第三十話 黒ノ協力師ト影
〈暗黒〉編
事が収まった翌日の昼。水が引き、外を歩けるようになったことで、俺たちはオミを連れて銘郡に戻ることになった。ヤブやシュウはすでに建物から出ていたようで、そこはもぬけの殻と化した。
ゆっくりと歩きながら話をしている中で、ソムさんから改めてウィンが心配しているということを聞かされた。
「いーい、ザイヴ君。ちゃんとウィンちゃんを慰めてあげるのよ! ぎゅって!」
「だからそんなんじゃないって!」
ソムさんは相変わらず、俺にウィンを抱き締めてやれと迫る。勘違いをしているのか、ただからかっているだけなのかはともかく、何にしても、ウィンには説明するべきだ。俺たちがいる境遇。〈暗黒〉と、穏慈たちの存在のことを、全て。
「何、ザイ照れてんの?」
「ラオもうるせーな!」
自分でも顔が熱いのが分かる。そこに茶々を入れてくるのは、ガネさんだった。
「甘いですよ、ザイ君」
「頼むから黙っ……実践しようとしなくていいから!」
「無駄な抵抗は止めなさい」
「ガネが屋敷生にこういう接し方するなんて、新鮮で見てて楽しいね」
ガネさんは俺の腕を引きながら一頻りからかうと、腕を離して前方を歩き始める。
俺はその後を追い、後方から来るラオたちが何やら話をしながら来ているのをひっそりと見ていた。
「……あの二人はそういう奴らか」
周囲に聞こえないような声で、オミは俺に尋ねてきた。あの二人、とは恐らくガネさんとソムさんのこと。前方を歩く三人を見て頷かざるを得ずに、素直に返した。
しかし、どうやらソムさんは勘づいたようで、見たことがない笑顔で俺たちの歩に合わせるように話しかけてきた。
「なーにー? ラオガ君、お姉さんも混ぜてー!」
「何でもない! 教育師って凄いなって言ってただけです!」
ソムさんも、先程のやり取りを見て楽しんでいた身だ。誤魔化しておいた方が良いはず、咄嗟に出たその言葉で場を凌いだ。
そのうち銘郡に入り、屋敷が見えると俺は一つの問題が解決したことへの安堵を感じた。ザイを見てみると、その顔は凄く穏やかになっていた。
『ザイヴ、我々は暗号の続きだ』
穏慈は俺たちに合わせて、ずっと人に化けて歩いてくれていた。屋敷に戻ってくると、すぐに前の続きを促してくる。その穏慈も、どこか表情が優しい気がした。
「あぁ、うんそうだね。ソムさん、オミをお願い」
「勿論。でもちゃんと説明してね?」
「うん」
一先ず別行動になり、俺もザイの横に並んで歩いた。
......
そんな、表世界が一段落した頃。
『薫、穏慈ハマダナノカ……?』
『……仕方ない、これでも契約した身だからな。呼んできてやろう』
〈暗黒〉では、再びある怪奇が起き始めていた。何が起きたのか、それは怪異たちも判断しかねているらしく、ただおろおろとする。
薫は穏慈にも協力してもらうために、初めて人間界にその身を存在させようとするのだった。
......
屋敷に戻ってくると、ガネさんは一言、屋敷長に戻ってきた報告を済ませ、その足で書庫に向かった。
片付けられている本を取り出し、俺たちは暗号解読を再開させた。
「どこまで話したか覚えていますか?」
「確か、【二〇九示す。八 のもの。エキの痕跡】ってとこは解けてないよな」
ガネさんはまずラオに話を振るが、ラオは瞬時に俺を見る。少しくらい考えてくれてもいいのに、無責任に俺に流してきた。
「……じゃあ取り敢えず、ガネさんに確認。この数字は英字の番号?」
「いい線です。どこで切ります?」
ガネさんは感心して笑み、答えた。俺はそこまで言われて、ニ番目はB、だと思うが次の零が該当しないため二十で一つだと考えた。
「二十番目は……T、九番目はIだから……」
「血か!」
「はい。ちなみに、八の後ろは【%】が消えていることが推測できます。人の体内の血は、成人で約八%と言われています。これは男性の場合ですが、これを記した者が男性だったんでしょうね」
「なるほど……じゃあ【エキの痕跡】ってのは血液の痕跡ってことか……」
穏慈も頷き、ガネさんと顔を見合わせる。これで暗号の解読は完了した。結果─
真っ赤な血に染められし、その印に宿るその眼は怪しく輝り、それが映し出すものは、真っ黒な世界〈暗黒〉。
「【眼を軸にし血液の円で囲う。鏡がそれを通す。血の痕を残す】。つまり、鏡に自分の血で円を描き、その円の中心にこの眼を映すと、実体のない異物として向こうに行ける、ということが書いてあります」
鏡を利用して、ガネさんは存在できないはずの〈暗黒〉に、実体のない存在として自分を持って行った。それを試そうとする心持ちが何ともいえない。
「……これを読んだ後に、試しに実行しました。見事成功はしましたが、心を探られる感じもあって気持ちが悪かったですよ。またしようなんて思いません」
『しかし、何故こんなやり方を記した書を残したのか。情報の流出は禁じられているし、そもそも怪異がしたことなのか、あるいはまた別のものがそうしたのか……』
既にその方法を実行済みの人間と、〈暗黒者-デッド-〉が分裂した二人を相手にしている穏慈が、今こうして普通に話していること自体は、何ら問題ではないのだろう。
ラオはそこまでは考えていないようで、開いた口を塞げない反応を示していた。
「おいラオー?」
「あっ?! いや、……改めて奇妙だなぁって思って」
「だなー。けど慣れたよ。狂ってる奴とか見たし、俺も血塗れになったし。もう大丈夫だけど」
肩の傷はほとんど塞がっているし、足も痛みはなく普通に歩くことができる。しかし、治っても傷は残るだろう。
痛々しくなった俺の体は、いつかバラバラになってしまうのではないか、とも思えてくる。
「それで、僕のことはもういいですか?」
「うん。俺が気になっただけだから。取り敢えずウィンたちに話そう。ガネさんの部屋でいい?」
「構いませんが。貸しでもいいです?」
「そんなことに貸し使うの?」
「まさか」
ラオたちには先にガネさんの部屋に集まってもらい、俺はウィンを呼びに行った。「無事でよかった」と言う目元は、少し寂しげだった。
「……話がある。ガネさんの部屋に、みんな集まってもらってるから、来てくれる?」
ウィンは悩むこともなく、軽く頷いて、すぐに部屋を後にした。まっすぐに目的地へ向かう中、少しだけぎこちなさを感じた。
ガネさんの部屋の扉をノックし、静かに入ると、どこかのんびりとした様子で待っている仲間の姿が目に入った。
「お待たせ」
ラオとオミ、穏慈はもちろん揃っている。ソムさんがウィンもいることも確認すると、すかさず立ち上がって俺の肩に手を置き、真面目な顔で言った。
「ぎゅってした?」
「その話生きてたの……してねーよ」
「もちろん生きてる! でも、自分でお迎えに行ってあげたんだね」
まず気にするところは、ウィンへの対応だった。俺の反応を見たソムさんは、俺から離れながらウィンを気にかけてくれた。
「ウィンちゃん、隣に座ろ」
ウィンの手を引き、自分がもともと座っていたであろう場所へ誘導し、話を始めてくれた。
「それにしても、不思議だね。アーバンアングランドって実はどうなのかな」
「さぁ、どうでしょうね」
何が起きているのが世界なのか、何が起きているのが本当の世界の姿なのか。今ここにいる人間に、それは分からないことでしかなかった。
『手早く済ませるぞ。血が騒ぐ、終わったら行こう』
「えっ、本気? ……分かった」
俺は彼女たちに向かい合う、ラオたちの横に座った。
「ザイ、話って……」
「ウィンは、……この世界を繋ぐ世界の存在は知ってる?」
「……この前聞いちゃった。ガネ教育師たちと話してた時に」
「そっか。……穏慈はその世界の、〈暗黒〉にいる怪異なんだ。人間じゃない。俺とラオは、そこに唯一行けるんだ。人間ではあるけどそうじゃない。そうじゃないけど人間、なんか、難しい力があるらしい」
今まで、知られたくない。巻き込みたくないからと、ウィンには話さなかった。しかし、それ自体が巻き込んでしまうことに繋がりかねないことは、ホゼの件でわかった。分からないが故に、俺たちに不信感を抱いて手を伸ばす。
そこまで至らなかっただけ良かったが、ホゼが書庫で暴れた時は本当に危険を感じた。
俺たちは、現状のすべてを話した。
......
『……穏慈、主ナラ判ルハズ。早ク戻ッテコイ。デッドト共ニ……』
〈暗黒〉はもう空気が耐えられぬ状況になり、窮屈だと怪異は動き回らなくなっていた。何が起こっているのかさえ分かれば、事態は改善に向かうであろうが。
『……繋がった、か』
アーバンアングランドへの導を探していた薫は、一本の光が射す場所を見つけた。
そして、薫はそこから消えた。
......
話を終えると、もやもやしていたものがなくなったようで、ウィンはすっきりとした様子だった。
「ごめんな、ウィン」
「ラオ、もう気にしないで。巻き込みたくなかったって、そう言われてどう返せばいいの? 気持ちは、分からないわけじゃないから」
普通に笑い声も飛び交うまでに、曇っていた空気が晴れていた。
「ただ、公になれば混乱が起きかねません。話したことはすべて内密にお願いします」
「はい、解ってます」
一段落着くと、穏慈は俺に〈暗黒〉に行くよう迫ってきた。
ソムさんはウィンにオミの紹介をし、教育師の話を進め始めている。俺たちの話が終わると自由な時間になっていた。
穏慈は少し休みたい俺をよそに、甘えだと言ってぐいぐい引っ張っている。しかしその腕にかかる力が緩むと、穏慈があたりを見回し、ラオの方を見ると一言。
『……薫が来る』
「えっ!? 薫も来れるの!?」
『何を言うか。怪異は皆行き来できると言っただろう。〈暗黒者-デッド-〉と契約した怪異は存在時間が長いというだけだ』
穏慈が察知した通り、突然そこに巨大な気配が溢れて薫が現れた。窮屈そうに部屋に収まる大きな怪異の体が、目に入る。その大きさに呆然としてしまったが、慌てて駆け寄る。
「……いや! 薫、人化希望! 穏慈みたいに!」
『した方がいいのか』
「環境が違いすぎるだろ。こっちに来たら絶対だ。大きいし、処分されかねないよ」
それもそうだな、とラオの言葉で意外と素直に対応した薫は、目の前で人化する。穏慈と並ぶ背丈で、首が痛くなりそうだ。
「あれが怪異……」
ウィンは出てきた薫を見るなり、目を丸くして俺に視線を送った。こんなものがいる世界に行っていたのかと、少し動揺しているのかもしれない。
『貴様、何故気付いてすぐ来ない』
『仕方あるまい、いろいろあるのだ。これでも我はザイヴを急かしたぞ』
悪びれる様子もなく、淡々と俺のせいにする言葉を言い放つ。容赦のない怪異だ。
しかし、わざわざ薫の方からこちらに来たということは、それだけのことが向こうで起きていると、何となく予想がつく。
『強行すればいい話だ』
『阿呆か。それで機嫌を損ねたら面倒だろうが』
強行する手もなくはないという遠回しな言い方に、少し距離をとる。それに気付いた穏慈は、自慢気にふん、と鼻を鳴らした。
『その手は使わん』
「あぁそー」
『ふん。ラオガ、貴様も来い』
「えっ、俺も?」
『当然だ、その存在である以上は小僧に同行しろ』
「……もー面倒くせーな。何が起こったんだよ」
一応聞いておこうと尋ねるが、薫は答えない。ラオも聞いたが、それでも口を開かず、暫く下を向いていた。
そして、その口が開き、放たれた言葉は、俺の思考を止めた。
『……不明の事件んだ』