第二十五話 黒ノ憂時ノ救イ
翌、初の一時。ガネさんが屋敷長に許可を得た上で、俺たちは玄関口に集まった。ソム教育師がガネさんと並ぶように先頭を切り、それ続いて崚泉に向かう一歩一歩の音が、妙に耳についた。
「想定ではどれくらいかかりますか?」
「んー……まあ初の四時前を過ぎることはないと思うよ」
「初の……えっ、歩くんだよな?」
思わず顔が引きつった。長時間歩き続けるなんてことを、今まで経験したことがない。想像もできなかった。
「……それでも、焦っちゃだめだよ。もちろん、早く彼を助けるのも大切だけどね。今回は状況が違う。焦りが悪いものを引き寄せることはあるから、焦りを最優先にさせない方がいいよ」
考えることが違う。敵がいる場所に乗り込みに行こうという時に、加えてその相手は元同職であるにもかかわらず、冷静で、客観的で。教育師らしい思考だ。
「……で、私ずっと気になってるんだけど……」
やはり気にはなるようで、ちらりと穏慈を見て、ソム教育師が言う。その視線に気付いた穏慈が見返した。
確かに、気にならない方がおかしいかもしれない。特に、戦闘に特化している教育師であれば尚更のこと。異様な妖気に異様な眼など、特異を感じるところはある。
ガネさんがどう言うべきか、と迷っていると、穏慈は何かを察したらしい。誰かいる、その事実のみを知らせてきた。それに反応してその方向を向いた時、地を踏む音が確かに近くから聞こえてきた。
『……あの胸くそ悪い臭いがする』
「ホゼがいる、ということですか? それにしては……」
『いや、かすかにする程度だ。別の者だろうな』
少しずつ大きくなるその足音に、俺たちは警戒を強めて、じっとしていた。
その姿が見えると、ガネさんがまず針術を使おうと手に持つ。それを確認したその人物は、まっすぐにこちらを見た。その眼は、ガネさんに似たような色だったが、また少し違う、銀色だった。
「……お前たちは、少年と親しい者か」
穏慈がかすかにホゼの臭いがすると言ったことから、「少年」と言ったその男がザイヴを知っていると判断し、ガネさんが問い戻す。
「ザイ君を知っているんですね。何故こんな場所に? まさか手にかけたりなんてことは」
「……あぁ、私は丁重に扱っている」
「ホゼは、そういうわけではないのね」
「連れてきた時はかなり虫の居所が悪そうだったからな。……あぁ、それから。少年も何の意地を張っているのか飯を食べない。ホゼも頭に血が上ってきている。助けたいのなら早く来い。それを言いに来た」
それは危険だ、と四人で顔を見合わせる。目があったと同時に、何故ホゼ側の人間がそんなことをわざわざ言いに来たのか、冷静に思えば不可解ではある。
尋ねようとしてもう一度向き直ったものの、男の姿は既になかった。
「……あぁ言われては仕方ありません。少し急ぎましょう」
「あぁ」
俺が起床して間もなく、ホゼが様子を見に部屋に入ってきていた。真っ先に手を付けていない食事を見て、機嫌を悪くして俺に怒鳴り散らしている。
「拐われといて普通に喉通るわけねぇだろ!」
「食わんと傷も治りが遅くなるだろうが! 私が言ったことを覚えていないのか!」
食事は俺が寝ている間にオミが運んできたのだろうが、俺は俺なりのやり方で、この状況に対して抵抗を示す。小さな抵抗でも、それが複数に重なれば大きな意思表示になる。
「今のあんたの為にどうこうしようなんて思わねえよ。さっさと出ていけ!」
「私が担当をしていた頃と比べて成長はしているんだろうが……お前がどう思おうと私に反論するのは許さん」
「嫌って言っ……!」
俺の腕を力いっぱい捻りながら掴み、俺が折れるのを待っているのか、凄んだ顔で睨みつけられる。俺も俺で折れる気はない、掴んでいるその手を離そうと必死で腕に力を入れる。
「痛えな……っ、離せ!」
「お前が折れれば良いだけの話だ」
嫌な汗をかいてきた頃に、騒ぎに気付いたのか偶然なのか。オミが、俺の部屋に入ってきた。今の光景を見ながらも、動じる様子は全く無い。
「ホゼ」
「……邪魔だ」
「少年の世話は私の仕事だ。それとも何かあったか?」
「……チッ」
掴んでいた俺の腕を離し、すぐさま部屋を出て行く。思い切りドアを閉めたことで、大きな音が響いた。その扉を見ながら、オミは溜め息を吐いて俺の方に向き直る。
「……何だ、食ってなかったのか」
状況を把握した言葉にも、目を合わせないよう顔を逸らす。オミは何も言わずに、俺がホゼに掴まれていた腕を見る。俺はその痺れから、見なくても分かる。強い力が加わったことで、腫れるように真っ赤になっている。
「少年」
「何……痛ぁあっ!」
オミが軽く握っただけで、同じような痛みが走った。
「早く冷やした方がいい。これを貼れ」
「……ありがとう」
差し出されたのは冷たい圧定布だった。オミはその上からテープで巻き、剥がれないようにしてくれた。
「何で、あいつみたいに扱わないんだよ」
一番の疑問だった。ホゼは俺を道具のように扱おうとして、すぐに暴力を振るう。しかし、オミは正反対に、俺を人として扱い、気遣っている。
「こんな話、信じて貰えるかはともかく。私もここに来てから暫くは同じような感じだった。まともに付き合っていこうとは思っていない」
その表情は、歪んでいた。その目だけで、塗りたくられた嘘ではないことくらいは察することができる。
「言っておくが、私以外の者はホゼを一番に考える奴らだ。それに、私も一応少年の敵……」
「ねぇ」
これは俺が感じたことだが、オミが何故ここに居るのか不思議だった。もしかして、俺と同じ状態にあったのではないかと、そう思うのは都合が良すぎるだろうか。
「今の話に、どっか嘘があるの?」
「は?」
俺はオミをまっすぐに見る。オミも、応えるように俺を見返す。オミは何を思いながら俺を見ているのか。
「ふん……面白い」
─少年には、嘘は必要ない。
─どこか、ついて行きたいと思わせる。
「……面白い?」
「……あぁ、いや。嘘を言ったつもりはない」
それを聞いて、俺は少しだけ気持ちが軽くなって、つい笑みをこぼす。ここに来て気が落ちていたのに、オミを前にして話をすると、不思議と入っていた力が抜けていた。
「そっか。……俺、飯いらないから持ってこないで。一人にさせて」
「ホゼのことは抜きにしても、飯は食った方がいい。飲み物だけでも」
「悪い、食べたくない」
そう言って、俺は布団に潜り込んだ。その後の受け答えもしなくなった俺を見てか、オミも仕方なく応じた。その際に。
「……少し前に外に出ていたんだが。少年の親者が四人、向かってきていたぞ」
「えっ……?!」
その言葉に動揺し、俺は体を起こす。しかしオミは、俺の言葉を聞かずに、部屋を出て行ってしまっていた。
「……四人」
三人は、予想ができる。ガネさんにラオ、穏慈だろう。あと一人は、一体誰だろうか。ウィンがついてきていることも、考えられる。
「……俺も何か、考えないと……」
何かあれば、自力でも脱出できる。考えないと。早く、何かが起きる前に。
少年の様子を見た後しばらくして、廊下でホゼと遭遇した。経過と、少年に昼用の飯を用意しないことを伝えると、険しい顔に変わり、声を荒げた。
「勝手な真似を……! ザイヴがどう言おうと、私の言うことを聞いていればいい!」
「少年の心情を考えれば、それも当然のことだろう」
昂る感情で私を突き飛ばし、ズカズカと乱暴に少年の部屋に向かおうとする。それを、何とか止められないものかと試行錯誤する。
「やめておけ」
「どういうつもりだ」
「押し付けは逆効果だろう」
「いつからそんな偉くなりやがったんだ!」
互いに譲らない言葉の攻防が続く中、再度強く押し退けると、あからさまな苛立ちを見せ、目の色を変えた。
「殺されたいのか」
私も負けじと威嚇の目を向ける。その静かな間が作られたすぐ後に、小さな物音が聞こえてきた。
ホゼと同時に音がした方を見ると、何かが走り去って行くのが見えた。
「少年……?」
今の状況の中で、その行動をとる者は少年以外に考えられない。ホゼの機嫌など構っている場合ではない。すぐにその場を離れ、人影を追った。
オミとホゼが、言い争っている場を見てしまった。俺がオミがやるべきものを否定したことで生まれた場、つまり俺があの場を作ったも同然だ。
「はぁ……はぁ……」
さすがに約一日分の食事を食べていない体ではバテるのも早い。その上、精神的に参っている今、部屋に辿り着く前に、体は壁を伝って床に倒れた。
「何とか……あいつを……」
「少年」
背後からのオミの声に、思わず気が抜ける。敵地に変わりはないのに、ホゼが目の前にいる時よりも、断然居心地は良い。
「ごめん……息詰まりそうで、歩いてたんだけど……」
「ん? 謝る必要はないだろう」
「いや、……ごめん。あ、のさ……今だけ、ちょっとだけ、話し相手になってくれない? 一人になりたいなんて言っといて何だけど……」
「あぁ、勿論だ」
それから部屋に戻って、暫くはオミと話をして時間の経過を待った。オミが気を利かせて、俺にも話しやすいように他愛もない話を振ってくれていた。
そのうち、時間の事など気にも止めなくなった頃に、ホゼの大きな声が聞こえてきた。
「はぁ……すまん。一度飯を運んでこよう。食べられるのなら少しは食べた方が良い」
「……うん、そうする」
そう言い残して一度部屋を出て行ったが、そう時間も経たない内に、オミは飯を運んできた。食事を見ただけで何となく気が引けてしまっていると、オミが口をつけた。
「あれ、オミがここで食べるのか」
「あぁ。ホゼの暴力も見たくはないし、見張ってやる」
その気遣いには正直救われるが、それが知られれでもしたらそれこそ逆効果ではないだろうか。気が立つとすぐに手が出るようだし、そういう面で申し訳なくなる。
「ところで、これは飲めるか?」
「……え? んー……」
俺の話はさておいて、オミは自身が食べているものとは別に持ってきていた、野菜を混ぜた飲み物を前に差し出し、通してあるチューブを俺の口に突っ込んだ。
「ん゛!?」
反射的に吸い上げ、飲み込む。それを見て安心したのか、オミはやんわりと笑みを浮かべた。
「何だ、飲めるじゃないか。美味いか?」
「うん……」
オミが時々見せる優しい顔を見て、オミを信じたいと思う俺がいる。そのオミは、マグを俺に持たせ、僅かに食べ残した食事を持つと立ち上がった。
「……また、何かあれば呼んでくれ」
外の様子を確かめ、オミは静かに出て行った。静まり返る部屋でひと呼吸おいて、部屋を出ていた時に見たものを整理する。
この建物は、一階に行くことが難しいことが分かった。二、三階は吹き抜けで繋がっていて、行き来は階段でできるものの、二階から一階へ向かえる階段はその近くには見当たらなかったことから、その方法は限られている。
肝心の方法を探す前に引き返す事になってしまったために、その先は不明瞭だった。
「……シャワー浴びてぇ……」
全く頭になくて忘れていたことだが、部屋にはシャワールームがない。これだけ冷汗をかいているのに、昨日から衣服を変えていない着替えられないことも、憂鬱の一つだった。
崚泉に向かって歩きながら、ソムは穏慈くんを質問攻めにしていた。
「大変そうですねー」
「あぁ……」
「ラオ君の素、結構出てきましたね」
「……うん」
ザイ君が心配でたまらない、その心情が、口数の少なさに表れていた。友人が無理やり敵の手で連れていかれたことを考えれば、無理もない。
「分かってるとは思いますが、自分に負荷を与えすぎないでくださいね。下手をすれば、死んでしまいますから」
無言で首を縦に振り、僕の言葉に応える。気にはかけながらも、無理に話すことはせず、暫く歩き続けた。そのうち、ひとつの町が見えてきた。この豊泉という町を通らなければ、崚泉には辿り着けないとソムが言う。
「意外と豊泉は広いんだよ。人も多いし、お店も沢山あるの」
今は正直、この場で悠長に時間を割けないが、ソムは生まれがこの辺りということもあり、周辺をある程度案内してくれた。
「ね、みんなお腹空いてない? たくさん歩いたし、腹が減っては戦はできない、てわけでちょっと食べよ」
確かに空腹感はある。つまむ程度に、と僕とラオ君はソムに続くことになった。
近場で購入した饅頭のような食べ物を口に含み、一口飲み込んだ途端、突然糸が切れた感覚を覚えた。その場に屈み込み、大きくため息を吐いて、俯いた顔を更に手で覆った。
「ぁぁあ……ザイ……。飯も食ってないってまじかぁ……」
『……保護者か』
「親ですか」
ここまでほとんど無心で歩いてきた。俺の言葉に二人が同時に突っ込んでくるが、俺は気にしていない。無理やり押し込めていた“心配”が、ここに来て顔を出した。
「もうじき着くから、すぐに会えるよ」
「見てて思いますけど、もはや彼女か何かそのレベルですね」
「いや、ガネさんさすがにそれは言いすぎだよ……」
でも、この状況でソム教育師がいて助かった。俺たちだけで来ていれば、更に時間がかかっていただろう。
「それだけ仲が良いのは良いことだよ。……大事なんだね」
「……うん。それは、そう」
「……じゃあ、ちょっと急ごうか。貴方、怪異だって言ってたよね。三人、大丈夫?」
赤い髪の男と会ってから急ぎ足になりながら、ガネさんと穏慈は、穏慈の存在について、ソム教育師に話をしていた。それを知っても、彼女は特に気にする様子もなく、それなら頼りになる、何て言って、笑ってくれた。
その怪異という特性に触れてきたのには、理由があった。
『あぁ。どうかしたか』
「崚泉はこの国の中で一番危険と言っても過言じゃない。崚泉は、周りにある豊泉や昂泉に比べて低い平地にある上に、燐海の水が流れ込んでくる評湖が近いの。何十年かに一度、その水が溢れてくることがある。だから人は住んでいないんだけど、時期的に危ないかもしれない」
ホゼがそこを選んだ理由が、その水害におけるものだったとしたら、ホゼの言う盛大な迎えというのは、想像がつく。
─待ってろよ。もうすぐ助けるから。