第四話 黒ノ鎌ヲ要スル契
その夜。俺が眠ると、もはや当然と言わんばかりに〈暗黒〉に来ていた。しかし、今までとは明らかに空気の重さが違うことに気づく。言葉に表すとすれば、憎悪、悪寒、悪臭といったものだ。良くないことが起こっているのでは、と直感で察した。
『来たか』
背後からの声に驚いて、少しだけ体が強張る。振り返ると、もう初めほど恐怖を感じなくなった怪異がいた。
「なっ……んだよ……。お前……」
『ふむ、……その顔だと、まだ我を信じられぬといったところか。お前は我が見つけ、その存在を認めたのだ、もう少し堂々とできんか』
冷静すぎる怪異の言葉が癪に障る。認めたと言いながらも、未だにその名は教えてくれない。そのせいもあって、恐怖が取れきれないのではないだろうか。
「うるさいな。怖いのを怖いっていうのに、何が悪いんだよ。正直でいいだろ」
『まあ、そうだ。しかし怖いという割に、こうして我を前に受け答えをしている。……面白い』
自身が見つけたからとは言え、俺が怪異の期待に答えられるとは限らない。そのことは承知の上でいるのだろうか。
それに、俺が〈暗黒者-デッド-〉という立場であることだけで契約をしようとする理由については、自分の中で納得していない不透明なものが残っている。
『……ザイヴ、本題に入る。お前に我の名を“渡す”代わりに、我と契約できるか? お前の死を、防ぐためでもある』
―俺に、死が待っているかもしれない。
それが示唆された瞬間、さっと血の気が引いた。契約しないのであれば用はない。という意味で、脅しの可能性も捨てがたい。
『お前の能力は強い。だが、ここでは所詮人間だ。喰おうと思えば喰える。言った通り、〈暗黒者-デッド-〉はここに必要な存在であり、しかし実際存在し得ぬもの。それを喰うという方法で期待される力を求める怪異は多いぞ』
「……!」
その言葉は、俺の疑問を納得に変えた。つまり、この怪異が俺を「認めた」というのは、俺という人間が、〈暗黒〉に存在してる時点であり得ないこと。そのようにしてここに存在していること自体を指している、ということに気づいた。俺がどうこうではない、俺が今〈暗黒〉にいること自体が、怪異にすら有無を言わさないというわけだ。
「それが、お前が認めた理由……」
『……そういうことだ。さあ、どうする』
─契約せざるもの、存する意味無し。契約するもの操者なり。
「〈暗黒〉からは出られるのか? もし契約しなかったらどうなる?」
『お前が住む場所に戻ることはできるが、契約しないと言い切るならば、戻った後の命の保証はできん。死ぬまで、喰われるまで怪異に追われることもあり得る。お前の住む場所に行くことのできる怪異もそれなりにいるからな』
契約をするかしないか。それによって、俺の生き方が決まる。もしも俺のせいで、周りも被害に遭ってしまったら。それは、考えたくないことだ。
そうとなれば、やることはおのずと決まっていた。
......
昨日約束した時間になり、俺はウィンを連れてザイの部屋の扉の前に来ていた。中は昨日の朝と同じように静かで、俺が扉を叩く音だけが耳についていた。応答はなく、仕方なく扉を開けるためにノブに手をかけた。
「ザイー? 入るよー?」
「ラオ、だめだよ勝手に入っちゃ! ちょっと待ってようよ。着替えてるのかも知れないよ」
俺が連れているウィンは、俺の幼馴染。同時に、ザイの幼馴染でもある。年は二歳離れているけれど、気兼ねなく関われる親友だ。約束とはいえ、勝手に異性の部屋に入るのは気が引けるらしい。
「しょうがないなあ。ウィンは待ってて、俺が見て来るから」
返事がない。おかしい。彼の場合、単純に起きていなくて返事がない、ということが今までになかったわけではない。しかし、昨日からのザイの異変は、俺が一番感じ取っている。もしかしたら、また意識がないのだろうか。
ウィンを残してザイの部屋に入ると、部屋は物音一つなく静まっていた。その部屋のベッドに、ザイが寝ているのを確認し、揺すったり呼んだりしてみる。しかし、昨日と同様だ。
起きる気配どころか……反応が、ない。
......
『ふん、待たせてくれたな』
「……あぁ、まだ全部信じきれたわけじゃないけど。……その契約、引き受けるよ」
わけのわからない怪異に追われるのなら、〈暗黒者-デッド-〉としてでもいい。
また、普通にラオやウィンと笑っていられる先を。俺はそれを望む。
『……契約成立だ。我が名を授けよう。……我が名は』
穏慈。
瞬間。強い風、圧力、妖気。一気に、俺と穏慈と名乗った怪異の周りに溢れている。それは、総称して強い“妖力”だとも言える。その強力さは、何となく最初から分かっていた。初めに目にした時の、あの雰囲気で。
『……成立とは言ったが、これで仮だ。必要なものがある。……〈暗黒〉の鎌だ』
「鎌? 何でだよ」
『それに関しては我も聞いたことがあるだけだ。〈暗黒者-デッド-〉と契約するには、普通の契約では足りんとな』
こんな知りもしない空間で、一つのものを探せと言うのか。契約したら目の前に勝手に出てくることはないようだ。ただ、〈暗黒者-デッド-〉がここにとって貴重な存在であることは、これまでの多くの要素から分かった。それに相応なことが必要なのだろう。
『……む』
「何だよ」
『ああ……短期間に何度も引きずり込んだせいで』
「引きずり込んだ!?」
『当たり前だろう。他所の人間だぞ。普通に連れて来れるわけがない。……そうではなくてだな。契約もないうちに短期間で行き来を繰り返したせいで、お前の力が薄れている。一度戻れ』
戻ることができるなら、願ったり叶ったりだ。
てっきりこのまま鎌を探す、なんて言われるのかと思ったが、契約した事実がある以上、それはすぐでなくてもいいと言う。それに、俺には約束がある。ここに来てどれくらい経ったのか、全く見当がつかないけれど。
「……じゃあ、戻してよ。自力で戻ったことないと思うけど」
『そうか、仕方ない。あぁ、鎌探しを始めるならば我を呼べ。お前が呼べば、我は迎えに行く』
「分かったよ」
穏慈がすっと目を瞑る。同時に、不思議と俺の意識は無くなっていった。
俺の意識は、次第に現実に帰って行った。
......
意識がこちらに戻って来てすぐ、勢いよく起き上がる。上体を起こしきらないタイミングに、鈍い音と共に額に痛みが走った。何かに激突したらしい、重い痛みだ。
「痛……っ! あっ、ラオ!」
「いてー……もう、やっと起きた? いつまで寝てんの。起こしても起きないし」
そう言われて時間を確認すると、間違いなく初の五時直前。起きたら約束の約一時間後だ。それはもう、慌てない理由はない。
「本当ごめん! あっ、ウィンは?!」
「ウィンは帰ってもらったよ。お前の体調が良くなさそうだって言ってな。どうしたんだよ、ザイ。最近、意識飛んでるだろ」
ラオは、今まで俺の意識がこちらに無かったということに、どういうわけか気付いていた。昨日は普通に眠りに入った時に向こうに行っていた。今回に限っては、ごく普通の入眠状態だったはずだが。
「何で意識飛んでるって思うんだよ」
「えっ。あ、あぁ……。何回呼んでも叩いても揺すっても何の反応もないし、つねるとか、冷やすとか、色々しても……」
「……ねえラオ、俺の手に書いてあるの何」
「待って、怒るな!」
何となく目を向けた手の甲には、マーキーで落書きがされていた。器用なことに、爪の部分には猫のような絵が描かれている。
「お前何だこれは! ふざけんなバカラオ!」
「うわっ、ごめんって! つい魔が差して! 可愛いでしょ!?」
俺の拳を必死で避けながら謝るラオの顔は、真っ正面から見ている俺には、焦っているようには見えない。むしろ楽しんでいる疑惑がある。ラオの服を掴むことができた俺は、一発。ラオの腕に拳を直撃させた。ラオはその場に倒れ、俺を見上げる。
「……すげー必死で謝ったよね?」
「可愛いでしょって言ってた。あと楽しんでる顔だった」
「ええ……俺の顔ふざけてるかな……」
(知るかよ、ラオの顔のことなんか)
今の会話があったことで、俺の中では引っかかることが出てきた。ラオは、俺の身に起きていることに関して、何か知っているような気がする。いや、ほぼ断定できている。
傍から見れば眠っていると思われてもおかしくないのに、俺の体に意識がないことが分かっている。どうしてそう言い切れたのか。
呼びかけに応じなかったからと言っても、判断材料はそこまでないはずだ。
ラオは、何かを知っているのだろうか。