第六十五話 黒ノ眼ヲ護ル者ト羨慕ノ灰
父の言葉に耐えられなった僕は、家を飛び出した。足を止めて景色を見て、来ようと思ったわけでもない鈴屑の丘に辿りついていたのを確認した。
どうしてこんな、眼が人と違うだけでこんな思いをしなければならないのか。あの人だって、本当に謝罪をしていただけなのかもしれないのに、それをこうして逃げ出して、否定して、苦しくなって。落ち着ける場所なんかないと分かっているのに、どこかで安寧を求めている自分がいるのだとしたら。
僕が完全に絶望に落ちてしまえば、きっとこうして苦しむこともないだろうに。今のままでは、逃れられない。
来てしまった丘の、星が綺麗に見えている場所に腰を下ろして、空を見上げた。そこには、大量に瞬く星々で溢れ、そこから仲間外れにされているような僕が見つめている。
ただ、僕がその星の一つだとしたら。僕は、僕みたいなひとりじゃない。たくさんの星がそれぞれ輝き、夜空を照らしていて、羨ましい。
「……一つくらい、僕にくれてもいいのにな」
届かないことは分かっていても、届きそうなそれに手を伸ばしてみる。手で隠れてしまった星は、その瞬間だけ僕の手に包まれているような錯覚を起こす。
いや、こうして思うことこそが、僕を苦しめているのに。伸ばしていた手を下ろして、再び僕の首だけが上を向いた。
「ガネ、ここにいたんだな。腹減ってるだろ。持ってきたから、食おう」
上がっていた息も落ち着いた時、暗い中、ルノが僕を探し出した。勘なのか、確実に僕の後ろを追って来たのかは知らないが、その存在は確かに僕の横に身を置いた。
「……ルノ。僕ね、ルノの優しさが、嬉しかった。でも、やっぱりまだ無理だ。嬉しいだけじゃ、信頼なんてできない……」
僕はそう言いながら、膝を抱えて座り直し、顔を伏せる。誰の顔も、安心感を覚えたはずの男の顔すらも、見たくなかった。
そんな僕の肩にルノの手が触れた。僕は、それを払ってルノから少し離れた。
「……取り敢えず食えよ。振り回したのは俺だが、一日食わないのはダメだ」
「いらない、そんな気分じゃない」
そう言った僕の名が呼ばれたのと、頭が持ち上げられ、僕の眼がルノの存在を捉えたのは、ほぼ同時だった。思いの外まっすぐな目を見て、僕の心は動揺した。
「離せ!」
顔を振って、渾身の腕の力でその手を払う。手が離れたかと思うと、ルノはすぐに、僕の両腕を掴んだ。力の差は歴然で、痛くもないその力の前に、僕の腕は全くそこから抜け出すことができなかった。
「うぅ……」
「何だ、泣きそうな顔してるくせにそんな強がってんのか。……俺に話してくれないか? 何があったのか。少しは楽になると思うぞ」
「何であんたに言わないといけないんだよ。放っとけよ」
昼間、ルノに話して、泣いて、解放されたような気持ちになったのは、僕だ。だから、その言い分も分かる。ルノが僕を心配してくれているのも、もちろん。それでも、今は……何も、誰も、受け入れようと思えない。この男の言葉でさえ、聞き入れられるかどうか、分からなかった。
「……僕は一人でいい。誰も僕の周りにいる必要もない。あんただって、傷つく」
「あのなぁ、つまんねぇ意地張るなよ。星の件聞こえてたぞ」
「……は、聞いてたの? でも、だから何。意地なんか張ってないし今までだって一人で抱えてきたんだからそれでいい。あんたも無理してんじゃないの」
そうだ。たまたまルノがこのタイミングで森凱に来たというだけで、もしそうでなかったら今この瞬間だって、僕は誰の手も差し伸べられずにいる一人ぼっちの存在だ。今までだってそうだった。だったらこれからだって、そうしていられるはずだ。
ただ、この優しさを知ってしまったから、薄っぺらい希望を抱こうとしているのではないだろうか。
「そういう話じゃない」
「っ、痛……っ!」
捕まれている腕に、痛みが加わった。血が止まりそうになっているような感覚がする。それだけ感情的なところが出始めているのだろう。どんなに優しく接してくれても、人は人だ。こうやって、思う通りにならないと力が入って自分を優位に立たせようとする。きっと、もうじき殴られる。怒っている。またその手を振り解こうとしていたが、無理な話だった。
「森凱の奴らと俺を一緒にされたくはねぇなぁ。お前のことは昨日から見ててよーく分かってる、だから敢えて言わせてもらう! 俺は、お前を探しにここに来た! 俺の意志で、お前のこと知りたいし、助けたいと思うからここにいる! もう一度言う、俺の意志だ!」
「っ……! ごめ……っな、さ……っ」
ルノに圧されて、僕の口からは謝罪の言葉が出た。怒鳴られたからか、体中が震えた。
殴られる、と覚悟をした。しかし、いつまで経っても僕の腕は掴まれたままで、痛みも走らない。僕の考えとは裏腹に、ルノの手の力は僕の手元で緩んだ。
「……悪い。お前みたいなの初めてだから、うまくコントロールできねぇ。怒ったみたいになったな」
「え……あ」
そう言いながら、ルノは僕の頭を撫でる。まだ震えている僕のことを気遣って。
こんな、本当に僕のことを思ってくれる人もいるんだ。僕が言った言葉で「そうかよ」と吐き捨てて去っていくこともできるのに。そうせずに、手も上げずに、変わらない温かさを見せてくれる人。
「僕も、悪か……った」
「いや、お前は謝るな。今のは俺が悪い。ちょっと焦った。言いたくねえこともあって当然だし、無理には聞かねぇ。まあでも、取り敢えず食え」
どんなに優しいルノの言葉でも、やはり、今までのことはなかったことにはならない。言ったところで、どうにかなるなんて思っていない。
ルノは僕のために持ってきたという食事の一つを手渡してくれる。僕の手に渡されたのは、おにぎり三つと飲用水。一日食べなかった割には少量だが、僕はそれを頬張った。
「そう言えば、昨日みたいなガキ来なかったな。俺がいたからか?」
「……人は怖いよ。一人じゃ何もできないし、複数人相手でも何もできない。だけど、複数になって、相手が一人だったら、何でもできる気になる。弱いくせに虐める相手がいないと楽しめないんだよ」
おにぎりを一つ食べ終わるタイミングでルノの疑問が聞こえ、素直に答えた。
遠回しに言ったが、そういうことだ。時に残酷な子どもは特に、自身の楽しさ、優越感に浸るがためにそうすることもある。それは、僕がこれまでの中で身をもって知ったことだった。
もちろん、全員がそうだとは思わない。僕を前にしていないときは、普通に遊んで普通に笑っているのは知っている。だからこそ、表に出ない裏ばかりを見る僕は、人に疑心をもつようになったのだ。
「あのね、ルノ。……父さんに、謝られた。痛くて、どうしようもなくなって逃げてきたんだ……」
その対象は自分の両親を含めた“人間”だ。そんな人からもらう言葉を素直に捉えきれないのは、僕が生きてきた環境下にある。僕がここまで取り乱したのは、「どうせそんなこと思っていないくせに」と捉えることしかできずに父から逃げ、僕の気持ちなんて分かってもらえないと思ったこと。それが理由だった。
「……無理に言わなくてもいいぞ」
「ううん。あんたは、信じてもいいかもしれない、から……」
確定じゃないんだな、と言われてドキッとするが、それだけでも進歩したと、褒めてくれた。それも、嬉しそうに。その理由に見当がつかずに尋ねてみると、ルノは笑って答えた。
「お前の荷が少しでも取れていってると思うと、な。来た甲斐はある」
どこまで僕に、優しくしてくれるのだろう。どこまで僕を、気遣ってくれるのだろう。それが堪らなく嬉しくて、それに反して涙が出てきて、戸惑った。こんな感情もまた、初めてだ。今まで誰からも与えられなかったものは、思わぬところで僕の心に溶け込んできた。
「おいおい、また泣くのか?」
「……ルノぉ……っぐ」
「仕方ねぇなぁ」
ぐいぐいと僕の涙を拭くルノは、そう言いながら笑っていた。
暗がりの中でもそれが分かるのは、きっと、多くの星が瞬いて、地を照らしているから。そして、空が晴れ、地を晴らしてくれているから。
それは、僕の心が解放されているかのようにさえ思えた。
ある程度落ち着いて、僕はルノに家を飛び出した理由を話していた。僕を追う前に父から簡単には聞いていたらしいが、詳しくそれを聞き、軽く舌打ちをした。
「お前からすれば、今更謝られてもどうしたらいいか分かんねぇよな」
「今まで散々避けられてたのに。今更何を許せるか、聞けるか、分からない。事実は変わらないし、森凱の人は、飽きもせずにまた僕を虐めるよ」
僕に唯一、救いの手を与えてくれた人は、僕とは遠い場所にいて、僕を残して帰ってしまう。そうすれば、また僕は一人になる。今は素直に、それは嫌だと、思っていた。
「謝って済むなら、お前はここまで一人で大丈夫なんて意地張ってねえだろうな」
「だから意地は張ってないって。……何を言い出すかと思ったら、言い訳を聞かされたんだよ。そんなの、誰が聞いたって出任せにしか思えない」
本当は言葉を信じたい。できるものなら、僕だって笑いたい。素直に、「いいよ」って許したい。でも、それは僕の心が許してはくれない。きっと、僕の一歩は、ルノに対して向けられるべきなんだ。特別扱いもしなくて、護ってくれている。この人になら、許せる気がしていた。
「なぁガネ。一つ聞いてくれよ。俺、昨日初めてお前に会って、感動したんだ。稀な眼だって聞いてきて、どんなもんかと思えば、見たことないけど綺麗で、不思議な感じがした」
「……へえ」
「澄んでて、吸い込まれるかと思った」
「……聞いてないんだけど」
「でもよ、来てみたらそのガキは眼のせいで虐められてるときた。助けたくもなる」
僕が聞いていないのに、勝手に話が進む。その話を聞いて僕の眼が丸くなったのは言うまでもない。ルノはその反応を見て、僕の頭にポン、と手を置いた。
「……恥ずかしい奴」
「何だって?」
プイッと顔を逸らす僕の頬が、僅かに熱を持っていることは、何となく分かった。
だから逸らしたのかもしれない。……つまりそれは、嬉しかったのかも、しれない。
「お、どうした。照れたか? 可愛いとこあるじゃん」
「うっ、うるさい!」
また、あの笑みで僕を覗き込む。そんなに僕の顔を見るのが楽しいだろうか。
いや、違う。楽しいというよりも。この人は、僕と普通に話ができて、僕がこうして心を開けていっていることを感じて、喜んでいるように見える。その真偽は、尋ねて違ったらと思うと聞けなかったが、ルノは自分からまた勝手に「良かった」と言った。
「そろそろ戻ろうぜ。大分冷えてきたからな」
よっ、と立ち上がると、僕の腕を引いて、立たせてくれた。そのまま手を繋いで、ルノは歩く。
「はっ、恥ずかしいだろ!? 離せよ!」
「こんな時間じゃ誰も歩いてねーよ」
そんな僕に構わず、ルノはぐいぐいと引っ張って行く。
まだ夜も明けない時間。外にいるのは僕とルノの二人だけ。恥ずかしさとは別に、僕は少し嬉しくなって、背丈に合った大きな手を握り返した。
「……いいなぁ」
ぽつり、そう呟く。ルノが聞いていたかどうかは分からない。ただ無言で、ルノは前を歩いていた。
「……ルノみたいな兄さん、ほしかったな」
そう呟く、僕の手を離れないように、しっかりと握って。
僕たちは家に着くまでにしばらくの寄り道をしながら、時間をかけて家に戻った。すでに両親は眠っているだろうと静かに家の中に入ると、この日に限っては両親は起きて待っていて、四人でテーブルの椅子に腰を掛けて話をすることにした。しかし、ルノに先に風呂に行けと促されて、素直にしばらく席を空けた。