第三十五話 黒ノ暗転ト閉口ノ蓋
─気持ちが悪い。吐き気がする。あれを見てすぐに、自分の体に異変が起きたことは分かっていた。
気付いた時には、ザイが俺を呼ぶ声が聞こえてくるのに、全く反応できなくなっていた。表で「俺を失っている」というのは、完全に把握できた。
その化け物は俺を依代にして、アーバンアングランドにも憑いてくるということは伝わってきていたことで、どうにか俺の意識を表に取り戻そうと必死にもがいていた。
しかし、その化け物が俺を奥に押し込めている力が強く、足掻くたびに胸をかきむしられるような不快感に見舞われた。だからといって、このまま流されるつもりはないが、うまくはいかないもので。
(っ……くそ、ザイを、みんなを傷つけることに、なっちゃだめだ……何とか、こいつを押し退けないと……!)
その瞬間、目の前で眩しいほどの光が瞬いた。同時に、ザイの声が聞こえてくる。
─【鎌裂き】!
鎌の能力だ。もしかしたら、これで怯むかもしれない。好機を逃す理由もない。その間で、俺はそこでもがいた。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
気が付くと、目の前には傷ついた化け物と、鎌を手にするザイ、応戦する怪異やガネさんがいた。思うように体は動かせない。言葉は発せない。それでも、目を使うことはできた。
ザイは俺の目に気付いたようで、驚いたように俺を見ていた。俺の精一杯の抵抗で、ザイが動き出す。化け物が二つに分離されると、それは俺から離れていく。不快だったものが一気に体から流れ出ていき、俺はそのまま意識を失った。
気付いた時には、暗くて、深い闇の中。どこまでも黒く、光はない。
─お前は死なないよな。
その中で、聞き慣れた声がする。だけど見えない。暗すぎて、分からない。すぐ横に居るのかどうかも。
何で俺は、暗い中に佇んでいるんだ。
......
室内から騒音が聞こえなくなったことを確認したらしいソムさんは、氷の壁を解いて駆けてきた。
「みんな大丈夫!? 怪我は!?」
「ソムさん……オミも、ありがとう」
ソムさんはガネさんの腕の傷を見、早く医療室に行くよう促した。そのままオミと一緒にここの傷の具合を見て起こったことの報告までをしてくれるという。
その言葉に甘えて俺も穏慈と薫を連れ、また、ラオを薫に抱えてもらい、医療室に向かった。
医療室を訪ねると、担当と思われる教育師が机に向かって座る形でこちらに顔を向けた。男の医師で、名はゲラン=ダッカー。顎には髭が生えていて、それらしい感じが見えている。
「ゲラン」
「……珍しいこともあんだな、お前が来るとは」
「僕は大したことないです。こっちの屋敷生をお願いします」
ラオの身に起きたことをうまい具合に説明し、何とか受け入れてもらった所で、ラオは設備されてあるベッドの上に寝かされた。
「ガネ、薬を塗るから腕をだせ。深いだろ」
「……これですか、別に大したこと……いっ!? 何するんですか!?」
「ガネさん、やっぱ無理してたのか」
やせ我慢も良いところ。ガネさんは痛みを堪えていたらしく、医療担当が腕を掴むと痛みを訴え始めた。それと同時に、頬には冷や汗と思われるものが伝った。よほどのものだということは、言われなくても理解ができる。
何より、俺の目の前で、あれだけ出血したのだから。
「やっぱ痛いんじゃねーか。あーぁ、素直じゃねーなー。おら、大人しく診せろ」
半強制とも取れるかもしれないが、ガネさんがその言葉を飲んだことに、それなりの症状だということを実感する。そんな時、後ろから穏慈に襟を引かれた。
「わっ?! お、穏慈……?」
『……恐らく、ラオガは暫く目覚めん』
「え……」
穏慈が俯いているせいか、穏慈の表情はよく見えなかった。けれど、どこか悔しさを見せているような気がした。
『我が狙われていたなら、我が何とかできれば良かったな。……すまなかった』
「……お前のせいじゃない。誰の責任でもないよ。俺に謝るなよ……」
そうやって、あまりに申し訳なさそうに謝ってくるものだから。穏慈を見上げていた俺は、そんな言葉とは裏腹に、不意に顔をそらしてラオの方に向けた。
「……あいつ、何か抱えてんのか?」
「いろいろあるんですよ。あまり追求しないでやってください」
「へー、まあいいけどな。……それより、敬語はそろそろやめねぇか。オフだとソムにはふつーに喋るじゃねーの」
「ソムとは馴染み深いからです。気にするなら僕に近付かなければいいです」
そんな会話が聞こえてくることに、俺は事態が収まったことに安堵感を覚えた。一方で、ラオが意識のない状態になってしまっていることは変えようのない事実だ。回復を待つ他ない。
はあ、と大きなため息を吐くと、その医療担当が俺に声をかけてきた。
「おい、お前名前は?」
「あ、えと……ザイヴ」
すると、目を見開いて俺をじっと見つめていた。何かに驚いたような、そんな感じで。その場にいるラオ以外は、それを見逃さなかった。
「……“あの時”の、か」
「何……?」
“あの時”の、という言葉が重く引っかかる。俺はこの人との面識は無に等しいのに、対しての彼はそうではないようだ。考え込む仕草を見せるが、しばらくして、元の冷静さで再び俺に尋ねた。
「……お前、姓は?」
そう、何かを探るように。しかし、俺はそれを知らない。いつから知らなかったのかも分からないくらい前から、自分の姓を答えることはできないのだ。もしかしたら、何かのきっかけでなくしてしまったのかもしれないが、その理由も、俺には分かっていない。
「いや……何で?」
「んー……」
真剣な顔をして腕と足を組み、再び俯いて考え込む。それが、この人が俺をあの目で見た理由になるのだろうか。その先を発さないため、心の中がもやもやし始めている。
「ゲラン、僕たちは暇じゃないんですが」
しかし、ガネさんのそれにより、今度はニカッと笑いかけてきた。よく分からない人だ。
「そうか! そりゃ悪かったな! いや、気にしないでくれザイヴ。あと、ガネを呼んだ時みてーに俺のことも教育師じゃなくていーからな!」
うるさいほどの声でそう言うと、ガネさんをその場に残し、俺と穏慈と薫を部屋の外に押し出した。
「あっ、ちょっと!?」
「わりぃな、ちょっとガネに話あっから先に帰ってな。もう再の五時だ。早く寝ろ」
あの化け物を前にしていた恐怖からの解放で、やっと俺の体に入る力が自然と抜けてくれていた。明日には広間の修繕が始まっているだろうが、荒らしてしまったから申し訳ない。
「分かった……」
俺は渋々、穏慈と薫に挟まれて部屋に向かって歩いた。人気がなくなったところで、薫は〈暗黒〉に戻ると言い、姿を消した。
俺たちもまた、俺の自室に入り、静かに扉を閉めた。
『ザイヴ』
「ん……? 何?」
『どうした?』
今回のあの化け物の件で、俺は〈暗黒〉の存在をまた恐れてた。怪異の類ではないと思っていた化け物は、あの血特徴のある血の色でその類だったことも分かったわけだ。
陰も狂っていたが、あんな怪異もいるのかと、そう考えるだけで今後を不安に思う。
「……本当に、俺で大丈夫なのかって、思ったんだよ」
『……お前のためになるのなら、我は全力で力を貸すぞ。何が起ころうと、我の主はお前だけだ。耐える必要はない』
「……穏慈……」
俺には、すぐそばに誰かがいてくれる。それが怪異には違いないけれど、力を貸してくれる教育師もいる。
だったら俺も、未来に控えた俺の役割を、最後まで果たすだけだ。それが崩落を招かないものであるならば、どんな結果になろうとも。
「そうだね」
あれから直ぐに寝てしまったのか、あの後の記憶がないままに目を覚ました。どうやら、朝を迎えたようだ。
「んん……」
眠る前と違うことと言えば、穏慈が部屋にいないということだ。どこへ行ったのだろうかと、部屋を出ようとして、ノブに手を伸ばした時。
「あでっ!」
途轍もなく鈍い音と、声が響いた。額はじんじんと熱をもち、さすっても痛みは引かない。涙がじわりと浮き出てくる。
『ザイヴ。起きておったか』
「っ痛ー……、謝罪もねぇのかお前ぇ……」
すまん、と一言言うと、ラオの様子を見に行っていたことを教えてくれた。たまたまタイミングが重なってしまい、この結果になったようだ。
『……すまん。色々と』
「え……、っ!」
再度出た謝罪の言葉に一瞬理解できなかったが、「ラオのこと」だと表情で察した。そう言う穏慈を見るところ、ラオはまだ目を覚ましていないようだ。
『アレに取り憑かれた所為で、ラオガの生気も少し薄れておった。回復すれば起きるだろうが……』
「何か問題あるの?」
『……欠落が起きるかもしれん』
言いにくそうな顔で、正直に俺に明かすその怪異は、強気も何もないただの怪異だった。ラオに欠落が起きるかもしれない、というセリフは聞き捨てならないが。
「欠落……」
『あぁ、視力や聴力などが欠落してしまう。戻る場合も、戻らない場合もある上、憑かれる状態にもよるがな』
憑かれた者の対価。一時的な退化。どうやら憑かれると、五感の内の一つが一時的に衰えるらしい。聞くところによると、それは時間が長いほど強力で長いようだ。
「じゃあ……」
『……ラオガの場合、二日ほどは寝込むだろうな。症状が治まるのはそれから三日といったところか』
俺たちの身に、いろんなことが起きていく。これは偶然なのか、仕組まれているのか。確実に『何か』が進行しているのが見える。
狂いに狂った果ては、一体どうなっているだろう。何を都合良く言ったところで、俺は引き返せない。引き返そうとしてはいけない。いつ何時、このような状況に飲み込まれるか分からないから。
「……ゲランの治療には付き合い切れませんね」
聞き慣れた声が、扉の方から聞こえた。
昨日の夜の話と言うのも、俺たちを帰すための口実だったようで、あの後も今日の朝も治療を受けさせられていたという。腕の包帯に滲む色も、少しだけ落ち着いてきていることが見えた。
「すみませんが、聞いていましたよ。でも、ラオ君のことですし、大丈夫ですよ」
どこから聞いていたのか、ということはこの際聞かないでおく。穏慈は、一時的に衰えることは絶対だが、欠落が回復するかしないかについては状態次第だと言っている。
「治る、よな?」
「……そう信じなさい」
こんな時、ガネさんは大人だと思う。他人のことにあたふたしても、仕方がないのは知っている。落ち着いていて、不安を感じさせない。
「それから、大した力になれなくてすみませんでした。もう少し、早く解放してやれたかもしれないのに」
ガネさんも、申し訳なさそうに俺に謝る。ただ、俺は誰かのせいだとは思っていない。思う必要がない。強いて言えば、俺が〈暗黒〉でもう少し警戒していれば良かったことだ。こうなってしまったことは、事実にしかならない。
「……何で、謝るんだよ」
「え?」
「誰も悪くないだろ。あんな状況で、穏慈たちだって殺されるかもしれない中で、誰一人死ななかったんだよ! 俺は、誰が悪いとか……思ってない……」
ガネさんに言った言葉は本心だ。俺たちに巻き込まれて、命を落としてほしくはない。だから、こんな結果にはなったけれど、誰も欠けなかったことが俺たちの成果だと思っている。
『……お前がそう納得しているなら、そうだな』
「そうですね」
「このことに関して、俺に謝るなよ。許さない」
「心配しなくても、許されない謝罪なんてしませんよ」
報告を済ませたソム教育師と私はラオの様子を見に来ていた。途中で、穏慈さんと鉢合わせたが、ザイの部屋に戻る途中だと言い、別れて医療室に来ていた。ゲラン教育師は一服している。
「……何したらこんなになるんだかなぁ」
「ゲラン、今は煙草はやめて」
「あー。しかし……」
ソム教育師をじっと見て、ゲラン教育師は反応を窺っているようだった。ソム教育師もそのまま見返していて、無の時間が少しの間流れる。
「何、何かついてる?」
「いーや? さっきのでかい奴……ソムや嬢ちゃんとは何か違う気がしててなー。何か知らねーかと思って」
「何、屋敷生が騒いでるから嫉妬してるの?」
ソム教育師は誤魔化していたが、そのやりとりを見て、教育師には気配は誤魔化せないのかもしれない、と思った。いずれは屋敷全体に知れ渡ることだろうけれど、彼はそれを望んでいないらしい。
それなら、私はあの時の約束を守らないといけない。
「ラオ、起きるよね?」
「ウィンちゃん……」
私の心配はこれまでにないくらいに募っている。ラオが眠っているのを見るだけで、心が痛む。どうして、ザイとラオがそんな〈暗黒者-デッド-〉の立場にならないといけなかったのか。
納得できないことと言えば、それくらいだ。
「……羨ましいなぁ。こんな可愛い嬢ちゃんに心配されるとは。大丈夫だ。しっかり生きてる」
「そう、ですか……」
私は、それでもそばを離れなかった。起きるところを見ないと気が済まない。そのまま、しばらくの時間が過ぎた。
「ウィン……」
扉を開けると、そこにはソムさんとウィンがいた。ウィンはラオの傍でじっと見守っている状態だった。
「ザイ……、ラオ起きないよ……?」
「……大丈夫。ラオはこんなんじゃ死なないし、強い奴だろ?」
『……と、いうわけだ。お前も、ザイヴの言葉に縋ればよい』
穏慈の優しいその言葉で、一瞬にしてウィンの頬に涙が伝った。本当に心配をかけてしまった。俺以上に、周りが傷ついたんだ。
「……ザイ君、言いたいこと言ってしまいなさい」
「えっ?」
ガネさんは、「ね?」とにこりと笑んで言う。見透かされていたのか。と思うと、やはり気に入らない。
「ウィンさん、お茶でも飲んで落ち着きましょう。ソムもどうです?」
ガネさんは二人を連れ、医療室から出て行った。それを確認したゲランさんは、面白そうだという顔で俺を見た。
「……何か話しに来たのかザイヴ」
「……ガネさんには隠し事できないなぁ。頼みがある、ゲランさん」
「ほう……?」
......
『ウゥ……? オサ、マッタカ……』
その体は楽になり、空間の重みも軽減されている。吟はのっそりと、静かなその場で立ち上がる。吟は嘘のように動き回れるまでになっており、ゆらりと宙を泳ぎ始めた。
『アァ、ヨクヤッタ、ヨク……』
〈暗黒〉の悲鳴が止まった様で、吟は今までの苦しみが嘘だったかのようにすいすいと動く。〈暗黒〉は救われたのだ。彼らの手によって。
重く、苦しみに取り付かれていた時間は、終わった。
......
「確かめたいんだ、ゲランさん。お願い」
ゲランさんの目は、自然とラオの方に流れた。しばらく無言だったゲランさんは、視線を俺に戻して、頷いた。
「いいだろう。承るぜ」
「! ありがとう!」
俺の顔が晴れたのは言うまでもないが、次にまた、俺の顔は曇る。
「……やっぱ、まだ何か隠してるだろ、ただ事じゃねぇこと。ガネも前と様子が違う」
恐るべし大人の察し力だ。多分、流れてる空気とかそういうもので勘が働くのだろう。
大人は嫌いかもしれない。いや、特にこんな教育師を相手にすると、いろんな情報を組み立ててくるから余計に。
でも、まだ言うつもりはない。ここまで勘付かれているなら隠し通すのは無理だろうが、まだその時ではない気がしている。
「俺に振り回されてるから疲れてんだよ。ガネさん、俺を強くするって言ってるし」
「そうかぁ。ま、気のせいならいいんだ。頼まれ事はこなしとくから、もう行け」
やけにあっさりとしているが、これほどありがたいことはない。しかし、気になることはまだある。
「じゃあもう一個、昨日、何で俺の名前聞いてあんな顔したのか、聞いてもいい?」
昨日の夜。あの顔は忘れない。忘れられない、の間違いかもしれない。だけど間違いなくゲランさんは「何か」を知っているんだ。
「あぁ……お前の両親、行方不明扱いになっただろ?」
「!?」
「まさかとは思ったが。行方不明……いなくなる前、お前の母親は重い罪を」
『……ザイヴ、どうした?』
穏慈の言葉で、青ざめた顔が少し引いたのを自分で自覚した。何でだろう。今の今まで押し込めていたけれど、母さんが起こした罪……思い出したくない、あの頃のことは。
「……ごめん、やっぱり戻る。穏慈、俺の横、いて」
何かに耐えられなくなった俺は、穏慈にそう言って、部屋を出た。訳の分からない穏慈は、そんな俺を追って、ついてきた。
『ザイヴ……? 震えておるのか……』
─本当、何でだろうな。何でこんなにも恐怖に駆られるんだろうな。
俺は、強く拳を握っていた。
教育師室でウィンさんとソムを前にして座る。あの場から遠ざけるためとはいえ、この状況を作ったことを自分で後悔していた。ソムがいるからまだいいが、僕は人を好まない。できることなら遠ざけたいほどだが、仕事柄そうもいかない。この場はソムに任せている。
「ねえガネ、大丈夫? 無理しないで、戻ってもいいんだよ?」
「……いや、大丈夫」
きっと、ウィンさんはその会話が気になったんだろう。一瞬だけ僕の顔を見て、すぐに俯いた。それ以上聞くことはなく、とりあえずその場は流された。
「あの……、お茶ありがとうございました……」
「いいえ」
「じゃあ、私は部屋に送ってくるね」
ウィンさんには心配をかけてばかりだろう。ザイ君も、そこは気にしているはずだ。僕からも、フォローを入れておいた方がいいかもしれない。
「お願いします。あと、……ウィンさん。あなたは、そのままのあなたで居てください」
自分も無理をしようなんて考えはいらない。ウィンさんまで変わってしまっては、いけない。
「ザイ君やラオ君を、支えてあげてくださいね」
「……はい」
信じることは、思い掛けないところで力になるものだ。それは、ウィンさんに限ったことではない。