第三十九話 黒ノ都ニ懐古ト静寂
医療室で眠っていた俺の目は未だ見えず、何もできないことへの苛立ちを感じていた。
ザイは俺を巻き込みたくないと言っていたけれど、だからと言って手を貸さないわけにはいかないのが俺の性格だ。今すぐにでも飛び出していきたいところ。それが叶わないのだから、不安で仕方がなかった。
薫から目が見えない理由を詳しく聞いた手前、ショックを受けたというのもあるが。
「こんな時に横にいられねぇなんて……」
「ラオガ君、落ち込まないで」
ソムさんは俺を気にかけ、朝早くから医療室に顔を出していた。
俺がこんな風になっているのを見て何を思ったのか、良い時間になったらウィンを連れてくると言い残して、医療室を出て行った。
「ま、今はその異常を回復させるのが先だろ。ザイヴも幸せ者だな。こんなダチ想いはなかなかいねぇもんだ。ラオガ、診察すんぞ」
「あ、はい」
ゲランさんは俺の瞼を開く限りで伸ばし、眼を見ているようだった。その眼に光が戻っていないことは、俺が一番よく分かっている。次いで、外傷を見つけると、気休めにと消毒してくれた。
「あーもー……」
「だからそう気にすんなって。ザイヴが帰って来るまでに根性で治せよ」
「……そうします」
どことなく納得がいっていなかったが、そう答えるしかなかった。
初の二時になると、すでに身支度を終えたガネさんが部屋を訪ねてきて、起こされた。この人は生活リズムが整いすぎているから、こんな早くに俺を訪ねられるんだろう。勝手な憶測の中、眠い目をこすった。
「ガネさん、起きるの早くねー?」
「普通ですよ。一時間前には起きていました」
むしろ起きていなかった俺がおかしい、と言わんばかりの威圧を感じる。これでも俺の中では早い方なのだが、それは言わないでおく。
「穏慈くんは?」
「まだ調べてんのかな。何にも感じない」
「そうですか。それじゃあ、さっさと行きますよ」
青郡に行くことに肯定的な姿に、俺も巻き込むことへの申し訳なさが激減していた。
簡単に身支度を整え、ガネさんに続き屋敷を後にした。
「ガネさん何でそんなに元気なんだ……」
青郡がある方角へ向かって歩きながら、未だに眠気の取れない俺はガネさんの姿を目の当たりに若干引いていた。
「特別なことは何も。強いて言えば僕だからです」
「答える気ないだろ、分かってる」
そんなガネさんの返答は右から左に聞き流す。ガネさんも流している、だから俺も流すように返す。これまでのやりとりで学んだことだ。
「分かり始めてきましたね。そういえば、昔はどんな子だったんです? 今と変わらないばかみたいな子だったんですか」
「それ今の俺のことをばかにしてんだろ、むかつく。答えねーからな」
「へえ?」
「……でも多分、騒がしかったと思うよ」
ガネさんの声色が一瞬低くなったのは、聞き逃せず、付け足すように答える。自分は流す癖に俺が流すとこうだ。一瞬にして、黙秘という意思が消し去られてしまった。
「今と変わらないですね」
「結局ばかにしてんのか!」
やはり失礼な返答が来たわけで。からかっているのだろうが、ガネさんこそこの性格は子どもの頃からなのだろうか──口に出すことは、絶対にないが。
「それだけ、今も昔もザイ君はザイ君ということですね」
でもそれは、ゲランさんの話を聞いていたことから、俺に対しての慰めだったことに気付く。気を落とさないようにと、気を回してくれたのだろう。
「自分を、見失わないでくださいね」
ガネさんは、そうして俺を困らせる。どう答えたらいいのか、分からなくなった。
話の流れはともかく、その言葉に、相手を気遣う思いが混じっていることに、気付いたから。それは、ガネさんの教育師としての、人としての力量なのだと思う。
「うん……ありがとう」
気に入らない人だとは思うけれど、これでも信用はできるし、している。裏切ったり騙したりすることはない人だと思うから。
「……さぁ、何だかんだで青郡までかかります。道は覚えてますね?」
「えっ?」
取り敢えず何度か辺りを見回してみる。
いや、雰囲気で覚えてる。覚えているが、何せ七年ぶりの道だ。完璧かどうかと言われれば頷けない。
「……中途半端に覚えてるから、通ってたら思い出すよ」
「……しょうがないですね」
「何だよ、その顔やめろ」
「僕はもともとこんな顔です。自分の故郷に帰るのに他人に案内してもらおうとしている人が言えることですか?」
「うるせぇ」
ガネさんに一歩リードしてもらいながら、その道を通っていく。屋敷に入った時と方舟を確認するために青郡に行った時にしか通っていない場所も、時々懐かしく感じる風景として、俺の心を静かに溶かしていっていた。
......
やっぱり暗い〈暗黒〉で、何変わりない風景。穏慈は相変わらずなそんな場所にいた。人間の姿にも慣れ、怪異の自分がむず痒くなっていた。
『……方舟、か』
知っている怪異はいるだろうか。アーバンアングランドで起きた、騒動を。そんなことを考えていると、どこからか一体の怪異が降りてきた。
『お前は……』
その躰は小さく、ちまちまと走り回っていた。その怪異を、我は知っている。小さい分すばしっこく動き回るそれに、呼びかけた。
『おい、秀蛾』
その呼ばれた名に反応し、動き回る足を止めて我を確認すると、首を少し傾げた。首を傾げたいのは我の方だ。今、秀蛾はどこから降りてきたのだろうか。
『おんじ……? けはいがかわった……?』
『どこに行っていた?』
『にんげんかい、にいた。たのしいにんげんかい』
どうやらザイヴたちのいる世界に遊びに行っていたようだ。秀蛾にとっては楽しいらしい。
何度か行き来をし、見てきたいろいろなものを語り始めたが、また別の機会にと頼んだ。
『お前、方舟を知っているか。七年ほど前、方舟が何らかの理由で人を吸収したそうだ』
『はこ? 深火がいなくなったのはそのせい? いなくなった、深火がとられた、ヒイはわからない』
秀蛾は、普段こそ普通のやりとりをするものの、一見意味の通らないようなことを言う節がある。しかし、これを繋いでいくと不思議と一つの結論に結び付く。確かに今、深火はここに居ないはずだ。
いくらか前に「人の世に行く」と言ってそれきり姿を見ないのだ。秀蛾が言わんとすることは、おそらく深火が方舟を知っている。ということ。しかしどこにいるのか分からないのが現状。どうにもできないようだ。
『そうか、分かった』
ならば、やはり訪ねなければならない。
───吟。頼れる怪異を。
......
「一つ言わせてもらいますけど……殆ど記憶から抹消されてるんですね。まだ三分の一ですよ」
一つ町を抜けた先、道が分からないことが判明した。
青郡出身失格かもしれない。頻繁に行き来をしていたわけではないのだから、それも仕方のないことだと自分の中で正当化させるが、一方でガネさんは呆れていた。
「分かりました、初の四時になる前には着くように行きますから、ちゃんとついてきてください」
「子ども扱いするな」
「はいはい行きますよ」
△ ▼ △ ▼
屋敷では、ソムが自分のクラスとガネの応用クラスを応用剣術の広間に集めていた。急遽このような体勢になったため、どういう事態が起きたのかと両クラスの屋敷生たちはざわつきを見せる。
「ガネ教育師はどうしたんですか?」
「所謂出張に行ってるのよ。ちょっと大事な用事だから代わりに……あっ、ちょうど来た」
そこに、ソムが声をかけていたらしいオミが広間にやって来る。詳しい話は聞いていないようで、多くの屋敷生とソムを前にして、戸惑う姿が見られた。
「何の用だ」
「来てくれてありがとう。ガネの代わりに応用生を見てほしいの」
「私良ければ、代理をしよう」
事情を知ったオミは、ソムの要望を難なく受け入れ、応用の屋敷生を集めた。ソムがいる手前、何者かも分からないオミのもとに、わけが分からないままに集まる彼らは、オミをじっと見つめていた。
「え……すんません、誰ですか」
当然といえば当然。オミ=ルーブのことは、化け物が基本剣術の広間で暴れた時にいた基本剣術クラスの屋敷生が見たことがあるだけで、ザイヴがさらわれた時に助けに行った四人とウィンくらいしか知らない。
オミは自ら紹介を始めた。
「私は少年……ザイヴと縁があって来た。本職は初めてだが、オミだ。よろしくな」
その言葉に、屋敷生はどよめく反応を見せた。編入してきてからあまり姿を見せないその者の名がオミの口から出たものだから、驚きを隠せないでいた。
「ザイちゃんの知り合いってこと?」
「簡単に言えばな。それで、普段はどう講技を受けている?」
屋敷生たちは考える。特別何を、というものはないため困っていたが、少し後、ユラが口を開いた。
「この前できなかったやつ。五人組作って、試合するってガネ教育師が言ってたのは?」
「あぁ、なんかあったなそんなの」
ガネ教育師は厳しいけれど、オミ教育師なら……と、一同賛成。
以前同様五人組……を作りたいが、ユラのグループに居たはずのザイヴとラオガがいないということで、四人組を二つ作って準備完了。
「ルールは知らんが、ガネに報告できるような試合をしろ」
「え、あ、はい了解っス……」
屋敷生たちの気分は一瞬にして落とされた。
△ ▼ △ ▼
青郡への距離を縮めていく俺とガネさんは、順調な足取りを見せている。と、見せておいて順調なのはガネさん一人だ。俺は到着の目処が立たない状況からも、喉の渇きを感じてため息を吐く。何か飲むものを持っていれば良かったと後悔している最中だ。
「……体力無いですねー。あっ、歩の進みを緩めない方法があります。負ぶって行き」
「絶対却下」
耐えて歩いた方が何倍もましだ。食い気味に拒否する。ガネさんによると、もうしばらくで着くという。
「水、飲みますか?」
ガネさんがした身支度のものの中から出された、水の入った手に持てるサイズの容器。俺は素直に受け取り、一口含むがすぐに噴き出した。
「ぶはっ、水って言ったのに水じゃねぇ!」
「思ったより面白くない反応でしたけど、面白い反応でした」
「てめー……」
俺が飲んだのは水ではなく、炭酸水。しかも微炭酸のものだ。
甘さもなくすっきりとしていたため、その炭酸水のお陰で喉の渇きが気にならなくなったのは事実だが、まんまと引っかかってしまった。
「びっくりしただろ!? 俺で遊ぶなよ!」
「その水あげるのでまたいつでも噴いてくださいね」
「分かってて噴くか!」
複雑だが、さっきまでの疲れは吹っ飛んでしまったため、俺は再びガネさんと並んで歩き出した。
──そんな頃、〈暗黒〉ではとある進展があったとか……それは、まだ知ることのない情報だ。
ガネさんが言った通りの時間近くになり、青郡に到着した……ところまでは良かった。
青郡を前にした時に感じた、ある違和感が俺の心をかき乱していた。それは、大きな不安を煽るような霧。深い傷を負ったままのような静けさ。その状態の青郡に入って見えた荒れ方。
「ガネさん……」
「……これは」
十歳の頃に見た青郡と、ほとんど変わらない状態でそこに存在していたのは、俺が見たくなかった現実だった。