第四十二話 黒ノ遠キ憩イト願
ゆっくりと物影から出てきたその男は、外見的な特徴上か、何を考えているのか読み取れないような違和感を携えて、そこにいた。
「見る限り、なかなかの手練れじゃのぉ。貴様ら、何者じゃ」
笑顔を絶やさない、だるそうに下りた瞼の奥、その半分覗いた眼が、俺たちをとらえ続ける。
首をかくんと傾げて、そこからさらに口を裂いて笑う。怪しいのは言うまでもなく、相手が何者か知りたいのは、お互い様だ。
「そっちこそ何者だよ」
「先に名乗るのが礼儀じゃろう」
「それは僕たちに限らないと思いますが?」
しばらくの沈黙が流れたあと、その男は、黒い革製の、第二関節くらいから指先が空いた、いわゆる手帯をはめた指をまっすぐにこちらに向けた。
そのまま再度しばらく静まる場で、俺たちはその行動に続く何かを待った。
「早よぅ名乗れ!」
「ためてそれかよ!」
「ただのバカかよ!」
俺とギカは反射的に思ったことが口に出た。ガネさんも何か言いたげだったが、口を閉ざしていた。
それよりも、対面して以降話が進んでいない。
「……取り敢えず、もう一回聞くけど誰」
「吾の名は、ビルデじゃ」
この男のペースに飲まれてはいけない。一度冷静になり、再度尋ねると、今度は何の間もなく言葉が返ってきた。
「今度は素直に名乗るんですね」
俺たちに指まで向けてきたと言うのに、それが嘘のように冷静にそう名乗ったのだ。
拍子抜けもいいところだ。自分が名乗ると、今度は俺たちに名を尋ねてきた。この状況で名乗らない理由もなく、名前だけさらりと答えた。
「ほぉ、覚えておこう。して、貴様らは吾を敵と見なしておるじゃろう? その前に話を聞いてみんか」
ほれほれ、と手招きをする。明らかに怪しいとは思いつつも、話ぶりからして何となく話だけならと、俺はビルデから目を逸らさないことで応じた。
「何」
「……拍子抜けじゃな。敵と見なしたのではなかったのか? まあ……気に入った。貴様らはここで何が起きたか知っておるか?」
ビルデがここで、起きたことを俺たちに聞いてくる理由は定かではない。しかし、俺たちが今知っていることは方舟のことで、その調査でここに来ている。それ以外に何かあるとしても、今の俺たちには問題外であるだろうが。
「方舟の話は知らんのか」
そんなことを考える必要もなかったようで、ビルデは方舟への興味を示すように食い気味にそう尋ねてきた。
「それはギカが知ってると思うけど、何で?」
断言するが、この男は余所者だ。だから不審に思うのかもしれないし、そうだ、と答える筋合いはない。それによってビルデがどういう反応を見せるかと、少し緊張した面持ちになったが、それはすぐに緩むことになった。
「面白い」
「……面白いことを求めるなら、もっと他に興味をもっても良いと思いますが」
「そんなもの知らん」
話している内に、なぜか疲れてきていた。話し方に緊張感がないからだろうか。それにしては、感じ方が何か違うような気がする。相変わらず目の前でにやにやしながら方舟の真意を尋ねてくるビルデに、少々のしつこさを感じながら、今の状態は知らない、ということを伝えると、機嫌がさらに良くなったようで、一人で魔物に向かって話しかけ始めた。
「そんなに喋ってもいいんですか?」
「……何で俺はこんなにもお人好しなのかな」
「いや、それ昔からだろ」
「あぁ!? まじかよ言えよ!」
「えっ、言って良かったのかよ」
自覚がなかったものだから、そう言われることに違和感を覚えていた。そんな俺に、ビルデは変わらない笑みを浮かべて、俺たちに向けて口を開いた。
「貴様は本当に面白いのぉ……ふむ。お前ら下がれ。吾のお気に入りじゃ」
一通り様子を見ていたビルデは、魔物たちを鎮め、姿を消させた。
彼曰く、「お気に入り」になったらしい。何だそれはと眉をしかめていると、ふとあることが脳裏をよぎった。こんなへらへらした奴ほど、本性が分からないものだ。敵側の可能性もあると、そう思ったのだ。
「……じゃあ俺からも聞くけど、結局どういうつもりだよ。まさかホゼの手下とかか」
「あ? 誰じゃそれは。そもそも手下と言ったか? 吾は人には付かん。嫌いじゃ」
この答え方、呆れ方からして、そういう考えをもつ奴だということは察した。しかし、簡単に信じて良いことにはならない。どうあれ、魔物を携える奴だし、何よりあの豪炎がその力の大きさを知らしめている。
備えあれば憂いなし、という心持ちでいることが善。それ以上深く詮索することはしなかった。
「ふぅん、まあいいや。で、何で方舟の事実を知りたいんだ?」
「吾に扱えるものかと思ってのぉ」
その言葉が意味することは、誰に言われなくても分かる。方舟が人を吸収したり、とても強い力を持っていたりすることを知っていて、そう言っているのだろう。
「……方舟が欲しい。そういうことですか」
「噂ではトンデモない力を持っておるというではないか。それは素直に欲が出るものじゃろう」
「てめーはそう言うけどな。人間が扱ってもろくなことにならねーぜ」
そう、俺の母さんが、その例だ。方舟に乗っ取られ、自我を失い周囲のものを見境なく傷つけてしまった。それは、俺の記憶が語ってくれた。
「ふむ、確かに一理ある。異物が憑いておるんじゃろう? 知っておる」
ゲランさんでさえ、方舟には怪異が関係しているかもしれないと言った。その異物を確かめるべく、俺たちが来たのだから。
しかし、その話をどこで知ったのかは純粋に疑問に感じる。加えて、ここを大量の魔物に襲わせた理由も、聞かなければならない。
「もう一回聞くけど、お前、ホゼの手下じゃないんだよな? だったら何者だよ。何でここを魔物に襲わせた?」
人は侮れない。生きているものは、人知れず欲を持つため何をするか分からない。
それを、明確に感じた。
「……あぁ、それは吾が魔物を使役しておるからじゃな。調べるだけのつもりが、腕の立つ輩が魔物を消していくではないか。襲撃だと思っておるのは貴様らだけじゃ」
「は……?」
それは、俺の望む答えではなかった。ビルデはそもそも襲わせるつもりで魔物を寄越したのではないという。それならば、何故次々と数が増え続け、鎮まるまでに時間を要したのか。言っていることは、単純に矛盾している。
『ならば何故、お前は近くにおりながら攻撃するのを止めなかった』
「単純なことよ。楽しくなっての。つい見入ってしもうた」
「はぁあっ!?」
「魔物の気が奮い立ってのぉ。そもそもは気になって見に来たのじゃ。何かあってはいけぬと思って数をよこすがあの有様よ。普段なら怒るところじゃが、面白いものを見せてもらったからの。見逃してやっておる」
どうにも腑に落ちない返しだが、それ以上を答えようとはしてくれない。それならばもう長居する必要もない、と思ってその場を去ろうと行動に移そうとしたが、もう一つ。
「ザイ君、穏慈くんの言ったこと忘れてないですよね?」
「……もちろん、忘れてないよ」
俺には─いや、この場の全員に─引っかかることが残っている。
『……では最後だ。あの殺気はどう説明してくれる』
それを聞いたビルデはにんまりとし、初めて足の先からびりびりと震えるような気味の悪さを感じた。
こいつは自分を魔物使いだと言った。ただ、それだけではない気がしてならない。魔物を扱う、人間。そうくくるにはあまりに違う雰囲気を、間違いなく纏っている。
「攻撃されたら仕返すじゃろう。まあそれだけではないがのぉ。あれだけの数を相手にできる奴らを前にして興奮せずにはおられんわ……血が疼いた、とでも言うか」
先ほどまでの飄々とした雰囲気とはまるで違う、人間とかけ離れた妖気を発して俺たちを見ている。思わず鎌を持つ手に力が入り、ギカも細刃の刃先を上向きにして警戒する。
そんな俺たちをよそに、ガネさんが堂々と間に入って睨み返した。ビルデの視線もガネさんに向き、しばらく対峙していると、先にビルデの気が抜けたようで視線を外した。
「……次に会うときは、本当に敵かもしれんのぉ。それは、忘れるなよ」
「こちらのセリフです。僕たちに害を及ぼすのなら、容赦はしません」
「ふん、楽しみじゃ。……いつか、また」
そんな二人の間のピリピリとした空気は感じていたが、俺は去ろうとするビルデにシッシッと追い払うように手首を振った。ギカはというと、勢いよく親指を立てて下に向ける。
ビルデは最後まで笑みを絶やさずに去っていった。いつか、ということはまた現れるということだ。次に会う時、俺たちの敵だと本格的に判断した時は、俺も手を抜かない。
「穏慈くん。どう思いますか、彼」
『……今は嘘のように殺気を感じぬ。何だったんだろうな』
それには俺も同意見だ。豪炎を振り回してみたり、へらへらと俺たちを「お気に入り」と言ったり、「次は敵かもしれない」と言ったり。一貫して統一性がなく説明しがたい。ビルデがいなくなったことで魔物もいなくなり、一時的に静かな時間が作られた。
しかし、次の瞬間にはまた俺たちに平穏を訪れさせまいとする何かが迫っていることに、穏慈が気付いた。例外でなく、俺も、ガネさんも、その異様を察知した。
『……何だ? これは……また別の、デカい妖気がある』
「俺も嫌な感じがする……、これ以上何も起きんなよ……」
『覚悟しておいた方が良さそうだ。様子を見るぞ、一度身を潜めよう』
そう言う穏慈に従い、俺たちは一度物影に避難する。穏慈はその臭いのする方をじっと見つめて動かない。その穏慈の真剣な顔に、嫌でも現実を見せられる。
「何かいるの?」
『いる、というよりも、近付いてきておる、が正しいか。先のような雑魚ではないぞ』
いつから、そうした魔物が来るような場所になってしまったのだろうか。ここに姿を見せる前に引き返してくれないかと、心のどこかで思う俺を裏切るその群れが
ここを襲撃する時は、近い……。
△ ▼ △ ▼
一通り泣いてしまったウィンは、疲れたと言って部屋に戻っていった。現在医療室に残っているのはゲランさんとソムさん、オミに薫、俺を含めての五人だ。
「ウィンちゃんね、ザイヴ君やラオガ君が背負ってるものを知ってから、少しだけ前向きになったのよ。話して、聞いてもらって、正解だったと思う」
「そうみたいだな……。ザイは俺ですら巻き込みたくねえって思ってたみたいだから、内心どう思ってるか分かんねーけど。でもあいつ、すっごい良い奴だからな」
「その場に怖じようとも、自分を見失わない強さがある。私もそれを間近に見たからな」
オミはそのザイに救われた一人。俺だって、ザイの強さだけではなく、優しさも知っている。それくらいの仲だと、自負している。
「本当、ダチ大切にする奴は違うね」
「だな。ザイヴはちゃんと大切なもんが分かってる。ガキのくせにしっかりしてんじゃねーの」
─幼かったあの頃だって、「何か」に必死だった。けれど、今はそれ以外にも、大切だと言い切れるものがある。芯の強さは認めてやろう───と、ゲランは一人思うのだった。
△ ▼ △ ▼
青郡に着いてから、長い時間が経った。
完全に日が落ちていて、月明かりだけが頼りになる状態だ。今魔物に襲われると、間違いなくこちら側が不利だろう。今は、来ないことを願いたい。
「穏慈くん、どうですか?」
『今のところは一点に留まっておる』
「……ちっ、面倒くせぇな魔物ってのは」
頭をボリボリかきながら、はぁーっとため息を吐くギカからは、疲労を感じ取れた。無理をせずに隠れ家に戻ってもいいのだが、断固として戻ろうとしなかった。
「折角久々に会ったんだからよ。力くれー貸してやりてーだろ」
「いやでも……」
ギカなりに俺を気遣っていたようだ。それがこんな形にはなってしまったが、長らく会っていなかった隙間を埋めるかのように、共有する時間を作っている。こんな状況だが、その計らいを少しだけ嬉しく思う。
しかし、そんな時間もすぐに断ち切られることとなった。
『! 動き始めた。来るぞ』
「えっ、嘘こんな時に!?」
魔物にこちらの都合は関係ない。逆も然りだ。しかし魔物は、それがどういう状況であっても本能のままに行動し、それに左右された人間は、運が悪ければ殺される。魔物にとってはただそれだけのことだ。
「つか、何で今まで出なかった魔物がこんな一気に出てくんの!」
『無駄話は後だ。死ぬなよ』
「大船に乗ったつもりで、思い切り戦ってください」
ガネさんの心強い言葉をもらい、俺たちはその暗がりで、薄明りの下、向かってくる魔物の姿を確認した。
俺たちの休息の時は、もう少し先の様だ。これが、最後となるように、俺は心から願った。
─若者たちよ。
この状況を乗り切ることガデキルモノカ……タノしミだ……。
※手帯→手袋のこと