第六十四話 黒ノ眼ヲ誘ウ者ト失望ノ灰
僕を探したというこの男は、僕の名前も耳に入れてこの家に来たらしい。この朝早い時間に、何の用があってわざわざ足を運んできたのか、その見当はつかなかった。僕は呆れたように言葉を向けた。
「何しに来たの」
「昨日屋敷に来ないかって聞いただろ? だから確認だよ。よくあるだろ、息子さんをくださいって」
「彼女作れよ」
「そういう文句は通じるのに冗談は通じないな。まあ子どもはそんなもんか」
昨日と何も変わらない声色と表情で、そしてここに来て僕と普通に話してくれることは素直に嬉しかった。これまでそんな付き合いがなかった僕には、新鮮な刺激だった。その様子を見て何を思ったか、両親に目を向けてみるとその顔は呆然としていた。
「あの……どうしてこの子と、そんなに……」
「そんなに? え、喋れるかって? こいつから目を背けたのは自分たちのくせに、俺が珍しいですか?」
それを聞いた両親は、その目から自らのそれを逸らし、俯いた。返す言葉が見つからないのか、今度はお互いに顔を合わせて困ったと言わんばかりにしばらく黙り込んだ。その沈黙を破ったのは、やはり来客側のその男だった。
「まあ、ビビらねーって言うのは百歩譲って無理だろうけど……。それでも普通に、あんたらと同じように生きてんだ。それを、自分とちょっと違うからって、避けるのはどうかと思いますが」
そこまで言うとニヤリと笑んで、両親と僕を一度ずつ見た後、席を立って僕の方に歩いてきた。とはいってもすぐ近くの距離だったため、目の前にその人が来るのにそう時間は必要なかった。すぐ横まで来ると、その手は僕の腕を掴んだ。
「うわっ」
「てわけで、ちょっと借りていくぜ。今日中には返す!」
引っ張られながらも抵抗を見せてみるが、それは無駄な努力だった。陽気ともとれるその声は、僕の目の前で聞こえてくる。一方で、あっという間に視界から消えていく両親は、動くことなくただただ僕たちを見ているだけだった。
僕は、その男に拐われるかのように、外に連れ出された。
「いきなり何だよ」
連れてこられたのは、昨日いた鈴屑の丘だった。この場所は嫌いではない。別に構わないが、一緒にいるこの男のことはまだ読めない。警戒心を持っていたのだが、それとは別に、ある一つの感情が隅っこの方で根を伸ばし始めていたことに僕が気付くのは、また別の話となる。
「そう構えるな。心配しなくても、俺は明日帰るから」
「明日?」
「三日だけ行ってこいって言われてんだよな。これも教育師になるためだって、師公が言うから」
そうなんだ、と言葉を紡ぐと、またニッと笑った。その笑顔は、どういうわけかとても安心して見られる笑顔で、それを見ることによって感じるものに、むず痒さを感じていた。それを言葉で表すことは、今の僕では叶わなかった。
「へー、関係ないって言うかと思ったら。なかなか素直な面もあるじゃねーか」
「今のに対して他に何て返せばいいんだよ」
言って欲しかったのだとしても、別にもう一度言おうとは思わないが、そう言われて本当にどうでも良ければ確かにそう返したはずだ。この時点で、確実に今までとは違うものを感じ取っていることを自覚した。その自覚がばれないように顔を背けると、その人は僕の頭をつかんで、顔を見合わせるためにぐるりと自身の方に回転させた。当然だが、痛い。
「あ、悪い。……その顔は、痛かったか」
「……何」
僕の言葉に返すことなく、じっと僕を見るものだから、僕も負けじと相手を見返す。
これまでの普通であれば、この眼に怖気づいて、離れるなり逃げるなりの行動を取られていた。今目の前にいる相手は全く動じない。その人の余裕というべきか、毛ほども気にしていないのだろう。ここまで見られると、逆に僕の方が逸らしたくなってくる。無理やりにでもその手を払ってやろうとしたところでちょうど手が離れ、うんうんと一人で納得している男が目に入る。
「見れば見るほど綺麗な眼してるよな。ったく、そんな子を見放す親の顔見てみたい」
何を言い出すかと思えば、恥ずかしい奴だと思う。でも、この眼を綺麗だなんて言ってくれた人はもちろんいなかったし、嫌な気はしなかった。けれど、それが僕をその気にさせるための口先だけのものだったらと考えると、それを素直に受け入れることはできなかった。
「……いや、さっき見ただろ」
「え? あ、そっか。見たな」
こんな人が、教育師とやらになって大丈夫なのだろうか、と思ったが、敢えて口に出さない。
そんなことよりも、いくら行って来いと言われたからといってここに来て、動じないこの男の心境は、気にならない方がおかしいほど、僕に興味をもたせていた。
「……あんた、本当に変わってる。僕が見ても逸らしもしない」
「逸らす理由ねぇだろ。それより、俺の名前呼んでくれよ。親近感ねぇんだけど」
この人の言い分も分かる。でも、僕からすれば突然こんにちはと現れ、「ルノタード」と名乗り、僕をのけ者にせず当然のように接してくれる、いわば史上空前ともいえる出来事が起きているのだ。もちろん、この人を信用できたかと言えばそうではない。しかし、嘘を言っているようにも、裏があるようにも見えないのもまた事実だった。
だから、この男の名前なら憶えてもいいかもしれない。そう思って口に出そうとするが、何か、感じたことのないものがこみあげてきていて、発せられずにいる自分がいる。
口を開いたり閉じたりして、何とか理由をつけて誤魔化そうと必死で考えた。
「……別に、僕は親近感をもとうとしてるわけじゃない。あんたの名前長いし」
その結果こうなったのだが、最後の言葉は余計だった。それを聞いたその人は、またもニヤニヤとして、言葉を紡いだ。
「じゃあルノでいい。呼びやすいだろ? ルノって呼ぶ奴結構いるしな!」
「だから、親近感持とうとしてるわけじゃないって言ってるだろ!」
「決まりだな」
「勝手に決めるなよ! 僕はっ……簡単には信じない!」
それを聞いて、その男がどう思ったのか。態度を変えることなく、むしろ微笑んで、僕の頭をなでる。
その行動の意味が分からなかったが、一つだけ分かったことがある。「信じない」と言って、なおこうしていてくれること。本当に僕を怖がったり、人と違うからと蔑んだりしようとしているのものではない。
そう思うと、顔の筋肉が引きつってきて、歯を食いしばって耐えるので精一杯になっていた。
「……それは、本心が出たな?」
「……っ、何で……あんたはそうやって……」
「何でって言われてもなぁ……」
「僕……こんなに話したことないんだ……。あんたは、勝手に僕を敵にしてるやつらとは違う」
そう、違う。これまでと、今と、明確にある差。それが僕に、日差しを通してくれている。
「あんただったら、信じたい……。だけど、どうしても、裏切られるのが、怖くて……っ。僕が悪いのか……? ねえ、僕がこうして生まれたのが悪いのか……!?」
けれど、耐えていたものは一気に溢れてきて、感情的になって、その人に当たってしまう。どうしてかは、分からない。閉じた瞼の内から、ぽたりぽたりと出てくる涙は、次第に止めどなく流れていき、頬を伝い続けていた。
「……言いたいことは、それだけか? 親にも言えてないこと、まだあんだろ?」
こんなに止まらない涙は、これまで生きてきた中でも一番長い涙だった。自分の手では拭いきれなくなってくると、その男は自らの手を僕の涙で濡らした。
「ひっ……うぅっ……うあぁ……」
「全く……こんな子どもが、“苦しい”ってのをどれだけためてたんだ。避けられるせいで何も言えずに、よく耐えてたな」
僅かに開いた瞼の奥の眼は、勢いを緩めない涙が地面の色を変えていたのを見た。茂っていた草の緑は、鮮やかなものから、少し濃い緑に変わり、水滴の重みで何度も葉が揺らめいていた。
「悔じぐて……仕方ながっだ……っ! だからっ……あんだと、っく……いると……むがづく……!! どっか、行けよ!」
嗚咽を漏らしながら、言葉とは裏腹にその人の衣服にしがみついていた。確かにイラついていたし、こんな気持ちになるなら関わらないでほしいと、そう思ったのに。手に込められる力は徐々に強まっていた。
「……そうか。今までにない感情が出てきたんだな。お前は心の傷みが、誰よりも分かるだろ。だったら、間違ってもお前はそんなことするな。それだけで、お前の抵抗になるはずだ」
そんな言葉を聞きながら、僕はずっと泣いていた。
ずっと、ずっと。
あれから、どれくらい経っただろうか。
僕の瞼は、泣いて疲れたせいか、徐々に閉じようとしていた。そんな僕は、彼の背中にいた。
「俺、ちょっと諦めてたんだ。お前が俺に全然慣れてくれねーからな。まあ、たった一日二日だし、難しいよな。けど、少しは信用してくれたみたいで安心した」
「……ねぇ」
「何だ?」
「僕……生きてていい……?」
必死で目を開けながら、その背中から伝わってくる温もりを確かめようと、そう尋ねた。今まで生きることに執着もなかったから、そう聞こうと思ったのは、少なからず今僕を抱える存在のせいだと思いながら、答えを待っていた。いや、待つという表現は相応ではない。それに対し、彼は間髪入れずに返してきたのだから。
「ったりめーだろ。生きてて悪い奴なんざ、いねぇよ」
そう返してくれた。けれど、僕はどうしても、今の僕に向けて繕った言葉かもしれないと、信じ切ることはできなかった。それでも、自分の中では十分なほど、信用できないなりの安心感をもち、わずかに受け入れ始めていた。
その言葉が、その温かい言葉が、嬉しくて。仕方なかった。
「ありがとう、……ルノ」
僕は、初めて彼の名を呼んだ。
その時間は、既に夕日が見えていて、伸びる影は長く、赤く染まる景色にいつまでもその形を残していた。
その後、家について目が覚めるまで、穏やかに、静かな夢を見て、見慣れた景色に意識を戻した。
一日食事をとらなかったためか、今日はいつもより空腹感に襲われていた。彼は、僕が寝た後もずっと一緒にいてくれたらしい。自室で目が覚めた僕の前に、彼は当然のようにいた。
「よう、勝手に邪魔してるぞ」
どうやら背負ったまま家まで運び、その流れで僕の自室にいるようだ。両親は家にいたはずだけれど、朝の反応からするに、その状態になっていたことにはさぞ驚いただろう。その両親はルノがいるからか、僕の様子を見に来る気配はない。
「今日ちょっとだけ思ったんだ……人の心が覗ければいいのに、って」
「……僕は、見えない方がいい。どうせみんな、思ってることは変わらない。それより、明日……本当にいなくなる?」
「何、寂しいか」
「……いや。また、一人になるのかな、って。あんたといて安心できたの、僕もびっくりしてる」
「教えてやる。それを寂しいって言うんだ。本当に世話されてねぇんだな」
きっと、彼の言う通り、世間一般で言う世話は、僕は受けていないと思う。食事、睡眠といった生きるために必要なものは日々こなしているものの、それ以外の物欲や、愛着、構われたさは僕にはない。両親にその気がないのもいつからか分かっていたし、外に出ればあの嫌がらせが身に降りかかるのも、幼少期から身をもって知っている。それならそれでいいと、それ以上になにも望まなかったのも事実だ。
「世話なんか、してもらおうとも思ってないよ。森凱、僕がいてもいなくても同じだ、出て行けるなら出て行きたい。だけど、よく考えたら、この眼をしてる限り、どこにいても同じなんじゃないのかって思ってる」
「へえ、それで?」
「……一つ、聞いていい? 僕の機嫌をとるために芝居をしてる?」
「そんなことねえよ。やっぱまだ、そこまで信用してねえか」
「簡単に人を信じないって、言っただろ」
僕の眼は、すでに彼を捉えてはいない。明日いなくなる。そう考えると、鼓動が速くなってきた。今目の前にいる人が、明日離れていく。またいつも通りの毎日が来る。そう思うと、分からないけれど、また顔を出すこの感覚。考えても、出てくるものは、彼が言った言葉。
─“それを寂しいって言うんだ”
辿りついた答えに、ああそうか、と納得した。これが、「寂しい」という感情だ。
「……さっき、人の心は見えない方がいいって言ったけど、人の親切が見えるなら、そういうのは、見えてもいいかもしれない。気付かないで、信用できないだけで傷つけてるなら、そういう温かいところは、知りたい」
「何だ、いいこと言うじゃねーか。それ俺?」
「誰がルノって言ったんだよ。親切って言うより世話焼きだろ」
もちろん、僕がそう思ったきっかけはルノだ。でもそんなこと本人に言ってやる必要もない。というよりも、言いたくなかった。誤魔化したものの、彼は笑って応えてくれた。
昨日会ったばかりで、全然相手のことを知らないのに、どうしてここまで、僕に優しくしてくれるのか。どうして僕が落ち着いているのか。
「どうした?」
「え、……ううん。何でもない」
ルノと話す時間。それはとても居心地の良いもので、余計なことを考えなくて済んでいた。そんな中に、自室の扉をノックなしに開けて入ってきた人物。父親のせいで、その空気は一瞬でぴりっと張り付いた。
「ルノタードさん、でしたね。そろそろ、帰った方が……」
「え? あぁ、もう再の三時か……いや、急で悪いんだけど、泊めてくれませんか」
悪びれる様子もなくそう言うものだから、僕は当然驚いた。昨日だって、一晩は離れていたからその時間どうしていたのか。
「聞けよ、冷てーんだ、誰も入れてくれねーの。屋敷あんの銘郡だし帰るに帰れない。外れにあった集落で泊めてもらったんだよ」
屋敷とやらに帰ったのかと思っていたが、部外者を泊めてくれる家は森凱にはなかったらしい。
「そ、そういうことなら……、まあ、構わないが……」
「じゃあ、俺奥さんにも一言言って手伝って来ます。一人増えるんだから大変だろ」
一人増えても何ら変わりはないと思うが、父は、ルノをすんなりと母の元に向かわせた。
そんな状況だ。父親と二人になることは免れない。父は何を思っているのか、なかなか部屋から出て行かない。早く出て行けと言ってやろうとしたところ、父から「話をしたい」と言う言葉が出たことに驚いた。
「……今更、何」
「すまなかった」
「は?」
そして、次いで聞こえてきた言葉に、また驚いた。それは、何に向けられた謝罪なのか。僕に向けてなのか、僕の眼に向けてなのか。突き詰めようとも思わないが、そんな謝罪で何の話をするつもりなのかと少しだけ耳を貸した。
「このままではダメだと、分かってはいた。頭の中では、お前が大切だった。けどな……、どうしても、受け入れるのに時間がかかったんだ」
だけど、聞こえてきたのはそんな言葉で。これまでしてきたことを、その一言の謝罪で僕を揺すって許しを請おうなんて、よく思ったものだ。
これまで僕が耐えてきたこと。言われてきたこと。過ぎて行った時間と関係性。それらが、すべて、悪い意味で崩壊した瞬間だった。
「だから、何だ」
「ガネ……?」
「ふざけるな!!! 僕が、今までどんな思いでいたか分かるか! 今更、何の言い訳聞かされてるの!? それを僕が、どんな思いで聞いてると思ってんの!? これ以上僕を苦しめてどうしようってんだよ!!!」
僕らしくもない、今まで冷静でいられたはずの僕は、声を荒げて部屋を飛び出していた。こんな家。こんな親。こんな地。すべてどうでもいい。僕のことはそっちのけで、自分の保身のための言い訳しか考えられない人の屑しかいない。居場所なんてなくてもいい。ただ、今はそれに耐えられるような心境じゃない。
玄関の扉に向かってひたすらに走った。その音で気付いたのだろう。
「何の音……、ガネ!?」
ルノの言葉に耳を貸さず、後ろから追ってきた父の制止も振り払い、そのまま扉を勢いよく開けて裸足のまま外に飛び出した。
「おい、何があった!」
「いや……私もどういうことか……ただ、今まで悪かったって、どうしても時間がかかったんだって言ったら……」
「てめぇそれでもあいつの父親か! 森凱じゃ四面楚歌も同然のガネが、今まで何の手も添えてやらなかった奴に言い訳聞かされて“はいそうですか”ってなるか! あいつもバカじゃねえ! 謝罪一つで傷が癒えると思うなよ!」
その後、ルノが僕を追ってくることは、予想できた。
それでも、僕は息を切らせながら、暗い中に溶け込んでいった。