第三十一話 黒ノ解崩ト重イ意志
「……は? わからないって何?」
『言っておくが私はふざけておらんぞ。怪奇現象のようなもの、と言えば良いか? あ?』
ふざけていると思われたのが癪に障ったのか、薫の口調は少しだけ荒くなった。
でも、〈暗黒〉で一体何が起きているのか。それは単純に気になっていた。「わからない」と言うなりの理由と現状があるのだろう。
「口が悪ぃよ。……ザイ、取り敢えず行ってみない?」
「んー……まあ、問題が起きてるならそうだな。怪異って力任せだかだっ!? 痛い何すんだ穏慈!」
気に障ったようで、穏慈は俺を凄い形相で睨みつける。その顔で、俺の頭を思いきりど突いてきた。怪異の力で叩かれたのだから、それは痛い。
『怪異を侮辱とは良い度胸だ。〈暗黒者-デッド-〉が格上というのは確かだが、人間に言われたくはない』
「ごめんごめん」
『本当にそう思っておるのか小僧』
侮辱まではしているつもりもないが、俺が本当の意味で言っているわけがない。半分冗談だ。とは思ったが、事が荒くなるのを避けるために、嘘でも頷いた。
……俺が〈暗黒者-デッド-〉だということを知って、まだそれ程時は経っていない。
それなのに、既にあの頃の恐怖が懐かしくなっていた。今、こうして言われているのにも関わらず、平然と対応する俺がいる。あの頃なら、怪異の一言一言に恐怖し、自分の立場を理解しようとするので精一杯だった。
これも慣れなのか、それともどこかで恐怖を抑えているだけなのか。かと言って、過去を振り返ってもどうしようものでもなく。
〈暗黒〉に行って、また怪異に協力するのだろうと、心の内で考えていた。
「よし、じゃあ行ってみようか。気にならないわけもないしね」
「行くんですか?」
話を聞いていたガネさんが改めて俺に聞いてきた。ソムさんやウィン、オミもこちらを見ている。説明したお陰で事を理解したらしく、ウィンにそこまで暗い顔は見られなかった。
「うん、行ってくる。ガネさん、またよろしく」
「話をしたわけなので、自室でそうしても構わないんですが。まあ目の届く範囲にいるのは助かるので良いですよ。オミに見てもらえば、僕も講技に出られますし」
そう言って受け入れてくれるガネさんは、肩の荷が下りたと言わんばかりの表情をしている。おそらく、ウィンが知らなかったことで、俺たちを匿っている間は面倒をかけてしまっただろう。
「ザイもラオも……気をつけてね」
「うん、大丈夫だよ」
『行くぞ』
そして俺とラオは、穏慈と薫に連れられて、〈暗黒〉に降りた。
......
『オォ……オォ……』
風が唸っているような声で鳴く怪異が、そこにいた。
『オォ……オ、ォ……』
しかし、その声は次第に掠れていき、やがて上を向いて喉をひくつかせる。
そして、何に侵されたのか、突如その怪異の眼の玉は浮き出、そこからはその怪異の体内に流れる、ヘモグロビンの赤よりも濃い色の液体が流れ始めた。その怪異は、動かない。
─いや、動けなかった。
事態が飲み込めていないために、どうすればいいのか解らない状況に。それだけでなく、〈暗黒〉で広がる怪奇に恐怖していたのだ。喉を鳴らすが声は出ず、どうすることもできずにいたところに、ある集団が近付いてきた。
『むっ、あの症状……またか』
『薫、説明しろ』
〈暗黒〉に立ち、不穏な気配に気付いた穏慈と薫に誘導されるままに、俺たちはここに来た。目の前で起こるその様子に、正直目を背けずにはいられなかった。
『見た通り、今ここで起きておる現象だ。侵されて、死ぬだけだ』
そろりと目を向けてみるが、気分の良いものでないことは言うまでもない。眼が飛び出している状態が視界に入り、膝をつくと生理的に出てきた涙と一緒に嗚咽が漏れる。ラオは、俺の横で口もとを押さえている。胸元でいつまでも何かが蠢いているかのような感覚だ。
「何だよ、これ……!」
『ザイヴ、平気か』
あまり声を出せず、俺は首を横に振った。その様子を見たラオが、自分も動揺しているにも関わらず、俺を気遣って背中をさすってくれる。そのおかげか気持ちも落ち着いていき、呼吸を整えることができた。
「こんなの起こってて、分かんねぇとか言ってたのかよ……」
『だから怪奇だと言っただろうが』
「お前容赦なさすぎ……俺もザイも人間なんだから、お前と一緒と思うなよ」
「なあ、あいつ、何とかできないのか……」
横にいた穏慈に尋ねるが、穏慈は状況を詳しくは知らないため首を横に振る。それならばと、求める答えが来ないことは分かっていても、薫に尋ねるが。
『不明の事件と言ったのを覚えとらんのか』
そう切り捨てられてしまった。
「……何が起きてるんだよ……そうだ! 吟は!? 吟なら……」
『……吟は意識不明だ。残念だが回復を待つしかあるまい』
頼みの綱である吟も、動けないという。言葉からして死んでしまうことはなさそうだが、今の〈暗黒〉は油断ならない。もしかしたら、穏慈や薫にも……という状況が有り得てしまう。
『安心しろ、我は契約を破棄するつもりはない。お前と共にあろう』
大きな怪異の姿に大きな尻尾。その穏慈の尻尾は、俺を優しく撫でた。言葉の通り、死ぬつもりは毛頭ないということだろう。ただ、言葉に引っかかる点はある。
「それ、……もしもの時は道連れってことか?」
『……さあな』
「いや、そうなったら俺は破棄するけど!?」
『一度は契ったもの、お前が無事である限りは破棄せんぞ』
「ザイ……っ!」
ラオが指で示す怪異を、俺を呼ぶ声で反射的に見てしまった。見上げた首がガクガクと不安定に揺れている。飛び出しただけの眼の玉は、いつの間にか片側が落下していた。どろどろとした液体に混じった、ぎょろりとしたものは、浸されて浮かぶ。
一瞬で、背中が凍りついた。慣れてきたかも、と思ったのは撤回だ。やはり、ここは何が起こるか分かったものではない。
しかし、何がどうあれ事態を免れるためにも、これは解決しなければならない。アーバンアングランドが保つ均衡は〈暗黒〉によるものであり、その逆も然り。どちらかが崩れてはならない。
それでも、最終的にそれらの繋を切るのは、俺の仕事だと聞かされた。
─後から付け足されて穏慈から聞いたことだが、俺が持つ鎌がそれをすれば、〈暗黒者-デッド-〉の力が繋に流れ込んで砕くことが可能だという。それ以外の方法があるか定かではないが、この手でなければニつの世界のバランスは崩れて崩壊してしまうようだ。
「……っ」
その後、その侵された怪異は、俺たちが何も出来ぬままに立ちすくんでいる前で、脆く崩れていった。
......
あれからいくらか時は過ぎ、翌朝。
彼らのことをオミに任せ、僕が応用クラスの座学室に行くと、屋敷生は一斉にわっと寄ってきた。みんな口々に色々と言っているが、目立ったのはユラ君の言葉だった。
「ザイちゃんは無事!?」
ザイ君がホゼに連れて行かれたことは、知れ渡っていた様子。ユラ君のその目立つ声をきっかけにし、その口々は徐々に止まっていった。それを確認したところで、ザイ君の無事を報告すると、全員が安堵した。
「今日は僕が休ませてますので、ザイ君とラオ君は欠席です。……ところで」
僕が部屋に入ってからまず気になっていたこと。それは、私物化された個人収納箱。ここに置くものは座学や講技で扱うもののみとしているが、何故か衣服や間食用の食べ物などが置かれる状態になっていた。
後に片付けようとしているのか、仮置きしているのか、どちらかとは思うが。
「どうしてここまで自由になっているんですかねー? 気が抜けているんですかねー?」
「え? あっ、いや片付けますよ、片付けま……教育師目が怖いっす!」
約束は約束。僕がいないからと言って個人収納箱を自由にしていいことはない。まして私物化など、言語道断だ。
「全員今すぐ片付けなさい。それが終わり次第広間で講技をします。そうですね……十分でお願いします」
「じゅっ……!?」
屋敷生の顔は引きつるばかりだった。
一方で、ウィンは基本クラス─ホゼの代わりにソムが担当になったクラス─で、基本生が使用する広間を使って剣を使った講技をしていた。
ここは、応用生が使う広間とは少し違う。床にはマットのような柔らかい敷物が敷かれており、倒れても衝撃を少なくする工夫がされている。
そして、もう一点。応用生は竹剣と呼ばれる、丈夫な木材で作られた先の尖った剣を使用している一方、基本剣術ではある程度頑丈な棒で、鋭利さの少ない、初心者向けの道具が使われている。
「数日ぶりだね、何してた?」
「代理のノーム教育師が、講技とか座学とかしてくれました」
「ノーム? 特殊クラス担当だよね?」
ノーム=マカドル教育師。ソムが言うように女教育師であり、基本剣術担当ではなく、自然魔や調合術と呼ばれる特別な素質をもつ人のみが可能とする、物理とは違った技術を伸ばすクラスの担当だ。ちなみに、この屋敷には他にもクラスの種類がある。
「でもいろんな基本剣術を扱ってくれました。しかも、ウィンちゃんは素質を褒められたんですよ!」
「えっ、ウィンちゃん凄いね! じゃあ、今日は抜き打ちテストね! 基本の書に書いてある動作をランダムで言うから、言われた動きをやってね」
楽しげに言うソムに対し、その様子に敢えて口を出さないでいる屋敷生たちは、その後散々な苦労をするとかしないとか。
「そうですか、ラクラスが見てくれてたんですね」
ラクラス=モック、男教育師だ。僕よりも二つ年下の、もう一つの応用剣術のクラス担当である。
彼のことは、実力的に信用している。応用剣術の担当であるだけにそれなりに腕が立つ。
「……とりあえず、今日は厳しめにします。これから何が起こるか分かりません。戦えるとすれば、君たち応用者です。この屋敷を守ることを念頭に置いて取り組んでください」
ホゼの計画は、まだ始まっていない。始まってしまえば最後、制御はできないかも知れない。本当に屋敷を乗っ取ろうとするならば、戦える者は皆、阻止に協力して貰わなければならない。
「いいですね、ホゼなんかに負けられませんよ」
そう、屋敷生たちに言い聞かせる。その声は意図せず、低く、空気を重くしてしまう。屋敷生たちは、その言葉の重さを分かってくれていた。
「はい!」
意欲的な屋敷生たちの声。それは確かに前向きで、心意気は買えるものだ。しかし、それだけでは足りない。僕の言葉の重みが分かるのならば、僕がやることはひとつ。
─僕は、君たち全員の力を殺します。負けて強くなり、また負けなさい。負けた数以上に、更に強くなります。
─だから僕は、君たちを絶対に死なせません。
僕が殺めた数だけ、君たちは育ちます。