きく呼吸を行った。危うく講技中に溺れてしまうところだった。
「ね、お願いだから……ひやひやさせないで……」
「俺が一番焦ったっての……げほっ、っはー」
「ええ……とりあえず引いて良いですか……」
許可をとるまでもなくガネさんは俺の状態に引いている様子。凄く冷めた目で俺をじっと見下していた。
もちろん俺だって好きで泳げないわけではない。こうなったのにもきっと理由があると思うが、きっかけそのものは不思議と覚えていなかった。
「ホゼのバカは何年も見ておいて一体何を教えていたんでしょうかね。ザイ君もちゃんと参加してました? まず水中での力の抜き方と呼吸の仕方を覚えなさい。皆さん、僕はザイ君教えますから、課題を見つけて訓練しておいてください」
ガネさんの言葉に良い返事が多く返って来たところで、結局ガネさんがマンツーマンで俺に指導しようとしていることに気付く。ガネさんに直接教わるということの意味は、もうある程度理解しているつもりだ。間違っていなければ、俺には厳しい指導が待っていることになる。
「待て、ガネさんは嫌だ! ラオ助けて!」
「何を嫌がることがあるんですか。ラオ君にはラオ君の時間があるんですよ、ほらこっちへ来なさい」
水の中では思うように体は動かず、和装の服を脱いで下に着ていたシャツとスキニーボトムの全身黒っぽい軽装で入ってきたガネさんの手に腕を掴まれた俺は、端の方に連れて行かれた。
「可哀相に。マジで意外だよな」
「あの子、個性豊かだよね」
そんな会話をする、チェインとシリスも見受けられた。
それから、ガネさんの指導の下、水と格闘することになったものの、俺に対するガネさんの呆れ具合といったら言葉では表しきれなかった。
「まさかここまでとは思いませんでした……謝るレベルです」
「げほっ、……るせぇ、だから、嫌だったんだよ」
「自覚できてるだけ良い……いや、やっぱりだめです。自覚してるなら弱点を少しでもなくさないと」
やる気になれば少しくらいできるかと思ったけれど、信じられないくらいの結果に絶望を感じそうなところではある。ある意味で自分が怖くなった。
「ガネさん」
「あ、ラオ君。どうしました?」
「いや……ザイが気になって……うん、だめっぽいな」
その場の空気で簡単に悟られてしまった。いや、そもそもラオは、元々俺が泳げないこと知ってはいる。しかし、ラオも俺たちと考えることは同じのようだ。
「何で泳げないかなぁ、重いの?」
「失礼な!」
「いえ、片手で持ち上げられるくらいには重くないです」
俺が重いわけではないというだけの話だが、その表現は俺の沽券に関わる話になる。俺は迷いなくガネさんに拳を飛ばしたが、何事もないように手で止めてきて反対に腕をつねられてしまった。
「いてえいてえ!!」
「手癖が悪いですよ」
「……大体器用なのにここまでなのは、本当に水が怖いんじゃない? 意外とホゼにやられた時のでトラウマになってるとか、小さい頃に溺れたことがあるとか」
「苦手意識の払拭が自分からできずに力んでしまうんでしょうね」
ホゼの一件でそうなったのだとしたら納得がいく、とガネさんが首を縦に振る。もし俺が幼いころに溺れたことがあったにしても思い出せないのだから、深く考えるだけ無駄であることはすでに分かっている。
「いや勝手に決めんなよ」
「まあ、今日の成果としては一応沈まずに伸びができるようになったことですね」
「浮いてるだけじゃん。ていうか一応って言ってる時点でまだまだじゃん」
「お前ダチの癖に、フォローくらいしろよ。顔を出して浮くだけの俺が進歩して顔つけて浮けるのすげーだろうが褒めろ」
何を言おうとラオは泳ぐことができるのだから何のダメージにもならない。ラオは「はいはい」と言いながら表面上で俺を褒める。全く褒められている気がしないが、これ以上何か言ったところで俺のダメージになるだけということは重々分かっている。
「あ、じゃあまずは大丈夫だってことが分かればいいんじゃ」
「それなら手遅れですね。何と言っても僕が落としましたから」
「……そうだった、俺としたことが! 他に良い案はないですか!」
「いやもう手遅れだって」
何故か俺以上にラオが案を考えていたが、結局解決にも至らず、ある程度時間が過ぎた頃、俺の伸びにはさらに磨きがかかっていた。「そうじゃない泳げ」、とラオに言われたことはもっともだし、さすがに俺もバカにされないレベルにはなりたいとは思った。
▼ △ ▼ △
応用クラスが広間を出てしばらく。基本クラス生は休憩を挟みつつ、講技を受けていた。もちろん私もその中の一人。何とか剣術を上達させようと試みているが、本当に向かないものはいつまで経っても向かないものだった。
「うーん……、やっぱり剣術だめなのかなぁ」
「どうしたの?」
「あ、ソム教育師……」
悩んでいるところに、ソム教育師が私に気を回して声をかけてくれた。剣術のことについて相談すると、ソム教育師はしばらく考えこんだ。
何か、答えにくいようなことを言っただろうか、困らせただろうかと不安になる。
「あ、あの」
そんな不安とは裏腹に、顔がパッと上がり私の肩にその手が置かれた。
「そうね! 剣術は向いてない! ウィンちゃんには無理!」
「えっ!?」
真っ向から言われてしまうと結構ショックなものがある。“ガーン”という重苦しい効果音が本当に聞こえてきているような感じだった。
「そんなウィンちゃんにはやっぱり専門を磨いてもらわなくちゃ! あ、あと教育師って呼ばなくても良いからね!」
特別悪気があって言ったわけではないらしいソム教育師は、すぐに場を離れて私に“専門”を教えられる教育師に声を掛けに行っていた。
「ウィンちゃん」
その傍ら、ぽつんと残された私に声を掛けてきたのは、基本クラスの中で一番仲の良い女友達のユエ=フィオーレだった。
「何?」
「いや、大したことじゃないんだけどね。ウィンちゃん、最近寂しいのかなって」
「ど、どうして?」
彼女のその言葉は、私をドキリとさせた。寂しいとは少し違うけれど、今までとは違ってザイ達のために何とかしないと、という意識が出てきているのは間違いない。その変化が人に伝わるほどのものになっていたことは、自覚していなかった。
「んー……何となく、笑い方が変わったのかなぁ。よく分かんないんだけどね。悩みがあるなら聞くよ?」
仲が良いからこそ気付くこと。だからこそ知られたくないこと。それよりも優先させることがあること。どこまで話していいのか、分からなかった。
「ねぇ、ユエちゃんは……秘密ってある?」
「秘密?」
うーん、と考え込む友人を見て、何だか悪いことをしたかのように思えてしまい、「やっぱり何でもない」と言って、適当に誤魔化して話を終えた。ちょうどそこに、ソム教育師がノーム教育師を連れて戻って来たため、ユエちゃんは私から離れて自主練に励み始めた。
「ウィンちゃん。剣術できないのに頑張っているのね」
「の、ノーム教育師まで……」
ソム教育師にノーム教育師、二人にそう言われるとさすがに剣術ができないと分かっていても自信がなくなる。ため息を吐くと、ソム教育師はノーム教育師に私を任せて全体の講技に戻って行った。
「……あのね、無理に剣術にこだわらなくてもいいの。ウィンちゃんには、自然魔があるでしょう? さっきも少し練習したけど、あれ、もう少しやってみようか。自然魔の未完成状態は制御が効きにくくて危険だからね」
「……はい、お願いします」
「ねえ、ウィンちゃんの自然魔が、“循環”っていうのはもう教えたよね?」
私が首を縦に振るのを見ると、私の胸元にかかっている桃色の玉石を手に取り、私に優しく微笑んで両手を出してほしいと頼んできた。
「これ、優しく、そっと握って。そうしたら、何でもいいから想ってみて」
「分かりました……」
そっと包み込み、目を閉じる。何を想おうか、目を瞑る。何が起こるのか全く想像もできなかったが、ノーム教育師は特殊な能力に長けている専門の教育師のため、信じて言う通りに実行してみることにした。
今の私の心には、何が巡っているだろう。現実か、それとも虚空か。違う。今は──“秘密”。
誰にも言えない、打ち明けてはいけない秘密。それは私自身も危険な目に遭ってしまうかもしれない大きな力を秘めているもの。だからこそ私がどうしたらいいのか分からない、そんな大きな隙間。
優しくと言われていたものの、ぎゅっと手に力が籠ると、ぶわっと桃色の輝きが広がり、私を包み込んでいた。
「わっ、え……!?」
「……“循環”はね、自然をすべて具しているの。だから、心の動きにだって、反応する。水を想えば、水の“循環”を変えられるし、人の“循環”を正したいと思えば、体の異常をある程度除ける。自然を知るのは、あなたを知ることになるんだよ」
噛み砕かれた説明だが、つまり“自然は私自身”ということ。もっと理解して、物にすることができれば、私が願っているザイやラオの力になることもできるし、何よりそのための強さになる。そのことにもう少し早く気が付いていれば、今の私はもう少し違ったのかもしれないけれど、ノーム教育師がこうして教えてくれたのだから、今から彼らに追いつこう。
「頑張ろうね」
「はい!」
▼ △ ▼ △
「散々な目にあった……」
あれから、一時間ほどで講技は終了となり、着替えるために部屋に戻った。着替えた後でラオが俺の部屋に来ると言っていたため、素早く着替えを済ませ、濡れた髪をタオルで乾かした。
俺が着替え終わって間もなく、約束通りラオが部屋に来た。
「おー、着替えてるな。それにしても、あれは間違いなくザイの弱点なんだから、敵として向き合う奴に知られねーようにしないと」
「……うん、それは俺も分かる。正直俺もちょっと引いたから。でも水中って体力倍以上削られるじゃん……」
不貞腐れていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。誰だろう、と開けた先に立っていたのは灰色の教育師だった。急ぎではないが、結構大切な用事があるという。
「……ガネさんが大切な用事って何、悪い予兆?」
「失礼ですね。……まあいいです、広間に来てください。前に屋敷長に貰ったあの小瓶、使い方を教えます」
「え? あれって気休めのお守りなんじゃ」
「ちゃんと使用方法があります。君たちが使うかどうかは別ですけど、知っていて損はないですよ」
そう聞いて、タンスにあるいくつかの引き出しのうち、一番小さいところを開け、いつだったか入れておいた小瓶を取り出す。仕舞いこんでいて忘れていたが、確かにこんな砂のようなきらきらとした粒だったということを目に入れて思い出す。
「って、今から!?」
「できる時にやっておかないと、また機会を逃しますので。屋敷長とルノが作り出したものですし、効果は保証します」
ガネさんは、本当に困ったら使うべきだとまで言ってきた。そういうことなら損はないのも間違いない。
水中講技で少しだけ疲れた体を、何とか動かして部屋を出た。広間に行くと、基本クラスの屋敷生はすでにおらず、そこではウィンとソムさんが待っていた。