第二十七話 黒ノ持ツ力ト器
一階に来た私は、床に敷かれるようにして僅かに波打つ水を目の前にしていた。
「……今日がその日、だったのね」
どうにか、浸水の速度を遅らせることくらいはしなければと、持っている杖を目の前で回す。当然、杖の動きにより風が起き、私の能力も相まって、波を大きくしながら水は徐々に扉の方へ向かっていく。
それを確認して、しゃがみ込みながら杖を回し、そこに軽く息をかけた。発生した風は氷風に変わり、溜まっている水は扉の際に寄って凍った。
その氷が今ある水位よりも高く作られ、一時的に水は入ってこなくなった。
─ソムのこの能力は、未だ解明されていないとされる、珍しい能力の一つ。息を吹きかけることでアクションを起こす、自然魔の中でも特殊な条件をもっている。つまり、アーバンアングランドではほとんど見られない人材である。
それを終えて外へ向かい、扉を出た先には、背を向けたホゼが立っていた。彼が私の存在に気付き、ニヤリと笑みながらこちらを向いたのはすぐだった。その足元は、やはり水に浸っている。
「まさか貴様が来るとは思わなかったな」
「私もあなたがこんな真似するとは思わなかった。……強欲になったのね」
「ふん、私は変わってないつもりだが……」
その両手には太刀が構えられた。私も杖を構え、体の前で視界を塞がれないように回す。
「お前の能力は厄介だ。私の計画には目障りでしかない」
「だったら何、私を殺す?」
先程よりも強く息を吹くと、一気に炎が発生し、軌道に従って回転しながらホゼに向かった。
「─炎華」
炎の旋風のようなそれが、ホゼの前までは勢いを保たせていたものの、簡単に避けられてしまった。
「どうだろうな」
黒靄をうまく使い、ホゼは自らの身を眩ませた。流石に追えずに辺りを見回す。どうしても、その姿を視界に捉えることはできなかった。
このままじっとしていても仕方がないと、扉に寄ってできた氷を跨いで塔に入る。すると意図せず扉が閉まり、水が全く入ってこなくなった。その状態を見て、一瞬で把握した。慌てて扉を開けようとするが、全く動かない。
そして、降りてきた階段の方も、扉や壁はないはずなのに、何故か阻まれるように階段に行くことができなくなっていた。
「何を……!」
閉じ込められた事実を受け入れつつ、窓の外を見て、外景は何も変わらないことを確認した。つまり、ホゼが施した「何か」によって引き起こされたことになる。
「間違ってもこんなところで死なないことだ」
そんな言葉が、耳についた。
ヤブは目で追えない速さで、トンファーを振り回し続けている。ガネさんの体勢が僅かに崩れたところを狙い、その度にその足元を完全に崩そうとしていた。
「隙ありだぁ!」
「ちっ……しつこいですね」
「はあー!? テメーだってしつけぇよ! 俺様にここまで対抗するとはなぁ!」
そんな時だ。ガネさんの微妙な表情の変化と、それに伴い何かの糸が切れたように苛立ちを醸し出したのを、俺は見て感じた。
「いちいち癪に障るクソガキですねー……死んでください」
「ガネさん怖っ……」
ガネさんの纏う空気に圧されながら、手元で青白く光った鎌に意識を戻す。
不思議と、不気味な感じはしない。むしろ、俺に力を貸してくれるかのような力強い光だった。確か、以前の【鎌裂き】は、穏慈が使えるから使え、と教えてくれたからできたものだ。もしかして、こうして光った意味は。
『ザイヴ! 【歪鎌】が使える!』
鎌で裂くことは勿論だが、標的に対して不規則な軌跡が作られ、相手を追い込む。穏慈はそう言った。やはり、使える鎌の技能が増えた、ということだ。
その確かな条件は全く分からないが、今の状態は好都合だ。
「いや待って! ザイ! 何戦おうとしてんの!」
「えっ、ごめんなさい!」
俺が参戦しようとしているところに、ラオが抑制するように声を上げた。条件反射で謝るが、オミにその理由を聞かれると、しっくりくる理由は思いつかなかった。
「……何で俺謝ったんだ?」
「ザイ! 言ったこと忘れたの!?」
ふざけているわけではないが、このままだと本気で怒りそうだと、黙った。しかし、俺が加勢しようとしていることに変わりはない。静かにヤブに狙いを定め、ぐっと鎌を握る手に力を入れた時だった。
あの黒靄が、突如俺の横に現れ、俺の体を包もうとしたのだ。
「少年!」
「うわっ!」
俺に向かって伸びてくるそれをオミが遮り、間一髪、俺はオミの背中に回り込めたのだ。その黒靄が薄れていき、ホゼの姿が見える。歯をこすって睨みを利かせるその存在の、慣れない恐怖に体を震わせる。
「何の用だ。別にすることがあったのではなかったのか」
「……あぁ、そろそろだ。溢れ出ている水が、一階の窓から入り込む」
聞いていた水害は、やはり起きたらしい。今はソム教育師が一階にいるはずで、何とかできるかも、と言っていたのに、わざわざホゼがこんなことを言いに来るということは。
「お前、何した!」
一階には、ちょうど俺が少しかがんだ状態で外が見えるような窓が二つあった。上の方にも、いくつかあったはずだが、「窓から入り込む」と言うことは、すでに扉は水圧で開かなくなっているはずだ。
「逃げ場のなくなった場所で……あいつはどうなるだろうなぁ?」
最悪の想像に、背筋が凍る。逃げ場がない、つまり階段を上れない状態にあるとでもいうのだろうか。ソム教育師を助ける必要がありそうだ。
「あんた卑怯にもほどがあるだろ!」
「……ザイヴ、お前ならどうなっていただろうなあ」
この口ぶりからすると、そもそも俺を閉じ込めるつもりで計画していたのだろう。ソム教育師が来たことで、相手を変えたようだ。そのことを脅して、俺を引き込もうとしているのかと、察しはつく。
「時とは、残酷なものだ」
気味悪く笑みながら言い残し、ホゼはその場から消えた。
「……外の状況的に……さすがにまずいな……」
逃げ場がない。それなりに大きさのある二つの窓からは既に水が入り始めていた。
「こんなに一気に入ってこられたら凍らせるなんてできないし……まして気化させようなんて難しい……」
完全に身動きが取れなくなってしまった。どういう仕掛けでか、階段への道が閉ざされている。「行けない」という事実だけは変わらない。
「どうしたらいいの……」
「ガネさん一瞬避けて! 【歪鎌】!」
急いだ方がいいと判断した俺は、決して軽くはない体を動かして、無理矢理それを放つ。
勢い良く振ると、確かに不規則な軌道で、でも狙った通りにヤブに向かっていった。
「何だぁ?!」
「うわっ、強引ですね!」
そんなガネさんに耳を傾けることなく、俺は自分に感心した。こんなものが扱えるなんて、少し前の俺では想像もしていなかったものだ。
「聞いてますか!?」
「え? 何?」
「君、あとで覚えていなさい」
その顔が、見たくないものであることは見なくても伝わってくる。俺はガネさんの顔を見ないようにして、ヤブの様子を窺った。
食らったヤブは、飛ばされた先にあった壁に激突したらしく、その壁の一部に亀裂が入り、屑がはらはらと落ちていた。本人はというと、その下あたりに倒れ込んでいた。
「まだ、言ってなかったよね」
鎌を前に突き出し、ヤブを見据えて言い放つ。俺がもつ、この鎌を操るための資格の名を。すると納得した彼は、顔を歪ませて笑った。どうやら、その空間、存在のことは知っていたようだ。シュウ─もとい泰─が近くにいるのだから、知っていても不思議はない。
「……クハハッ、通りでホゼ様が欲しがる訳だ……っ」
ヤブがその場から動けないことを確認し、ひとまずソム教育師が危ないことを伝えると、ガネさんは話を聞いていたと、すぐに首を縦に振った。
「分かっています。彼女を助けないといけませんが……この状況も……」
話をしようとするも、爆発音のような激しい音が穏慈たちの方からするため、再び解放された能力を放つ。
先程同様に、勢い良くシュウに向かっていく。穏慈がギリギリまで避けなかったことで、見事にシュウに命中した。
「さっきは世話になったけど、本気で戦ってるみたいだから加勢させて貰ったよ」
それを食らった二人は、倒れこんだまま呆然として、俺を見た。【歪鎌】一発で、これほど形勢逆転できるとは思っていなかったため、少しだけ申し訳ない気持ちにもなる。しかしこれは、命を懸けた戦いだ。遠慮はしていられない。
「……へえ、嫌な技ですね」
『あぁ。【歪鎌】は名の通り、生物が食らうと体内の一部が歪み、正常な働きを失う。一時的だがな』
言葉通り、二人とも思い通りに体が動かないようで、動きが定まらないことの否定はできなかった。
「これが……〈暗黒者-デッド-〉……て、やつかよ……!」
「ヤ、ブ……。違、う。こんなものじゃない……」
シュウは元怪異なだけあって、その点において察しがついていた。俺の今の力はまだほんの一部らしく、今後も扱えるようになる技能が出てくるという。それはそれで、〈暗黒者-デッド-〉の存在が、自分の中でさらに恐ろしくなっていった。
「ともあれ、ようやく落ち着きましたね」
「あれ、ガネさんよく見たらすげー怪我してる」
余裕で躱しているものと思っていたが、目の上や腕からは血が、その他様々な所にも擦り傷があった。勿論、ラオや穏慈にも似た傷口が複数見られる。
「まあかすり傷程度なので。それよりソムのことが気になります。早く行きましょう」
「ラオとオミはここで二人を見てて! お願い!」
「えっ俺!?」
まだ戦う気はある様子の二人を見て、しばらく動けないことも穏慈の説明で分かってはいたが、俺が相手にしなければならない敵は奴だけだ。こんなところで二人に割く時間はない。
「ちっくしょ……、逃がすか……っ?!」
オミはチャンスといわんばかりに、ヤブの手を足で捻り潰した。
「ぐあっ!? 痛っ……ぅっ!」
「少年の好意だ。大人しく諦めろ」
オミには俺の考えが伝わったのか。俺の代わりに、俺の言葉を口にしてくれていた。それを聞いて、俺は一階へと降りた。
ザイは、ガネさんと穏慈のあとを追って行ってしまった。助けに来た時の弱った感じは見せてない。しかし、あの状態からして、無理をしているのは間違いない。俺が行くべきだったのではないかと心底思う。
それでも俺がこの場から動けないのは、何故だろうか。
「オミ……てめえ……」
「少年の本当の敵はホゼだ。それ以外に刃を向けて殺しても意味がないことを少年は解っている」
オミの言葉とこの場の状況から、それ以上考えることをやめた。ザイを逃がしてくれたというオミが見えるように、壁に寄りかかって座る。
この際だと、オミを観察しようと思ったが、その必要がなさそうなのは、今の言葉で判断できた。実際、ザイが考えていることだろう。
「……戦いに犠牲はつきものでも、多分お前らは救われた犠牲だよ。少なくとも、俺はそうだと思う」
「あぁ。……賢い少年じゃないか」
その心遣いはザイらしい。それでも、これで終わってくれないのが戦いだ。次はきっと、どちらかが死ぬまで戦わなければいけないはずだ。
階段を下り切ると、階段口のあたりで水がぴたりと壁に張り付くように留まっていた。何が起きているのか一瞬理解できなかったが、ホゼが俺たちを誘った理由だろう。
水はソム教育師の胸元あたりまで達していた。水の増加は早い上、きっともう少し増えるだろう。
ソム教育師に向かって声をかけると、その声は聞こえるようで、こちらを振り返ってどうにもならないことを伝えてきた。
「ガネさん、どうしよう!」
「……この通用口は扉もないのに遮断されています。意図的に何かによって閉鎖されているなら、壁を壊しましょう。穏慈くん、一緒に頼めますか?」
『あぁ』
あらゆる面で人よりも優れた力を持っている穏慈ならば、朝飯前の頼みだろう。
拳を握る穏慈の横で、ソム教育師の様子を気にかけた。
『ザイヴ!』
「えっ」
穏慈が一連の動作を中止し、大きな声を出した、その瞬間だった。一瞬だけ視界に黒靄が見えたが、背中を力いっぱい押され、俺の体は水を留めている壁のような隔たりをすり抜けていた。
「ザイ君!」
それは、俺の弱点であり、そのことは、もともと俺のクラスの担当だったホゼが、知らないわけがない。隔たりを張った本人はコントロールできるのか。その手によって、俺はソム教育師と同様に閉じ込められていた。