第二話 黒ノ路ノ怪ト主
「ザイ、もうちょい食っても良かったんだよ?」
食事を済ませた俺たちは、屋敷生の自室が設けられているエリアに向かって並んでいた。ラオは腹八分目という言葉を知らないかのような量を、朝から当然のように完食していた。俺の量が少ないのかもしれないとも思ったが、それを抜きにしても朝から食べる量かと言える食事だった。
「俺は……ほら、一度には食えないから」
「何それ、寝起きに飯食べたいって言ってたのザイだよ」
俺はといえば、サンドウィッチを二つと、果物ジュースで腹を満たしていた。特に今日は、朝から色々なことが起きていて、消化すら面倒くさいと思える。
「体調のこともあるし、今日は部屋から出てきたらだめだからな」
「心配しすぎ。でも、ありがと」
自室の場所は少しだけ離れているために、道中でラオと別れて自室に戻る。ちなみに、その鍵は各々の管理であり、外内どちらも差し込んで回さなければならない作りになっている。慣れた流れでポケットから取り出して、鍵を回した。入るとすぐに、備え付けの机上に鍵を置き、数時間前まで転がっていたベッドに潜り込んだ。
もしかしたら、疲れているせいでよく分からない変なものを見たのかもしれない。食事前のことを思い出し、無理やり納得させたことも意味を成さなくなっていた。ここで休むことができれば見なくて済むのではないか、と考え、今日はラオの言う通りに、一日ゆっくりと休めるために体の力を抜いた。
そう思ったものの、実際は全く落ち着くことができなかった。
─夢の中だと思っていた俺がいたという〈暗黒〉は、『怪異』がいる世界で。その『怪異』に『主人』だと言われた。
にわかに現実とは思えないあの感覚のためか、俺の頭は思った以上に混乱していた。
その先を考えるのが怖くなった俺は、しばらく寝ることもできなかった。眠ってしまったら、またあの暗い場所が辺りに見えてしまうのではないだろうか。どこかで、そう読んだから。どうすることもできずに、ただ呆然と、過ぎる時間を見ていた。
......
ふと目に見えた景色。それはあの空間ではなく、澄んだ場所。安心感を覚えるのは言うまでもない。あの闇の世界は、空想であって欲しい。俺が夢で作った、ただの作り話だと。
闇とはむしろ真反対とも言える情景を主観として見て、穏やかで静かで、周りに誰もいないことを少し不気味に思うも、闇ではないことに気を抜いていた。
しかし、その直後。すぐにまた、あの暗黒が広がった。
「何、……っ」
背後にただならぬ気配を感じて振り返ると、あの怪異が存在していた。それは、一度前に出逢ったときと雰囲気が全く違い、異様な空気がそこらに散っていた。
「おい、何な」
何なんだ、と言おうとしたのを途中で遮るように、突然俺をギラリと鋭い眼光で捕らえた。いや、睨みつけてきたと言った方が的確かもしれない。この状況は、良くないことが起きようとしていると予想するには容易だった。何となく、嫌な空気が漂っていることが身にジワリと染みてくる。
俺の未来を握っているようにも捉えられた重苦しい空気の中、唐突に〈暗黒〉属の怪異が大きな口を開いた。俺の中では何がどうなっているのか整理もついていない状態のまま、その怪異は俺にあることを求めてきた。
『……我と、契約しろ』
主人、と言っていたのは確かだが、俺から見れば意味の分からない話の流れに戸惑う。一体何の契約で、何故俺と怪異が契約をすることになっているのか。そのことに関しては、皆目見当もつかない。
『気に入らぬか』
「……気にいるとか、気に入らないとかじゃないだろ。そもそも、お前は何なんだ! 〈暗黒〉属の怪異ってだけじゃ分かんねえんだよ!」
怪異の存在。目の前にいる、大きな生き物。その異質さは魔物でもなければ、それ以上のもの。もしも、初めてこの空間に居たときに聞いた声がこの怪異のものならば、俺は喰われる、ということになるだろう。
あの恐ろしい声が、頭に蘇ってくる。しかし、目的が変わったらしい怪異は、言い放った。
『言ったろう。我は〈暗黒〉に棲む魔だと。……あぁ、そうか。大雑把に言われても我を呼べぬか。……それは契約をすれば分かる。お前は我と契約すると、我が決めた』
俺の同意なしに、心なしか興奮気味の怪異はこれは抗えない事項だと言わんばかりに俺を責める。最初の恐ろしい発言で、俺に十分な恐怖を植え付けたのに。そのことはお構いなしに、怪異は怪異の事情で事を運ぼうとしていた。
「何で俺なんだ。何のために必要なんだ!」
『お前は、人間。ここは、言うなれば魔の世界だ。本来であれば、人間がここに『存在』することはできんはず。しかし、お前は実際にできている。珍しいモノを見つけたのだ。お前は、〈暗黒〉に関わる重要なモノ。最初の戯言は忘れてくれ。お前をとって喰うつもりはない。人間が、〈暗黒〉に存するとは』
それを聞いたら最後。俺は『自ら』を知り、紛れもない『唯一の存在』を知ってしまうのに。その言葉から耳を閉ざすことはできなかった。厚い瓦礫が落ちてきそうな背中。頬を伝う冷や汗に、動揺を隠せない瞳孔。全身が震えるこの感じ。つまり、俺は……俺の「存在」は、特殊であるということ。
『お前は、ここで唯一の存在。〈暗黒者-デッド-〉だ』
初めて聞くその言葉。この〈暗黒〉に、存することのできる者。それは分かった。分かったつもりだ。ただ、どうして俺がここに存在できるのかは、俺自身も分からない。これまでだって、そんな気配すらかけらも感じることはなかったのに。突然起こったこの事は、俺に何を告げたいのか。何故、今、この時にこうしてここに入り込んでしまったのか。
「……何、それ」
聞いたばかりの俺の特殊は、当事者でなければ確かに凄いと思えることなのかもしれない。しかし、こんな状況にいる俺は、一体どんな反応をすればいいのだろう。その「本人」となっている俺は今、ただただ呆然とするしかなかった。
─ソノ少年二、契約ヲ。