第百七十一話 黒ノ世ノ進ム刻
朝を迎えた俺は、いつもよりも静かな空気を感じていた。少し、寒い気もする。慌ただしかった日々も、騒々しかった声も、耳には入ってこない。
体を起こし、物足りない日常に身を委ねる。いつも通りの身なりなのに、見回しても、あの大きな姿は見えない。
─終わってしまった。
これで良いはずなのに、やはり、あったものがない、という現実には慣れない。
それは、裏の存在だけではない。最も俺にとって身近だった者。あの優しくて、心配性な友人は、二度と目の前には現れない。
居たたまれない俺の足は、無意識に、その部屋に向かっていた。
目の前に見えた、人のいない暗い部屋。鍵のかかっていない室内に明かりを灯し、中に入る。本人がいないだけで、至って変わらない。けれど、まるで時間が止まっているかのように、冷たかった。
「……ラオ」
音一つない場に、紡いだ名だけが響いていく。部屋に溶け込む俺の声は、誰にも届かなかった。
「……っ」
声にならない嗚咽と、虚無は、俺の心を掻き乱した。
あれから耐えていたものが、ここに来てしまったことで、一気に現実を見せ、溢れ出す。
体の力が抜けて膝をついた俺は、強く握った拳で、止まらない涙をぬぐい続けた。
落ち着いたのは、ラオの部屋に入ってから一時間が過ぎた頃だった。
枯れた涙が頬を引きつらせ、目元に腫れを感じさせる。ゆっくりと立ち上がり、もう一度部屋を見渡す。
何となく、部屋にあるものに手を伸ばす。箪笥や、ソファ、ベッド。あらゆるものを目にして、ラオの死を否定してしまわないように必死だった。最後に机の引き出しを開け、中の物を出していく。ラオが励んでいた勉強の書物が、綺麗に何冊か出てきた。
その間から、小さな紙のようなものが落ちる。拾い上げようと屈み、それを目にし、手が止まる。
貝海に行った時に、四人で撮ったフォト。俺の部屋の箪笥にも仕舞ってあるそれは、ラオの死を肯定させた。
あの時には考えもしなかった結末に、辿り着いてしまったことも。
けれど、だからこそ。ラオが生きていたことの証。俺たちが、ラオといたことも、追ってきたことも、共に戦ったことも、全て記憶に刻まれている。
フォトを机上に置き、俺は、不思議と笑えていた。
「また会える気がする、お別れの言葉。……何でそんな優しいこと、俺に植え付けたんだよ。まだ俺は……お前とお別れなんかできない。だから、俺は“さよなら”は言わない。……また、会えるように」
部屋に背を向けて足を進め、ドアノブを握る。力を入れた手は、ノブからは離れない。握ったまま、体は部屋の方に向き直った。
こうして暮れるのは、これで最後にするために。ラオが生き、遺したことを肯定するために。
「……俺が、ラオを守る。ラオの記憶も、思いも、全部背負う。表裏の世界を背負えたんだ、お前一人背負うくらい、余裕だよ」
届かないけれど、姿はないけれど、ラオが持っていた全てを、俺が抱えよう。
そうすれば、少しくらい救われてくれると思うから。
「……また、ね」
その一言を残し、部屋は再度静まる。俺がいなくなったその部屋は、再び時間を失った。
─しかし、同時に。冷たい風は、なくなった。
初の五時。医療室には、事の全てを知る面々が揃っていた。俺が入ると、真っ先にウィンが心配して駆け寄ってきた。
俺の目が腫れている、疲れているなど、ウィン自身も受け止めきれていない現実があるだろうに、俺を気遣った。
「大丈夫だよ。……強がる理由はないけど、前を見るって決めたから、大丈夫」
「……あはは、泣いた後の顔して何言ってるの。……来るの、待ってたよ」
「うん、ごめん」
目の前に並ぶ数人の教育師と、ルデ。事の顛末をまとめた書類は、ゲランさんの手によって完成されていた。外部に漏れても問題ない程度で、しかし詳細に纏めている、という。その少し高さのある書は、虚無を覆した。
「お前には、まず謝るべきだな。ザイヴ」
そう発言したのは、ホゼだった。事件を大きくしてしまったと、ホゼなりに悔いているのか、その拳にはかなりの力が入っているようで、小刻みに震えていた。
「……あんた、は、被害者だろ……」
「結局、雪洋の手の上で踊らされた挙句、守り切れなかったし戸惑わせた。すまなかった」
しかし、言葉に心のぶれは感じられない。師として、俺を励ましたいのかもしれない。
「……終わったことだよ。それに、……あんたが屋敷を裏切ったんじゃなくて……良かった、と思うし」
「そう言ってもらえるなら、ありがたい」
よく頑張ったな、とつけ加えて俺を褒め、肩を数回、軽く叩いてきた。
もちろん、悪い気はしない。それに対し、今できる精一杯の笑みを返した。
それから、ルノさんが口を開いた。
「今回の事件と、直接の関連はないが。言わなければいけないことがある」
その顔は、深刻だった。
ルノさん自身がもつ事情で、俺たちも知っておくべきことだという前置きを踏まえ、その話を聞いた。
それは、ルノさんが抱える奇病について。
額にある痣が意味するものは、「怪我をすると治癒力を高めるために寿命が削られる」という、不可解な病だった。
それに伴い、ルノさんの外観年齢は二十代後半から変わらなくなっている、そういったものだった。
事が全て終わって、余裕ができた時に話そうと思っていたというが、幾度と力を貸してくれていたルノさんは、もちろん無傷ではない。深い傷を負ったこともある。
関係がないことはない、俺たちの事柄に踏み入ったことで、その命がいくらか制限されてしまったことになる。
「まあ、このタイミングで言うのはどうかと思ったんだが。俺も本部の人間だ、いつ何があるか分からない。こうして顔を揃える機会も、なくなるだろうからな」
「でも、関係ないことない。俺たちに関わって、なくならなくていいものもなくなったってことだろ。……俺はこれ以上、必要以上のものが無くなるのは、嫌だよ」
俺のその言葉は、ルノさんにとって予想外だったらしい。少し困った表情を浮かべ、考え、そしてやっと。俺に返した。
「……ああ。そうだな。黙っていて悪かった」
すると、それに対して仕方がない、と言いながら、ガネさんがルノさんの腕を軽く叩いて、ルノさんの前に来た。
その表情は、呆れ顔だ。
「今度は僕が、ルノを心配しないといけなくなりましたね」
「何言ってんだ、俺は今でもお前のこと心配してるぞ。無理する上に、今じゃ自分を犠牲にしようとするんだから、それはもう昔以上に」
「ルノも心配性だね。まあでも無理ないか、昔からガネのことをずっと気にしてたもんね」
三人は、そのまま顔を合わせて数年前のことを話し始めた。ルノさんが出す、ガネさんの屋敷生の頃のエピソードは、僅かに俺にまで届いてきたが、そこに首は突っ込まない。
「少年、私はあまり役に立てなかったな」
「え? いや、裏で凄い活躍してたよ。助かってた。……それより、ルデだよ。俺を待つまでは良いけど、何でまだいるの」
「何じゃ、つれないガキじゃなあ。貴様を放って行くには、少々後ろ髪を引かれてならん。やはり、過去の吾と重なってしまうのじゃ。……心配せんでも、吾が満足すればいずれシンマの元に帰る。昨日も言ったが、人の身でよくやったものじゃ。吾はその器を認め、この先も貴様の助けになろう。この胸元に飛び込んでくるが良い」
前開きの衣服の下に覗く、何重にも巻かれた胸から腹にかけての包帯の上に、手帯をはめた拳が重なる。ふんぞり返るほどの口振りだが、見た目は痛々しい。
「傷だらけで包帯巻き巻きの体に頼りたくねえなぁ……」
「何じゃと、それはあの灰色もそうじゃろうに!」
「それもそうか。聞かなかったことにして。……ありがと」
偉そうに言うくせに、関わらないと言っていた人間の俺を助けたルデは、思いの外優しい言葉をくれる。その想定から外れた発言は、どこか落ち着きに欠けた。
そこに、ゲランさんが示したのは、後方に来たガネさんの存在だった。俺がその誘導に従ってガネさんを見ると、小声で、「少しいいですか」と言って、俺を部屋の外に連れ出した。
「何」
「確認することがあります。その答え次第で、方針が変わるので。……君は、ラオ君の代わりに師を目指してもいいかも、そう言いましたよね。その心、そのまま持ち続けますか?」
「あ……それ、は……」
ラオがなれたかもしれない、教育師。それは、今の俺では間違いなく届かないもので、自分で言ったことなのに、悩んでしまう。けれど、ここに来る前に決めたこと。
ラオを背負い、守る。
それならば、答えは自ずと決まる。
「……俺、ラオを守るって決めた。だから……頑張る」
「……分かりました。それなら僕も、ザイ君とラオ君のために、腕を振るいましょう。多少のスパルタは覚悟してくださいね?」
「……お手柔らかに」
教育師になる。それは、簡単な道ではない。
しかし、そうならなければ、俺は俺を許せそうにない。
そして、俺自身が決めた、ラオとの一方的な約束にも反してしまう。
俺の次の目標は、決まった。
「それから、もう一つ。ラオ君が、どうしても曲げられなかったことの話。ザイ君とウィンさんには、聞いてもらっておいた方が良いかと思うので。解散したら、僕を訪ねてください。多分、……泣かせてしまうでしょうね」
「……ガネさんは、ラオから直接聞いたんだな。……うん、多分、ラオのことだから。俺たちに心配かけたくなくて、あんたに話したんだと思う。俺たちのために、動いたんだと思う。だから、教えて。全部、俺もウィンも聞くよ」
「はい。……ザイ君」
「……まだあるの?」
「僕は、この一件で、たくさん情に触れ、揺さぶられました。……ザイ君にとっては、酷く重い日々だったと思いますけど、逃げずに立ち向かって、今、この場に立っています。本当に、頑張りましたね」
思いがけないガネさんの優しさ、思わず目を大きく開く。「それだけです」と言って先に医療室に入るガネさんの背を見ながら、閉じていく扉を呆然と眺める。
(……最初から最後まで、ガネさんは俺たちの味方でいてくれて、助けてくれた……)
そう、本当に、最初からずっと、支えてくれた人だ。ガネさんが味方ではなかったとしたらと考えると、想像もつかない。
多くの屋敷生の中にいる俺とラオに、何度も何度もその多才な力を発揮してくれた。
ガネさんには、言わなければならない。俺たちが返せる、最大限の言葉を。
同日。屋敷生たちは各々が長期休暇を自由に過ごしている。
その一方で、灰色の師を訪ねる、二人の屋敷生がいた。その自室は、師によって開けられ、二人は招かれる。
友人が師に遺した、言の財を聞くために。
全てを耳に入れ、心に触れ、少年と少女は、悲しさを交えながらも笑った。
─彼らしい。そう言って。
その言葉の中に出てきた言葉を、少年は彼に代わって、また、少年自身の気持ちとして、師に告げる。
友人が、戦が終わってから師に言うはずだった、その言葉を。
残酷な時は、意思にそぐわず過ぎていく。
彼らは、その巡る時に従って、また日を繰り返す。彼らが訪れた都市や、村、森にも。それは変わらず降り注ぐ。
共に見るはずだった日々に、欠けたものは確かにあるけれど、少年が成し得たことの事実は、その生をも証明した。
また、次に進むための大きな歩みを止めないために。少年たちは奔走する。
始まりがあれば終わりがある。ならば、終わりを迎えたら、また始めよう。表裏も、明暗も、同じように繰り返そう。
─少年は、師として立つために。少女は、少年を支えるために。その師は、彼らを守るために。
それぞれの立場で、出会ったものを忘れないように。
次へ。そして、また新たな次へと、繋いでいく。
闇黒ノ章 了
暗黒と少年 End.