第一話 黒ノ針ノ動ク刻
体の背面に、僅かな冷たさを感じる。
意識を戻した俺が見る世界は、辺り一面に広がる真っ暗な闇。瞼を上げていることが嘘のように、視界が遮られている。そんな錯覚が当然のような場所に、どういうわけか俺の存在がある。異様に現実味のある夢を見ることもあるだろうと、似た感覚に自分を納得させてみるが、それ以上にそこに生きている感覚をはっきりともっている。
これを、本当に夢として納得して良いものかどうか、分からなくなった。付け加えれば、今までどこで何をしていたのかということも、曖昧だった。
(ここは、……どこだ?)
自然と状況を確認しようと、意識が体をうつ伏せに回す。そのまま立とうと試みるも、上方に何があるのか、視界の悪い中で頭を打つ。衝撃で体を縮めた。
「痛い……」
痛む頭部をさすりながら、確認も兼ねて辺りを見回してみるも、見ている世界は変わっていなかった。ただひとつ、狭い空間のような場所にいることだけを把握することができた。
しかし、それ以上の情報は五感が通じず、全く取り入れることができなかった。この闇に放り出されてどれくらい経つのだろうか。いつまでも状況が変わらないことに、俺はどうすることもできないまま呆然とするしかなかった。
そんな時だ。何の前触れもなく、目の前に目を瞑りたくなるほどの眩い光が現れ、柱のように射した。闇から解放されることを意味していると信じ、手で影を作りながら空いた手で光に手を伸ばす。
『 』
その光に触れるか触れないか、そこまで手を出した時。はっきりとしない音のような、声のような、不可解なものが耳に届いた。その音は無意識下にある好奇心を掻き立てたのか、当然のようにそれを探そうと周囲へ耳を澄ます。すると、応えるようにまた、聞こえてきた。
『 る』
『 て ル』
徐々に鮮明に聞こえるようになったそれは、濁ったような確かな声で、ここに俺以外の何かがいることを示していた。何度も声を発するもののそれが何なのか、純粋に気を引き寄せられて耳を傾けた。
そうして、聞こえてきた言葉は……。
─喰ッテヤル。
......
「ぅわああああ?!」
勢い良く体を起こした拍子にバランスを崩し、眠っていたベッドの淵に体をぶつけたと同時に大きな音が耳についた。
「痛……」
確かに聞こえた気味の悪い声と暗闇は、すでにそこにはない。
覚めたということは、やはり夢だったのだろう。痛む腹部の辺りをさすりながら周りを見ると、俺の部屋であることは間違いない。安堵してため息を吐き、呆ける頭であの夢を思い返す。夢だったと納得しても、どこか生々しいものだった気がして、何となく落ち着かなかった。
あの闇は、一体何だったんだろうか。覚めてしまった今、それは知り得ないものだった。
「ザイ、居るかー?」
俺が起きたタイミングを見計らうかのように、俺の許可無しに部屋の扉を開ける金髪の男。当然のように俺の目の前まで来ると、俺を覗き込んできた。
「……何、ラオ……」
「何、今起きたって顔だね」
その男、ラオが呼んだ通り、俺は「ザイ」と呼ばれている。本名はザイヴだが、呼びにくいためその通りに呼ぶ者は少ない。そして、俺は自身の姓についての記憶はすっぽり抜けている。それでも生きる上では問題ないと、あまり気にしてはいない。
「ね、今から試合しよう。ザイにはあんまり手抜かなくていいからやりやすくて」
「ええー、俺飯食いたいんだけ」
「試合の後々! 俺も食ってないから、同じハンデだよ」
俺が現在寝起きという一番のハンデを、ラオは「体を動かせば頭も起きる」と、俺を引っ張っていった。
「ったく、俺の話聞けよ。ダチじゃなかったらぶん殴ってるぞ」
ここは、銘郡という地にある剣術屋敷。俺たちは地外の親元を離れてここで暮らしているが、特別異例ではなく、在籍する半数以上がここで生活をしている。
剣術屋敷とは、名の通り剣術を学ぶことのできる屋敷だ。加え、その他一般教養を始めとする多様な学を、基本、応用、特殊等の総合レベル別で数十人のクラスに分かれて、講技や座学を受けている。そんな屋敷にいくつか設備されている実習広間の一つに、ラオに連れられてやって来た。
ちなみに、現在は定期的に組み込まれる長期休暇の真っ只中。つまりそういった時間がない期間で、課題なんていうものも、剣術が鈍らなければ問題はない。
「そう言いつつ付き合ってくれるの優しいよね」
「……あっそ」
この期間中、ほぼ毎日のようにラオと行っている試合は、今日で何回目を迎えるのか。素手の時もあれば、講技で使う竹剣を使うこともあるが、慣れもあってラオの動きを読むことに時間はかからない。今日は素手での試合、腕を大きく振り、ラオの首の寸前で止めた。
「わっ、……いつも以上に早いね」
「……そうかな」
一呼吸おいて、試合を再開させようとした時だった。どういうわけか、鼓動が激しく脈打つ感覚が唐突に俺を襲って来た。眩暈のように気持ち悪くなり、自分の両手、足、様々な部位を見るが、これといって変わった点はない。うまく説明できない感覚だ。
『 』
「─!」
何か、聞こえた気がする。あの夢で聞いた、不気味な声と同じだろうか。同時に、あの時打った頭に痛みが走った。ラオも俺の急なただならない様子に驚いて、座り込んだ俺に駆け寄って来て、背中をさすってくれていた。心配する声も、俺には届いた。
「ザイ? 大丈夫か?」
『暗 求メ 我ヲ よ…』
『我 暗黒ノ 闇 存する』
声が聞こえるたびに頭に響くようで、脳が掻き回される感覚に苛まれた。その直後、俺の意識は闇に投じられ、頭部の痛みも、感じなくなった。
......
再び瞼を上げた時、そこには俺が既に『存在』した、あの夢の闇が広がっていた。視界のはっきりしない、ただ続く黒の世界。短時間に二度もこの夢を見るなんて、俺もついていないと思う。
しかし、さっきと確実に違うことがあった。顔を上げた先に、『何か』が、俺の前にしっかりといたのだ。
「……? お前……」
大きな、少なくとも人間ではない生き物。その生き物は、目を光らせながら徐々に俺に近づいてきた。咄嗟に、体を引き摺るように後ずさりをする。俺の心が恐怖で満ちている、それは分かり切ったことだった。
『そう怖がるな』
「……え、しゃ、喋っ……」
先程まで全くといっていいほど聞き取れなかった声が、今回は聞き直す必要もないほど鮮明に聞こえてきた。怖がるなと言われたものの、見たことのない生物を前にして、怖くないと言い切れるほどではない。見た限りだと、かなり大きな二股尾の狼、といったところだろうか。
『……我は、ここ〈暗黒〉に属する魔だ。主らが言う“怪異”……ということだ』
怪異……というと、化け物や妖怪、魔物のことだろう。それがなぜ、こんな闇の中で俺の前にいるのか。理解するには、情報があまりにも足りなさすぎている。
『お前が思うことも分かるぞ。我のような存在がなぜ前に居るのか……。それはお前が、主人に成る存在としてここにあるからだ』
その言葉は、俺の思考を一瞬で停止させた。そう言い切る目の前の怪異と俺の間の関係性に、全く見当がつかない。だからこそ、コイツを知ることが怖いと思った。
『すまんが、時間がないようだ』
薄れていくように、その怪異は消えていく。それに従い、俺の意識も同様に霧のようにはっきりとしなくなる。それは、まるで眠りについていく時のように、どこか穏やかな感じだった。しかし、残された怪異の言葉は、俺の頭に溶け込むようにして入って来た。
─再び、主の前に現る時。
主に、選択権はないだろう。
......
「……」
闇から覚めた。視界が映すのは、上から射す眩しいほどの電光。何度か瞬きをすると、見える景色がラオの顔面に変わった。
「大丈夫?! 急に意識失って……」
あの怪異が言っていた〈暗黒〉とやらの世界で意識があった俺には、意識を失っていたなんて感覚はない。しかし、俺が向こうに行っている間、体はしっかりとここに残っているらしい。傍から見ればそうとしか見えない状態。不思議な感覚だった。
「どれくらい、経ったんだ……?」
「二時間だよ。びっくりしただろ?! どうしたんだよ、ザイらしくない」
「分かんないけど……気分悪くなった、かな……」
俺自身も驚いたとしか言えない。また、あの闇にいたのだから。どのような場所なのかは定かではないが、夢ではないということが、今の俺の中で判断されている。そして、あの〈暗黒〉に生きている魔–怪異の存在も、確証はなくとも現実として見ている。
俺に、何が起こっているのか。起きたことは唐突すぎて、頭がついて行くことを拒否しているかのようだ。
「……ごめんな。今からでも飯食おう。そんで、今日はゆっくりしよう。調子が悪い時もあるよね」
「あぁ……。そうする」
ラオの心配を素直に受け取り、気にしなくて良いと伝えながら、頭の中は俺に起きている出来事のことで埋まっている。
そんな俺が、再び夢の世界に入った直後。あの怪異の言った通り、俺は、自分に突きつけられる事実を、実際に見聞きすることになる。