第四十九話 黒ノ壊シタ能ト失セル歪
体を氷で纏った状態になった泰は、とうとう強硬手段に入り始めた。穏慈を全く相手にせず、直接俺に向かってきた。
「くそっ!」
それに対抗しようと、無意識に数歩後ろに下がりながら鎌を振った。しかし、身を遠ざけながら振っても空振りするだけ。バランスを崩した俺は、鎌を手放し尻餅をついた。
すぐに鎌を持ち直して立ち上がり、前方から向かってくる泰の氷に包囲されないように、その腕のように作られた氷に向かって鎌を振る。しかし、俺の鎌はものともせずに受け止められ、残った片側が俺に迫る。このままでは触れられてしまう。鎌を一度“封化”し、隙間を縫ってそこから脱出した。
その次の瞬間には、泰が作った片側の氷の塊を穏慈が突き破り、破片が飛び散っていく。それだけを見ると、闇にわずかに輝き綺麗だとすら思えた。
『侮ったな』
そう言って俺の横に戻ってくると、俺の身を案じた。特に氷に触れてもいないため、今のところ大丈夫だ。泰はというと、それでも懲りずに再度俺に向かってくる。
『まだいけるな?』
「まだ、ね」
その答えを聞いた穏慈は満足そうな顔を見せ、再び足を放した。俺は向かってくる泰に鎌の刃先から氷に当てられるように構え、自分の足で走っていくと、目の前に来る氷に向かって思い切り当てた。
バリッという音が聞こえて欠けたが、大きな打撃は与えられなかったようで、何事もなかったかのように俺にそれを伸ばしてくる。
また距離を取ろうと後退するも、体に纏われた氷が俺の背後に移されていて、それ以上下がることができなくなってしまっていた。
何とかしようともう一度鎌を向けた時、その氷の腕が鎌ごと俺を吹っ飛ばした。
「いっ……」
体を起こそうとした時には、すでに氷が目の前まで迫って来ていた。そんな、身動きができなくなってしまった俺の前を、背後の氷を壊した流れで風を切るように穏慈が通り過ぎていった。すぐそこで足をつけた穏慈がこちらを振り向くと、泰の腕を食いちぎり口の中で粉々に噛み砕いていた。
『……ちっ、不味い。……何ともないかザイヴ。奴の一部である氷は、いわば怪異としての生存源。それを打ち破った今、泰は二度と怪異には戻れん』
「助かったよ……」
恐らく、怪異を失った泰、いや、“シュウ”は、アーバンアングランドへ送り返されているのだろう。人として成る彼女は、この場にはふさわしくない者だ。
『怪異を棄てた……一度そうなってしまえば、人としてあれるか……ふん。トドメはさせなかったが、奴は使いものにならんだろう』
「そうだね……」
泰が消えたことをこの目で確認してから、歪の状態を見ると、やはり歪は広がっていて、人が横に約三人並べるほどになっていた。
恐る恐る鎌を解化し歪に向けると、白く光り、その光は周囲にまで溢れた。その輝きに魅入っていると、穏慈が俺の背中を軽く押してきた。
『鎌を縦にして、上から軽く振ってみろ』
「あ、ああごめん。縦ね」
『広げたら滅ぶからな。慎重にしろよ』
穏慈の助言通りに構え、深呼吸の後に集中した。十分な間を空ける、気持ちが落ち着いたところで、思い切り振り下ろす。
「はっ!」
耳につくような鋭い音が響き、強く輝いた歪はギチギチと閉じ始めた。完全に塞がったところで、俺の体が感じていた緊張感が解ける。鎌を封化させ、穏慈の体に倒れ掛かるように体を預けた。
『……何とかなったな』
歪がなくなった時に、吟と深火が目の前に現れた。吟もいるということは、今度こそ何か判明したのだろう。あの肉塊も、吟の手の上にあった。
『泰ガ、イタヨウダナ……。肉塊ハ、ソヤツノモノ……ダッタ』
「え!?」
『なるほど、歪を作った時に反発されたんだろうな……』
肉塊の正体を聞いた瞬間、穏慈にかけていた体重を自分に戻した。無理矢理空間を捻じ曲げたから、体に異変が出たのだという。それにしても、そうまでして俺がここに来るのをこちら側で待っていたとなると、崚泉でのことが終わってすぐに行動をしていたのだろう。
「滅茶苦茶だ……」
『……歪ハトジタヨウダナ。デッド、礼ヲイウ』
本当に大丈夫かどうかは不安だったが、吟がその不思議な体で、俺を包んだ。大きな包容力と、安心できる声色に、本当の意味で落ち着いたことを実感していた。
二つの世界は、無事だ。
それから、深火がいることでついでにと、方舟がどうなったのかを尋ねた。すると、深火の体内に浸透した、と返答を受ける。ここに来るとアーバンアングランドにいた時とは違った状態になることに、少し感心した。しかし、もともとあの方舟の中が居心地がいいと言って離れなかったのに、浸透して良かったのだろうか。
様子を見る限り、俺の考えとは裏腹に気にしていないようだし、問うことも野暮だと、言葉にはしなかった。
『体を休メルのだぞ』
「ありがとう、深火。もう吟に心配かけんなよ」
こうして怪異と普通に関わっていると、俺がここに馴染んでいるのを感じる。一方で、このまま〈暗黒〉の世界に染まってもいいのだろうかと、葛藤が生まれる。人間として生まれ、人間として育ったはずの今の俺がこのまま進んだ先に、俺としての道はいくつ伸びているのだろうか。
そんなことを考えても現状が変わるわけもなく。とりあえず〈暗黒〉で歪みの件を解決し、方舟のこともなんとか落ち着いた俺は、穏慈をおいてアーバンアングランドへ戻った。
......
少年が戻って来る、その少し前のこと。
日が昇り、多くの人が活動を始める時間。俺も目を覚まして体を起こし、瞬きを何度も繰り返していた。昨日とは確実に違う感覚に、俺は良い意味で動揺していた。その動揺から体は強張り、目頭が熱くなっていた。そんな状態の時にガネさんが医療室に入って来て、俺の様子を見てすぐに声をかけてきた。
「おはようございます。……どうしました?」
口を動かしながらもなかなか発声できずにいたが、ガネさんはじっと待ってくれていた。
「……た、俺……」
「え?」
「良かった、俺、見え、る……」
その言葉に、ガネさんが少しだけ目を丸くして、そしてすぐに安心した顔になり、涙が溜まっている俺に紙タオルを渡してくれた。
「それでそんな顔してたんですか。……安心しました」
俺もガネさんも今の状態を素直に喜び、感動しているところにゲランさんが昨日と変わりない様子で入ってきた。
「あ、ガネがラオガを泣かしてる」
「第一声がそれですか。僕たちの心の置き場再設置してください」
「はあ?」
訳が分からないゲランさんに、俺は視力が戻っていることを伝える。念のために検査をすると言われ、ゲランさんが座る椅子の前に歩いて移動する。
元通りとまではいかないが、生活に支障がない程度には見えているため、それくらい容易かった。ゲランさんの前に座ると、彼は生き生きとして俺の検査を始めた。
「ゲランさん、あの、何で楽しそうなんですか」
「あ? 気にすんな」
そんなことを言われても、もの凄く気になる。と、言い返そうと思ったが、検査をしてくれるだけありがたいと、口に出さなかった。
検査を終えると、俺は着替えるために、一度部屋に戻った。着替えて部屋を出ると、このタイミングでウィンと出くわした。
「あれ!? ラオ、一人で大丈夫なの!? まだちゃんと見えて」
まだはっきりと見えていない、と思っているウィンに微笑みかけ、「大丈夫」と言うと、ウィンは目を丸くして、顔をほんのりと赤らめた。目が潤ってきているのを見て、俺の手は自然とウィンの頭を撫でていた。
「良かったああああああ」
「何でウィンの方が泣きそうになってんだよ。俺このまま医療室に戻るけど、来る?」
もちろん、と言うウィンと並んで、話をしながら歩いていると、前からオミが来た。俺の様子を見て、見えるようになったことを察したようで、軽く笑う。オミも進行方向を変えて、共に医療室に向かった。
俺たちが医療室に戻ると、ゲランさんとガネさんは勿論、ソムさんもいた。
医療室は本来ない賑わいを見せている。他の手を煩わせない程度に回復したため、ゲランさんの許可が出れば、俺は部屋に戻れることになった。
「……あ」
俺が眠っていたベッドに腰をかけたところで、何か落ち着かない感覚に襲われた。これはきっと薫が来ようとしているのだろうと思っていると、俺の横に本当に現れた。
『……何だ、もう良いようだな』
「お陰様でな。っていってもお前途中からいなかったな。気にしてた?」
『私の失態だ。主にきつい思いをさせたのだ。しばらく一人で過ごしていただけだ』
プライドが高いのか気にしすぎなのか。そこまで気にしなくても、と思ったが、俺が思っているよりも落ち込んでいた様子。それ以上は言わなかった。
「……なぁ、それより、俺の鋼槍……知らねーよな?」
『……まさか、失くしたなどとほざくのではないだろうな……喰い殺すぞ』
それを聞いた薫の顔は、先ほどまでと一転して曇った。まさしくその通りだが、喰い殺すとまで言う始末だ。
「仰せの通りです」
深々と頭を下げながら、顔を見ないように答えた。何故かって、本当に喰い殺しにかかってきそうな険しい顔をしていたからだ。今度は俺の心が折れそうになってしまう。
『仕方のないガキだ』
大きくため息を吐く薫に対し、俺も薫に負けず劣らずなため息を吐いた。
「まあまあ、探せばいいじゃないですか。使い手を選ぶ〈暗黒〉の武具でしょう?」
「よし、それはそれでお前らが解決してくるとして。ガネ、今日は講技行けよ。てめーできるときはしねーとそのうち跳ねられるぜ」
「ゲランに言われるのは癪です。もう一度僕が言います。今日は講技に行くので、ザイ君が戻ってきたら探してください」
「ガネのゲラン嫌いは相変わらずね……じゃ、私も行ってくる」
その場から教育師が二人いなくなると、オミはゲランと話を始めた。オミはゲランさんの性格をしっかり分かっていて、何となく話が弾んでいる。
「……薫、ごめん」
『いや、そもそも私の失態……何度言わせるつもりだ貴様』
二人で探しても、何の手掛かりもなく、人手も見た通りだ。俺たちは、ザイを待つことにした。
それから数分後。
医療室には、俺とザイが二人。ゲランさんは席を外すと言って部屋を出ていった。薫は先に探しに行き、一人で暇な時間を過ごしていた。
(起きねーかなー)
何気なく隣のベッドに横になっているザイの頬を引っ張ってみた。何の反応もないが、特に何も考えずに繰り返してみる。あと一回、と手を伸ばしたところで、ザイが細く目を開けた。
「あっ」
我に返って手を止めると、ザイはその様子に気付いたのかじっとりとした目で俺を見ていた。その目が俺から逸れることはなく、そのままつまんでみると、軽い痛みと共に俺の手は弾かれた。
「本当に何してんだよ。はーっ、疲れた……」
「ん? あれ、ザイ怪我してる」
「え? あ、本当だ……えっ!? 待って、ラオ見えてる!?」
ラオが指差す場所は、首筋と右腕。見ると、確かに掠っている傷があった。気付かないくらいの傷だ。深い傷ではないし、いつ怪我したのかも覚えていない。
そんな怪我に、ラオは気付いた。少し見えるとは言っていたけれど、こんな傷に気付けるということは。思わず、ラオの顔を手で挟んでじっと目を見た。
確かに、前とは違って少し光が戻っている。それが分かると、目頭が熱くなった。
「えっ、ちょ、ちょっとザイこんな至近距離で泣くなよ……俺にどうしろっての」
ラオの言葉でハッとして手を離す。安心して出かかったものを引っ込め、ベッドから起き上がった。
「……思ったより早く見えるようになってくれてたから、嬉しくて」
「うん。俺も嬉しい。ウィンはちょっと泣いてたよ。……それよりさ、ちょっといい?」
そう言うラオの顔を見ると、どこか深刻そうな顔をしている。まさか、今度は屋敷で何か問題が起きたのかと、真剣に耳を傾ける。
「何、どうしたの」
「鋼槍が、行方不明に……」
鋼槍と聞いて、反応できなかった。鋼槍とは一体……と思って記憶を辿ると、ラオが持つ〈暗黒〉の武具だということを思い出した。
「……ああ! 鋼槍! え!? ねえの!?」
「あ、浸透してない感じね。うん、俺が憑かれたくらいから見ないんだ。さっき部屋に戻ってみたけどなかったし、探すの手伝ってくれない?」
「それは別にいいけど……薫は?」
「先に探しに行った」
あの怪異はそういう性格だろう。とにかく行動する派だ。
俺はその鋼槍探しを手伝うことにし、早速医療室を出た。
どこにあるか予想もできなかった俺たちは、あらゆる場所を探すために足を進めた。
△ ▼ △ ▼
「皆さんお久しぶりです。調子はどうですか?」
僕は数日ぶりに、応用クラスの座学部屋に顔を出した。その時の屋敷生の顔は、確実に僕を恐れていた。今日も講技がないと思っていたのだろう。引き締まった顔が多く目に入る。
「何です? 後ろめたいことがなければ焦ることもないでしょう?」
前にザイ君の動きを見て、負けないように頑張るなんて言っていた威勢はどこへやら。少し目を離すと気が抜けてしまうのは、この面々の悪い癖だ。
「きょ、教育師……あの……」
「はい」
「ここで、何が起きているんですか? ホゼ元教育師のこともだけど、基本クラスの広間も……」
屋敷生の一人が、恐る恐る問う。確かに、長期休暇明けから事件続きで、不安になるのも無理もないことは承知している。しかし、広間の件は怪異絡みだ。下手に喋れば、未だに屋敷内に広めたくないというザイ君のことが漏れてしまうかもしれない。
「調査中です。心配しなくても、危険だと判断した場合はしっかり対応しますから。それよりも、今日の講技は通常通りですが、明日は水対応の講技をします。準備してきてくださいね」
「あれ相当疲れるんだよな……」
「おぅ……死ぬなこれ」
皆、この講技は好きではないようだが、今いる彼らはまだ良い方だろう。肝心の彼は泳げない、ということを聞いている。明日は何としても参加してもらおうという密かな策だった。
△ ▼ △ ▼
屋敷を隅々に渡り鋼槍を探すが、中は存外広い。そもそも手元に見当たらなくなったのが憑かれた時くらいというのだから、難航していた。
「くっそー……見つからなかったら薫怒り狂うだろうな」
「多分ね。俺は知ったことじゃないけど」
「えっ!? 俺の身案じて!」
薫が怒り狂うのはラオに対してだろう。俺は俺で、その騒動には巻き込まれないように穏慈に庇ってもらうつもりだ。
「はぁ、にしても見つかんねえな……」
医療室の前の通路に戻って来て壁にもたれ、ラオは肩を落としてその場に座り込んだ。座り込んでいると、医療室からゲランさんが出てきた。
「おぅ、テメーら起きてたのか。戻ったらいねーからちょっと焦ってたぜ」
「ああごめん。今ラオの武具探してて」
「あー言ってたな。ま、精々頑張れ」
一緒に探してくれるかと思ったが、お供する気が全くない。そんなところだとは思っていたこともあり、大した痛手ではない。
「はぁ……」
それでも少しくらい知恵を貸してくれてもいいじゃないかと思い、「ケチ」と小さく声に出した。すると、自分に対して言われたのだと分かってか、ゲランさんは部屋から出てきた。
「何だ?」
「べっ、別に何も!」
地獄耳かと、一瞬で血の気が引き、ラオの腕をぐんぐん引っ張ってその場を離れた。医療室の前から離れるだけでは安心できない。俺はラオの部屋の前まで速足で進んだ。
「ザイ、こんなとこまで来なくても」
「あ、いや。ゲランさん見てたら本能的に……」
「ああ、うん……分かる」
屋敷生にそういうところを分かられてしまう医療担当教育師とは、一体どういうことだ。ため息を吐きながら、俺は掴んでいたラオの腕を離した。
「見つかる気配もないな……。憑かれる前はあったと思うんだけど……」
その言葉を聞いて、俺には可能性が見えた。屋敷にあるとばかり思って探していたけれど、そうでないなら当てはある。
「ねえラオ、〈暗黒〉は……?」
「え、あ、盲点だった! そういえば憑かれたのあっちだな」
『やはりそうだったか、阿呆が』
ある程度探してここに来たのか、ラオの後ろから声を放つのは薫だった。突然の声に、俺もラオも驚いて距離を取る。
「あー! びっくりした!」
「ていうかよく俺たちの場所見つけ……あ、お前は嗅覚が良いんだっけ」
『全く、貴様らは世話が焼ける』
世話が焼ける主でどうも申し訳ない。
ともあれ、その可能性を賭けて再び〈暗黒〉へ行くべく、ラオの部屋に入れてもらい、間もないそこに意識を投じた。