第四十六話 黒ノ解ク真ト康寧
俺とガネさんは、青郡を後にして屋敷へと向かって歩いていた。これといって盛り上がるような話題もなく、静かに歩く時間が過ぎていた。特に居たたまれないというわけでもなく、先を歩くガネさんの背をのんびりと追っていた。
そんな時間がしばらく続いた後、突然ガネさんが立ち止まった。その顔を見ると、いやに険しくなっていて、俺に不安が戻ってきた。
「ガネさん?」
「後ろ、誰かいますね」
それを聞いた俺は、勢いよく後ろを振り向いた。ガネさんの言葉の通り、そこには独特の雰囲気をもつあの人物が立っていた。
「勘が鋭いのぉ」
「ビルデ!?」
「貴様、先は意味深なこと言っておったじゃろぅ。気になってのぉ。あの魔物も強者じゃ」
あの魔物、というのは穏慈のことだろう。正しくは魔物ではなく怪異だが。魔物と怪異の違いがいまいち分からないのが正直なところだが、魔物より上なのだろうと、俺は勝手に解釈している。
それよりも、目の前にいる者の好奇心はかなり高いようで、俺たちからの的確な答えを待っているようだった。
「お前には関係ないだろ? それに、魔物を使役するような怪しい奴に話すと思う?」
魔物使いだから、ということは勿論だが、方舟を乱用するために欲しているのなら、全力で止める。俺にとっての敵として認識するつもりだ。ビルデはニヤリと笑い、言った。
「貴様の母親も、乱用したではないか」
その言葉は、一瞬で俺を硬直させた。ドクンと大きく脈打ち、冷たく流れる水滴が頬を伝っていった。それを知っている目の前の魔物使いに、大きな動揺を見せてしまっていた。
─どうしてそれを知っている。俺の母さんが造ったのは、それなりに過去の話だ。それなのにどうして、いつから、そのことを知って追っていたのだろう。
「欲したものは、手に入れたいのが心理じゃ。貴様は違うのか」
「……っ」
ビルデの言葉は、さっきの一言をきっかけにいちいち俺に突き刺さってきて、苦しい。それ以上は、どういう話であれ聞きたくはない。自身の手で、耳を覆って音を塞ぐ。しかし、完全に閉ざすことはできず、ぼんやりと頭に響いてくる声が鬱陶しい。
「貴様は母親をどう思っておる」
「……っ、やめろ……」
言葉が痛い。どうしてビルデが、そんなことを聞くのか。思考がぐるぐると頭の中をめぐり続ける。俺の動揺は確実に伝わっているはずで、あえてそうしているのだとしたら、魔物というよりも、悪魔のような奴だ。
「おい」
「黙れ」
俺の様子を見かねて言葉を放ったのは、ガネさんだった。いつもより低いトーンで、俺を庇うように立ち、ビルデを睨んでいた。
「これ以上苦しめるつもりなら、その口開かせませんよ」
「ガネさ……」
「苦しい? 何を言うか、事実じゃろう? 何を苦しむことがある」
やはり、俺の心理を解って言っているようで、引かずにさらに踏み込んで来ようとする。俺は、言葉を探すことが精一杯で、踏み込んでくる足を退ける方法を考えることばかりで、何もできないでいた。それを既に把握しているらしいガネさんが、会話を繋げていた。
「時に、言うべきでないことがあります。お前は少し口を慎むべきでは?」
「庇っておるのか、そいつを」
ビルデが、そう言った時だった。一瞬で間合いを詰めたガネさんが、その胸ぐらに掴みかかった。
「庇うも何も、僕は彼の味方。加減が下手にもほどがあります。なんなら、ここで殺しますよ」
「……ふむ」
「ガネさん!」
ガネさんが掴んでいた手を退け、軽く突き飛ばすと、少しよろけはしたもののビルデはすぐに体勢を戻して俺たちを交互に見た。
「貴様らには、吾が仕打ちを受けて貰わねば気が済まぬ。いずれ、貴様らと本気で腕を交わしてやろう」
ガネさんの横に並ぼうとして、足を進めたその一歩。あのにたりとした笑い方で何らかを察知したらしいガネさんは、俺の動きを止め、伏せさせた。
瞬間、轟々しい音とともに豪炎が頭上にまかれた。すぐに豪炎は収まったが、ビルデを見上げると、鋭い眼でこちらを見ていることに気付く。
「宣戦布告じゃ。確かに差し向けたぞ」
そう告げると、それ以上は何もせずにその場から姿を消した。
それを見たガネさんが俺の身を起こして、顔色を窺ってくる。安心したのは確かだが、ビルデに言われたことが刺さったまま抜けていなかった俺の心は、まだ動揺の色を解いていなかった。
「大丈夫ですか?」
「……俺のこと、なんで知ってるんだよ。あいつ何なんだよ!」
先程までの安堵が嘘のように、声が震えた。大丈夫、とは到底言える状態ではない。
「ザイ君落ち着きなさい。恐らく、方舟の話を知って調べたんでしょう。口が過ぎましたが、大抵の人間がする事です。君の“母親”のことも調査の過程で掴んだか……あるいは僕たちの話をどこかで聞いていたか。とにかく、君がそこまで狼狽える必要はありません」
「俺だって、母さんの本音なんて、分かんねーよ……っ」
「……取り敢えず落ち着くためにも屋敷に帰りましょう。ラオ君のことも気になりますから」
ガネさんの後押しで何とか立ち上がり、無言のまま歩き始めた。
△ ▼ △ ▼
屋敷の医療室で、ラオガはまだ眠っていた。その空間にはオミもいて、何が気にかかるのか、一睡もせずにラオガの様子を見ている。その顔に若干の疲労が見えているが、オミはそれ以上表面に出さないように気を張っているようだった。もちろん、寝ていないオミを知っている俺も然りというわけだが。
「オミ、結局寝なかったな」
「お前もだろう。私は平気だ」
その顔で言われたくもないが、寝ていない分は直接体の方にきそうだ。ラオガを横目でちらりと見てみると、まだ起きる気配はない。少し、適当な話題で時間を潰せればと口を開く。
「たく、診る奴が増えるのは御免だからな? ところで、テメーはホゼの下で何してたんだ。簡単に裏切ってここに来たってこたぁ、碌なことじゃねーだろうけど」
「……それなりに当てにされなかったぞ? 少年を見ることも、私が言ったからな」
「ほー。また何だってザイヴを見ようと思ったんだ」
「初めは何となくだったんだが、いざ話をすると放っておけなくなってな。最終的に逃がす結論に至って私まで逃げてきた」
今でこそこんな話し方で、真面目で温厚なオミだが、昔はここまで面倒見の良い性格ではなかったことを、俺は知っている。会うことのなかった数年間で、オミも確実に変わったようだった。それは俺にとっては良い変化であり、驚きながらもほっとしていた。
「変わったな……」
「そうか? まあ、暫く会っていなかったんだ。当然だろう」
「そうだな」
そんな話をしていると、ラオガの体が起き上がり、一目で寝起きだと分かる顔で座っていた。
まだはっきりとは起きていないようだ。夜中に一度起きたことで疲れの残る寝方だっただろうと、そのまま寝るかと思ったが、そのまま意識がしっかりしていったようで、体を伸ばしていた。
「起きたのか。目はどうだ?」
「……あ、おはようございます。目は……ああ、うっすら見える気がする……昨日よりは……」
僅かだが、回復傾向にはあるようだ。けれど、こんな状態が若者に突然降りかかれば、大きなストレスの原因になることが心配される。実際、数時間前にもそれで目を覚ましているし、間違いなく参ってきているはずだ。
「相談とかには乗るからな。遠慮すんなよ」
「はい……」
△ ▼ △ ▼
青郡に向かった時と同じくらいの時間を要して戻ってきた銘郡で、屋敷の存在が目に入ってきた。
ビルデの一件で参っていたものの、ガネさんのフォローも何度かあり、何とか調子を取り戻しながらここまで来ることができた。すっかり気持ちも晴れていて、切り替わっている。
やっと落ち着ける場所に戻ってきたことで力が抜けると、青郡に向かってから何も食べていなかったことと、加えて空腹感に気付く。俺が口にしたものと言えば、行きにガネさんにもらったあの炭酸水のみだ。
「さすがに疲れましたね」
「俺よりは大丈夫そうだな」
「とりあえず、まずは食堂ですね」
屋敷の、大きな玄関の扉が目の前に迫り、足の重さが軽減される気がする。“帰ってきた”安心感には絶大だ。
「はぁー、もう嫌だー」
「ほらもう着きましたから。さっさと食堂に行」
ガネさんの手により屋敷の玄関の大きな扉が開かれると、言い終わるのを待つことなく食堂に向かって早歩きをした。
「あっ、ちょっとザイ君!」
食堂に着くと、そのままカウンターにいき、何か胃に入れられればと、米を握っただけでできるリジボールを適当数頼んだ。そのすぐ後、ガネさんも入ってきた。
「お疲れですね。大丈夫かい?」
「いえ、僕は何てことないですよ。とりあえず、僕にもお願いします。というか、ザイ君はもっと別のところでその俊敏さを出してくださいよ」
「今の俺は安心感が凄い。腹減ってるし今は食欲に勝るもんねーから」
カウンターから近い席番号を指定され、俺とガネさんは向かい合う形で席について、リジボールを待っていた。
机に伏せるようにしていると、そこに誰かが入って来る足音が聞こえてきた。それを確認する力はなかったが、俺たちの姿を見つけたその足音の主が俺たちを呼んだ。
「お前ら戻ってたか!」
「うわっ、ゲランじゃないですか……」
「あんだぁその言い方はよぉ……不満か? あぁ?」
俺が顔を上げた時には、ガネさんの目の前にゲランさんの握った拳が迫り、力ずくで押し退けようとするガネさんの姿が目に入った。
「やめてください疲れているんですから! 労りはないんですか!」
そんな時、リジボールを握り終わったという声とともに、大きな皿がカウンターに出されたのを見た俺は、それを取りに行った。
席に着くと、すぐさまガネさんと一つずつ頬張った。
「で、ザイヴ。どうだった」
「ぐ!?」
「えっ、大丈夫ですか? ったく、ゲランも食事中に本題を吹っ掛けないでくださいよ」
思わず喉に詰まらせかけてしまった俺は、自分で胸元をとんとんと叩いて何とか流し込もうとする。そんな俺に対し、立ち上がったガネさんが水を渡してくれた。
「どうぞ」
「げほっ、おえっ……ありがどう……」
「あぁ悪ぃ。悪気はねえ。そんなんじゃ死なねえから大丈夫だ」
ゲランさんは、ガネさんが席を立ったのをいいことに、自分がそこに座ったため、ガネさんはつっかかるのも面倒くさいと眉間にしわを寄せて俺の隣の椅子に腰かけた。
もう一度水を飲んでようやく落ち着いき、涙目になりながら、まずはゲランさんにラオの様子を尋ねた。すると、つい先ほど目を覚まし、ぼんやりと見えると本人が言っていたということを聞き、回復してきていることが分かって一安心した。
「……つか、先に質問に答えろよ」
「ああ……そっか。一段落は着いたっぽい」
「二人して何でそんな怪我してんのか聞きたいね」
至るところに巻かれたテープは、その傷を物語る。あの大量の魔物と戦ったのは、本当に苦痛だった。
かいつまんでゲランさんに説明すると、聞いてきたくせに「へー」とあまり興味がなさそうに納得していた。
「とにかく、次は〈暗黒〉に行ってこないと……」
向こうに送った深火のことが気になる。ついでに、吟にも会っておかないといけない。
「忙しいな、お前。講技もまともに出れねぇのかよ。ガネもだぞ」
「うるさいですね、いちいち」
「もう少し年上に対する敬いがあってもいいんじゃねぇか」
「生憎ですが、根本的にあなたが嫌いなので。……仕方がないでしょう?」
無理やり作った笑顔でそんなことを言うガネさんのオーラは、言わずともどす黒い。そう思うのは、俺だけだろうか。こう見ると、間違っても敵には回したくない人だ。
「嫌われるほどいい大人ってやつだな」
「全くもって意味が分かりません」
「……そうそう、ザイヴ。ちっとは嬢ちゃんに構ってやりな。お前らのことを知ってるなら尚更な」
言われてみれば、確かにその通りだ。ウィンと話す機会も極端に減ってしまっているし、ウィンも辛いだろう。そこに気が回るまでに時間がかかってしまって、申し訳ない。
「そう、だね。これ食べてある程度落ち着いたら話してくる」
「あくまでも飯優先なんだな」
それは腹が減って仕方がないのだから当然だ。
ゲランさんは用件が済んだようで、ひらりと手を振って食堂から去っていった。ガネさんはその姿を見送ることなく食事を進めていた。俺が想像しているよりも気に食わない存在なのだろう。それがどういう理由からなのかは今は聞かないが、いつか聞いてもいいものなのなら、聞いてみたい気もする。
ある程度満たされ、ガネさんと一緒に食堂を出る。その足で、屋敷長に戻ったことの報告をしに行くというガネさんとはその場で別れ、ウィンのもとに向かった。
俺やラオは、極端な話をすれば、いつ死んでしまうか分からない状態にいる。ゲランさんの言う通り、もっと関わる時間を作らないといけない。後悔はしたくないから。
今日時間があるのなら、ウィンと外に出てみるのも、悪くないだろう。そうしたら、少しは元気を出してくれるだろうかと。そんなことを考えた。
方舟ノ編 了
※リジボール=おにぎり