第三十四話 黒ノ丹色ガ染メル
そこには巨大な化け物とも言うべきものがいて、それは目の前の教育師の腕に噛みついていた。大きな牙が存在し、それがその腕を抉る。真っ赤な血は溢れて、自らにかかる。
真っ赤な血は飛び散って、俺にかかってくる。
「ガネさん……!」
「全く……っ、世話が、焼けますね……っ」
ガネさんの腕から流れ出る血の勢いは、留まることを忘れたように止まらない。
「……っく、この!!」
剣を振り切るため、彼の腕はその状況でも剣を握っている。空いている左手で剣を持ち替え、一気に怪異の口を裂く。唸り声が聞こえ、牙は、自然と腕から離れていた。
動けないでいた体が無意識に動き、ガネさんを超えて、化け物を正面から思い切り殴った。そこまで強く殴ったわけではないが、それはまた唸って身を引いた。
『無事か?!』
「穏、慈……血が……」
ガネさんの腕は、真っ赤に染まり上がっている。取り敢えず止血をしなければと、ガネさんを座らせた俺は肘のすぐ上を押さえた。その横で、オミも一緒になって手を赤く染める。
「……っはぁ……」
ガネさんの呼吸が乱れている。それでも、ガネさんは必死に呼吸を整えようと、目を瞑って噛まれていない方の手で傷口を押さえている。
『退け』
「穏慈……」
穏慈はガネさんの前にしゃがむと、自らが着ている─その上から半身分だけ羽織っている─服を、俺が押さえていたところから傷口にかけて覆い、縛り付けた。
「すみません……」
「平気か?」
「とりあえずは。……オミ、部屋を出た以上、屋敷内への被害は免れません。安全確保に回ってください」
ガネさんの指示に快諾したオミは、すぐにその場を離れて屋敷生たちが集まる場へ向かっていった。それを見送り化け物へ視線を戻すと、その後方に、ゆらりと佇むラオの姿もあった。
穏慈と薫が、俺たちの壁になるかのように並んで、化け物の前に立つ。
『穏慈、どうにかして鎮めるぞ』
『あぁ』
『まだラオガは生きている。奴だけ引き剥がせれば……』
「……ザイ君、そんな悲しい顔、してたら……駄目ですよ……。ラオ君を、助けてあげないと……」
数回深呼吸をして、ガネさんはその足を再び立たせる。その体を支えようと、ガネさんには及ばない背丈の俺がその前に立つ。
「あんた怪我してんだろ、立つなよ!」
「はっ、人のこと言えますか? 僕の言うことを、全く聞かなかった君が」
「そ、れは……」
「……守るのは、君だけの役目ではありませんよ」
その血は未だ縛っているものに染み込んでいき、息も荒く落ち着くことを覚えない。いくら自分が動こうとしても、思うようには歩めない。
『避けろ!』
穏慈の声が聞こえる。薫が応戦している音が聞こえる。俺にも危機感はあったが、それよりも、ガネさんに伝えた。
俺の背後に何が迫っても、必ず止める奴がいるから。
「死んだら、許さねぇからな!」
ゴウッと、何かが迫る気配がそこに存在した。振り返ろうとすると、俺の目には化け物と、怪異の姿に戻った穏慈が映った。
ガネさんが俺の腕を引いて、それを剣で弾いて距離を作ったことで、穏慈が化け物に飛びかかり、その一部を嚙み千切っていた。
「僕は死にませんよ」
さっきまでとは違う、余裕をも見せる表情が見えたことで、俺の心には多少の安堵が生まれた。はっきりと迷いなく発された言葉が、俺に力を与えてくれている。
『ちっ、きりがないな……っ』
「なあ、どうすれば引き剥がせる!?」
『……異物をどうにかすればどうにかなると思うが』
「何でそんなはっきりしねぇんだ!」
『焦るなザイヴ。必ず助けられる。お前の力なら』
俺の力なら。つまり、〈暗黒者-デッド-〉としての能力を使えば、この状況を脱することができると、穏慈は言い切った。
何をどうすればよいのかと、俺が考え込んだ、そんな時。ソムさんが駆けつけてきた。聞くと、この異常に勘づいたのはウィンだという。
実は基本剣術の実習広間は防音の壁で、こういった外の情報に気付くのは困難な環境になっているのだが、ウィンはその壁を越えて、察したらしい。
途中でオミにも遭遇したと言い、ソムさんが事情を把握すると、すぐに行動に移してくれた。
「ウィンちゃんがみんなを避難させてくれてるから、基本剣術の広間に行くよ! オミも行ってる!」
俺たちはそれに応じ、穏慈と薫が二人掛かりで誘導することになった。俺も、とは言ったが、ここは任せろと言われてしまい、ガネさんと並んでソムさんの後に続いて走った。
ソムさんの言う通り、その広間で講技をしていた基本剣術の屋敷生は一人たりともいなかった。しかし、走ってきたウィンは、焦っている。
「ソム教育師、一人足りないんです! リカナが……!」
一人、残っているようだ。俺はつい最近まで基本生だったこともあり、リカナのことは知っている。十六歳の小柄な女の子で、結構弱気なタイプだ。多分、腰でも抜かしてるんだろう。
「リカナ! どこだ!」
時機に穏慈たちが化け物を引き連れてここに来る。その前にこの場を離れてもらわないと、関係のないリカナにまで被害が及んでしまう。それだけは避けなければならない。
応答を待っていると、ある隙間から声がした。
「ザ、ザイ……」
「あっ、いた! ウィン!」
「良かった……! リカナ、早く逃げよう! ここは危ないよ!」
ウィンが必死でリカナの腕を引っ張って連れて行こうとするが、なかなか進んでくれない。相変わらずな性格が災いし、恐怖で体が動かないのだろう。俺が、〈暗黒〉で化け物を前にして恐怖した時と同じように。
『何をしておるか! 小僧、さっさと逃がせ!』
「うるせぇな、分かってるよ! それ止めといてよ!」
すでに穏慈たちは広間に到着してしまっている。可能な限り、その入り口付近で止めておいてもらわないと、逃がすことも難しくなる。
薫は俺の言葉を聞いて舌打ちをすると、怪異の姿に戻り、唸る化け物に巻きつき締め付けた。
『グググ……ッ、オノレオノレオノレ! ワタシノモノヲカエセェェエエ!』
「くそっ、急いでウィン! リカナを抱えて出ろ!」
「うん!」
ウィンは素直にリカナを背負い、俺たちが入ってきた扉の向かいにある扉の方に走った。小柄だったのが幸いしたのか、ウィンは身軽に走って実習広間を後にした。
「もういいぞ!」
『遅いわ貴様!』
「……それで、ザイ君の力なら、と言うのは?」
そう、さっき穏慈が言った「俺の力なら」という言葉。俺の考えがあっていれば、俺の鎌がその力になる。俺の力で救えるのなら、そうしたい。
『鎌の扱いに不慣れなままのお前には難しいだろうが、やるしかない』
『グァァアアアアア! ガァアアウ!!!!!』
その大きな声に驚いて、薫が巻き付いている化け物を見ると、滅茶苦茶に暴れながら叫んでいた。時間もなさそうだ。
「穏慈、教えて!」
『何でも良い、鎌の技をぶち当てろ』
そう言われ、俺はすぐさま鎌を解化させた。そして、気が赴くままに【鎌裂き】をそれに浴びせた。
『ジャマダジャマダジャマダジャマダ! ワタシノタメニキサマノタマシイヲ! ワタシノタマシイヲッ!!!』
低く鈍い音がし、薫は弾き飛ばされた。化け物は俺に接近し、それを庇うようにガネさんと穏慈が応戦する。
『奴の血を鎌に吸わせろ! できるはずだ!』
穏慈が難しいと言っていた理由は、これだろう。不慣れな武器で、荒れ狂う化け物に接近する行為は、確かに危険極まりない。
間近でそれを行わわなければならないが、俺だってここの屋敷生だ。接近戦というだけなら、俺はやりきれる。
「分かった!」
鎌が血を吸収してくれるのだろうが、その勝手は分からない。でもこの鎌は、俺に応えてくれる。その不思議な信用から、不安はなかった。
その化け物が傷を受けた場所を探すために、それの暴走を避けながら近づくと、腹回りに目的のものを見つけた。
───ザイ。
見つけた時に聞こえたその声。気のせいかもしれないが、ラオのものだということは理解した。
ラオの体は相変わらず化け物のすぐ横にある。さっきまでだらりとしていた体が、憑いている化け物に反抗するように動き、苦しそうな片目が俺を捉えていた。どうやら、自力で少しの自我を取り戻したらしい。化け物の憑依はほぼ失敗に終わっているようだが、追ってくるのが目的であるならば、それは大した問題ではないのだろう。
その目を確認した俺は、再度腹に目をやると、そこから出てくる白い液体が見えた。血の色に特徴がある、つまり、この化け物は怪異の類だ。それが、ここまで堕ちた、というだけの化け物だろう。
早速鎌にその血を吸わせようと、直接その傷を思い切り刺す。これがもしラオの体だったら、俺はこうすることができなかったと思う。
『ギャァァァアアアアアッ!!!』
どうやら、血を吸っている証拠のようだ。鎌は赤く輝き、どこか不気味さを見せる。
その光が落ち着いてきたところで鎌を引き抜き、穏慈の横に戻った。
「で、どうすんの!?」
『いいか、それはあれの血を吸った鎌だ。今それで切り刻めば、あれだけ死ぬ。我らも加勢するから、動きを止めるぞ!』
「成程、生き血を殺すのは死に血ですか……。僕もやれるだけやります。ザイ君はそのままお願いします!」
ガネさんはそう言い残して薫のそばに行く。薫は人の姿に戻っていて、右目の上を切っていた。
「じゃあ穏慈……俺をあいつの背中に飛ばして!」
『余裕だ』
穏慈は俺の体をがっしと掴み、勢いよく投げた。俺は見事、綺麗に着地し、広間の外から入り口を氷で塞いでいてくれているソムさんを確認する。その近くには、オミが化け物の逃げ道を塞ぐように立ち、構えていた。
「……中はひとまず大丈夫だろう。私もこっちで加勢しよう」
「うん、お願い! ついでに屋敷生の保護も!」
ソムさんは、全てを見透かしたような、そんな感じで言った。大きな被害になることを想定してのそれだろう。一度その氷の壁を取り除いてオミを入れると、再度氷で封鎖する。広間の扉は開かれたまま、確実に外に被害が出ないように配慮されていた。
それにより、ガネさんも少しでも早く鎮めようと、怪我の痛みに耐えながら何度も斬りかかっている。
俺は振り落とされないように化け物にしがみついて、その上でタイミングを見ていた。真下に人がいたら、巻き込むかも知れないから。
魔物の血を吸った鎌はそれしか斬らないとはいうが、憑いていない場合は何ともいえない。取り敢えず人を斬らないようにしなければならない。
「このっ……お前みたいなやつに……」
俺は鎌を高く、ゆっくり振り上げる。血を吸った鎌の輝きは一層強くなり、俺自身が光っているかのような錯覚を浴びせていた。
「俺は負けねえよ!」
鋭く風を切り、それを縦に真っ二つに分断する。床に着地して、すぐにそこを離れて様子を見るが、動きが止まっただけで、二つに斬れたまま叫んでいた。
『ギャァァアアアアアア! オノレ、オノレ!』
化け物は、まだ死んでいない。ラオから離れていくと、次は憑く相手を穏慈に切り替えたようだ。向かう先がそれを示していた。
「穏慈!」
『来ると思っていたぞ』
自分が狙われているのに至って冷静で、避けようとはしていなかった。化け物に解放されたラオは、ぐったりと伏せていて動かない。それを見たガネさんが、ラオを引きずって部屋の隅に連れて行く。
とりあえず、ラオの奪還には成功した。穏慈はというと、先程から化け物相手にスレスレで避けるという動きを繰り返ししていた。
「時間稼ぎ……でしょうか」
『そんなことをしても無意味なのは分かっているだろう。奴の事だ。意識的に小僧に気を寄せぬよう囮にでもなっておるのだろう』
あぁ、成程。俺が斬りやすいように動いてくれているのか。俺に対して訴えていたのだと、ようやく理解した。
『小僧、吸った血はまだその鎌に残っている筈だ。いいか、残っているモノをすべてぶちまけろ。タイミングを間違えるなよ!』
「了解だ!」
薫が俺に助言をしたところで、俺は再び姿勢を低くして鎌を持ち直す。穏慈は、やはり自身も危ないくらいの距離で避け続けている。それに合わせて斬れば、多分大丈夫だろう。
そのタイミングを、慎重に、慎重に定めようと真剣な目になる。俺の頬には冷や汗が流れているのか、少しくすぐったい感じがした。それ程、俺は現状に慣れ切れていないのだろう。
「ふー……俺が、……」
俺に任されたことなら、やるしかない。俺は、自分にそう言い聞かせて、更に出てくる冷や汗を拭って穏慈と化け物が接近していく時を待ち、ついにその瞬間が来ようとしていた。
『オトナシクワタシノイチブニナレオウ!!』
『……断る!』
『キサマァァアアッ!!!!!!!!!』
その一瞬。穏慈が「避ける」というよりも、「身を引く」という動きを見せた。俺の動きに気付いてのことだろう、そこに距離ができたため、俺が斬るには十分な場ができあがっていた。
「ぉぉおおぁあああっ!」
『ナニッ……?!』
必死でつけた反動で上に跳ね上がり、俺は宙の風を斬りながら、その真上から赤く光る鎌を振るう。
『逃がさぬ、ここで朽ちろ!』
「はぁあっ!!!!!!」
『ギィィイアアアアッ、ガァァァアアアッ!!!!!』
化け物に上から下に再度真っ二つに鎌を入れ、俺は再びその真下にいた。
叫び喘ぐ化け物の下にいる俺が、倒れるその下敷きになりそうになることにいち早く気付いた穏慈が魔物の姿になり、自分の反射神経の良さを最大限に生かし、口で俺を銜えて連れ出してくれた。
彼は俺を下ろすと、心配そうに尋ねてきた。
『大丈夫か』
「俺は大丈夫だ! でもラオ……」
『グゥウ……クソォ……クソォ!! オ、オウ……ォォ』
苦しみ、のたうち回る化け物。分離したそれは、鎌で斬ったことでもう力を戻すこともできなくなっているようだった。
最後まで穏慈を諦めきれなかった化け物は、そのまま散って姿を消した。気配も完全に消え、もう存在はしていないようだ。
「……っは……はぁっ」
『ザイヴ!』
全身の力が抜けた俺は、床にへたり込む。
「……良かった……みんな、生きてる……」
凄く長い時間のように感じられる、今回の一件。ラオが憑かれて焦ったけれど、助けがあってこそ乗り切れた。
でも、俺は非力だ。だから、守りたいと思うものも、俺だけでは満足に守れない。
足りないけれど、今は、それでもいい。それでもいいから、守れるものを俺の力で守りたい。
広間の隅で意識を失っているラオに目を向け、生きている姿を確認すると、俺もその安心感から、倒れこんで少しだけ体を休めた。
ラオが、早く目を覚ましてくれるように、願いながら。